偽ドミトリーのモスクワ占領とは? わかりやすく解説

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偽ドミトリーのモスクワ占領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 02:32 UTC 版)

動乱時代」の記事における「偽ドミトリーのモスクワ占領」の解説

1603年偽ドミトリー1世、つまり一連のドミトリー僭称者最初の人物が、自分こそがロシア皇帝位の正当な継承者であるとしてポーランド・リトアニア共和国現れた。ドミトリーは、兄である先帝がまだ亡くなる前に刃物による不審死遂げており、それはゴドゥノフ差し金による暗殺だと思われていた。 しかし、ドミトリー成り済まし謎の人物現れると、多く人々が彼を皇帝位正当な継承者見なすようになった偽ドミトリーは、ロシア国内でも、また、国外でも特にポーランド教皇領では支持集めたポーランド・リトアニア共和国諸勢力は、彼をロシアへの影響力を拡大する道具とするか、少なくとも、彼を支持することで何らかの見返り得ようとしていた。教皇は、東方正教会ロシアに対してローマ・カトリック勢力拡大する機会考えていた。 同年数ヶ月後、ポーランド勢は4000人という小兵力で国境越えた軍勢には、ポーランド人リトアニア人ロシア人亡命者ドイツ人傭兵加えドニエプル川ドン川流域コサック加わっていたが、これは、ポーランド・リトアニア共和国ロシアへ介入一連の偽ドミトリーをめぐる戦乱はじまりであった。この時点ポーランド・リトアニア共和国は、国王ジグムント3世介入反対していたこともあり、ロシア正式な宣戦布告はしていなかったが、一部の有力貴族マグナート)が偽ドミトリー支持し後々見返り期待して兵力資金提供していた。偽ドミトリーポーランド貴族女性マリナ・ムニシュフヴナ代理結婚式花婿代理人立て花婿不在クラクフ挙式された)を行った1605年ボリス・ゴドゥノフ亡くなると、モスクワへ入城成功したボリス息子ツァーリとなっていたフョードル2世は、偽ドミトリーモスクワ入城時にとともに殺害された。一人残されフョードル2世の姉クセニヤは、数ヶ月偽ドミトリー慰み物にされたあげく、その花嫁マリナ・ムニシュフヴナモスクワ入りする直前修道院入れられた。

※この「偽ドミトリーのモスクワ占領」の解説は、「動乱時代」の解説の一部です。
「偽ドミトリーのモスクワ占領」を含む「動乱時代」の記事については、「動乱時代」の概要を参照ください。

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