信長死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/06 06:04 UTC 版)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で明智光秀によって信長が討たれた時、家定の所在は明らかではない。しかしながら淡路行きの準備をしていた為か、京からは離れた場所に居たようで本能寺や二条御所には入らず、難を逃れた。のち中国大返しで畿内に驚異的な速度で戻った羽柴秀吉の軍に合流し、6月13日の山崎の戦いに参加。 以後は秀吉に従って天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参戦。生駒親正・山内一豊らと共に尾張は柏井の砦を守備している。天正15年(1587年)の九州征伐にも参加した。
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