偽書説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 04:20 UTC 版)
明治・大正期の史家・徳富蘇峰は「関ヶ原役中の一大快文字だ。否な豊臣の末期から、徳川の初期にかけて、かかる快文字は、ほとんどその比類がない」と絶賛したが、1980年代には桑田忠親は「後世の好事家の偽作にすぎない」、二木謙一は「『直江状』と称する古文書までが偽作されたほどである」と唱えた。
※この「偽書説」の解説は、「直江状」の解説の一部です。
「偽書説」を含む「直江状」の記事については、「直江状」の概要を参照ください。
偽書説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:57 UTC 版)
『古事記』には、近世(江戸時代)以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之、宝賀寿男らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことや、序文の不自然さなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている。 偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘する。また稗田阿礼の実在性が非常に低いことや、編纂の勅命が出された年号の記載がないこと、官位の記載や成立までの記載が杜撰なことから偽書の可能性を指摘している。なお「偽書」とは著者や執筆時期などの来歴を偽った書物のことであるから、その意味では序文が偽作であれば古事記は「偽書」ということになる。もちろん、その場合も本文の正当性は別の問題である。 本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容や、延喜式に見えない神社が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころ、または鎌倉時代の成立とみなす。この説には後世に序文・本文の全部を創作したとする説と、『日本書紀』同様の古い史料に途中途中「加筆」し続けたものとする説がある。また『新撰姓氏録』でも『古事記』本文に登場する系譜伝承が引用されていないなど、その成立に不審な点が多々ある。 このうち、本文偽書説のうち全部を創作したとする説は上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣の中でも、『万葉集』『日本書紀』では既に消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』には残存するからである。なお序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。 序文偽書説の論拠に、稗田阿礼の実在性が低く、太安萬侶のような姓の記載がないことが国史として不自然であること、官位のない低級身分の人間を舎人として登用したとは考えられないこと、編纂の勅令が下された年の記載がないこと、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに 左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳 とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。しかし、偽書説においては太安萬侶の表記の異同が問題ではなく、安萬侶自身が『古事記』編纂に関与したことが何ら証明されていないことが問題とされる。 また、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、『古事記』成立当時には、既に『古事記』で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている[誰?]。
※この「偽書説」の解説は、「古事記」の解説の一部です。
「偽書説」を含む「古事記」の記事については、「古事記」の概要を参照ください。
偽書説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:44 UTC 版)
今井有順:「推古朝以後の記述が見られる」 徳川光圀:「聖徳太子の撰といいながら、天皇諡号を記している。天皇諡号は淡海三船が撰したものである。……応仁の乱以後に卜部氏が勝手に作った偽書」 多田義俊は『旧事記偽書明証考』(1731年)で偽書説を主張。 伊勢貞丈は『旧事本紀剥偽』(1778年)を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。 本居宣長は『古事記伝』巻一において、「"舊事本紀と名づけたる、十巻の書あり、此は後ノ人の偽り輯(アツ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子命(シャウトクノミコノミコト)ノ撰び給し、眞(マコト)の紀(フミ)には非ず"……"但し三の巻の内、饒速日命の天より降り坐ス時の事と、五の巻尾張連物部連の世次と、十の巻の國造本紀と云フ物と、是等は何ノ書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし、"こうした記事は古い文書の記事を採用して書き綴った記録であり、後世にほしいままに造作した捏造の物語ではない。本居宣長はこう推定している」 栗田寛は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}『国造本紀考』(文久元年、1861年)のなかで徳川光圀が「後人の贋書」とし、信用できないと述べたと記録している。[要出典]
※この「偽書説」の解説は、「先代旧事本紀」の解説の一部です。
「偽書説」を含む「先代旧事本紀」の記事については、「先代旧事本紀」の概要を参照ください。
偽書説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 08:16 UTC 版)
上記のように班固がすでに仮託を疑い、唐の柳宗元は「辯文子」を書いて他の書からの剽窃が多く、往々に文義が合わない箇所があるのを問題にした。清の姚際恒『古今偽書考』は柳宗元に賛成し、全部が偽書とは言えないが、おそらく李暹が加えた他書からの内容が混ざっているとする。清末の陶方琦は現行の『文子』のほとんどが『淮南子』からの引用であることを指摘し、『漢書』のいう『文子』とは異なり、魏晋以降の人が『淮南子』を剽窃して作ったものとした。 ところが、1973年に定県八角廊村(現在の河北省定州市南城区街道八角廊村)の前漢の中山懐王劉修の墓から『文子』の竹簡が発見され、その多くが現行本と一致したため、少なくとも魏晋以降の偽書とする説は成りたたなくなり、現在は再検討が行われている。
※この「偽書説」の解説は、「文子」の解説の一部です。
「偽書説」を含む「文子」の記事については、「文子」の概要を参照ください。
偽書説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 01:45 UTC 版)
「アインシュタインの予言」の記事における「偽書説」の解説
2005年(平成17年)、ドイツ文学研究者の中澤英雄・東京大学教授(当時)は、この発言がアインシュタインのものであるという確定的な典拠は存在せず、またアインシュタインの思想とは矛盾する内容であると発表した。中澤は、この「予言」の原型を宗教家の田中智學が1928年(昭和3年)に著した本『日本とは如何なる國ぞ』の一節であると指摘した。以下にそれを記す。 故高崎正風氏が特に私に傳言して呉れと話された談に、曾て海外へ派遣された海江田子爵が丸山作樂氏を伴れて獨逸のスタイン博士を訪問した時、スタイン博士が、日本の歷史を訪ねられた所から、丸山氏は得意に日本開闢以來の歷史を要説して、日本君民の狀況を話したら、博士は非常に驚いて、『どうも日本といふ國は、舊い國だと聞いたから、これには何か立派な原因があるだらうと思ツて、これまで訪ねて來た日本の學者や政客等に就いてそれを訊ねても、誰も話してくれない、私の國にはお話し申す樣な史實はありませんとばかりで、謙遜ではあらうが、あまりに要領を得ないので、心ひそかに遺憾におもツて居たところ、今日うけたまはツて始めて宿年の疑ひを解いた。そんな立派な歷史があればこそ東洋の君子國として、世界に比類のない、皇統連綿萬世一系の一大事蹟が保たれて居るのである、世界の中にどこか一ケ所ぐらゐ、爾ういふ國がなくてはならぬ、トいふわけは、今に世界の將來は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず爭ひに疲れて、きツと世界的平和を要求する時が來るに相違ない。さういふ場合に、假りに世界各國が聚ツて其方法を議するとして、それには一つの世界的盟主をあげようとなツたとする、扨ていかなる國を推して「世界の盟主」とするかとなると、武力や金力では、足元から爭ひが伴う、さういふ時に一番無難にすべてが心服するのは、この世の中で一番古い貴い家といふことになる、あらゆる國々の歷史に超越した古さと貴さを有ツたものが、だれも爭ひ得ない世界的長者といふことになる、そういふものが此の世の中に一つなければ世界の紛亂は永久に治めるよすがゞない。果して今日本の史實を聞いて、天は人類のためにかういふ國を造ツて置いたものだといふことを確め得た』 と言はれて、大層悅ばれたといふ事で、子爵が歸朝早々葉山なる高崎氏を尋ねて話されたといふことで、それを高崎氏の知人なる吾が門人某に托して私に傳へられた。私はこれを聞いて、左もこそと思ツた。 — 田中巴之助、田中 1928, pp. 30 f. ただし、田中はこの言葉を大日本帝国憲法制定に大きな影響を与えたドイツ人法学者ローレンツ・フォン・シュタインの発言として紹介しており、「予言」はアインシュタインのものではないとされている。 中澤は「シュタイン」と「アインシュタイン」という名前の類似性から、流布の過程ですり替わってしまったとし、また内容的にシュタインの思想とも食い違っており、シュタインの発言ではなく、田中による創作であると考察した。つまり、田中がシュタインを狂言回しに自らの思想を語ったものであり、それに細部の改変が加えられて「アインシュタインの予言」となり、現在に流布したのであると論証した。 この「予言」がアインシュタインのものではないという話は、2006年(平成18年)6月7日付の『朝日新聞』でも取り上げられ、中澤は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と語っている。また、アインシュタイン研究を行っている板垣良一・東海大学教授(物理学史)は、「アインシュタインはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、神にこだわらない人だった」とした上で、彼が残した日記や文献の上でも日本の天皇制に言及したものはなく、この発言を「アインシュタインのものではない」と断言している。またアインシュタインは、「私にとって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない。」「ユダヤ教は、ほかのすべての宗教と同様に、最も子どもじみた迷信を体現したものだ。私もユダヤ人の1人であり、その精神には深い親近感を覚えるが、ユダヤ人はほかの全ての人々と本質的に異なるところはない。私の経験した限り、ほかの人間より優れているということもなく、『選ばれた』側面は見当たらない」とも書き残しており、信じてもいない神に感謝することなどありえない。 また、原田実『トンデモ日本史の真相』では、ここに収録された『予言』とほぼ同じものが、大本教の教義解説書『大本のしおり』1967年(昭和42年)刊に、「スタイン博士」の言葉として見られると指摘している。
※この「偽書説」の解説は、「アインシュタインの予言」の解説の一部です。
「偽書説」を含む「アインシュタインの予言」の記事については、「アインシュタインの予言」の概要を参照ください。
- 偽書説のページへのリンク