びっちゅう‐の‐くに【備中国】
読み方:びっちゅうのくに
⇒備中
備中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 01:37 UTC 版)
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
注釈
- ^ 別称「備州」は備前国・備中国・備後国の総称としての呼称。
- ^ 吉備地域。住居表示実施地区の境界については未詳。
- ^ 足守地域・高松地域。
- ^ 旧・上房郡北房町。
- ^ 反幕府の赤松勢を撃破した戦功。光厳天皇による臨時宣下で河野九郎通治が対馬守に任ぜられたのと同時任官。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 重明か。守護・国司兼帯。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 南朝による任官と推定されている。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 室町幕府御教書。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 「其はじめ一たび此國に任ぜられしより、遂に空名ながら代々の通称」として世襲した。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
出典
備中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 02:17 UTC 版)
『備中国大税負死亡帳』に窪屋郡美和郷菅生里の戸主として神人部赤猪の名が見える。
※この「備中国」の解説は、「神人部氏」の解説の一部です。
「備中国」を含む「神人部氏」の記事については、「神人部氏」の概要を参照ください。
備中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:38 UTC 版)
備中松山城(高梁城) 高松城 鬼ノ城 鬼身城 幸山城 猿掛城 鶴首城 成羽城(成羽陣屋) 笠岡城 楪城 下津井城 福山城 庭瀬城 撫川城 鴨山城 竜王山城 青佐山城 佐井田城 茨城 - 備後国にあるとの説もあり。
※この「備中国」の解説は、「日本の城一覧」の解説の一部です。
「備中国」を含む「日本の城一覧」の記事については、「日本の城一覧」の概要を参照ください。
備中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:28 UTC 版)
備中国は5万石の備中松山藩以下、あわせて8の小藩及び10以上の旗本家の知行地、幕府領、諸藩飛地領及び御三卿領などで占められていた。これらのうち、同国の全ての藩及び自ら陣屋を構えて領地経営を行っていた旗本のほぼ全てが藩札・旗本札を発行した。備中国は町村や豪農・豪商などが発行した私札類の種類が多いことでも知られる。備中国の旗本で旗本札を発行した家は、戦国大名の有力家臣の末裔や、徳川幕府での大名が減知されて旗本となった家、あるいは大名家の分家である。 賀陽郡浅尾(現・岡山県総社市門田)の蒔田氏(浅尾藩主、のち知行の一部を分知して旗本、更に幕末に高直しにより再び立藩)と、浅尾蒔田氏から分知を受けて成立した旗本、窪屋郡三須(現・岡山県総社市三須)の三須蒔田氏はそれぞれ独自に旗本札を発行した。 川上郡成羽(現・岡山県高梁市成羽町下原)の山崎氏は肥後国富岡藩や讃岐国丸亀藩などを治めた大名山崎氏の分家で、本家が無嗣改易となったのちも、かつて本家が城主をつとめたことのある成羽城の跡地に陣屋を構えて存続した。交代寄合表御礼衆として遇され、明治維新後に高直しにより立藩した。成羽山崎氏も、旗本であった時期に札を発行している。 戸川氏は、元は戦国大名宇喜多氏の家臣であったが、宇喜多家の内紛の際に徳川家康の仲介があった縁で、のちに旗本に取り立てられた。旗本戸川氏一族は大きく4家に分かれ、都宇郡撫川(現・岡山県岡山市撫川)の撫川戸川氏(庭瀬藩主から減知により交代寄合表御礼衆)、都宇郡妹尾(現・岡山県岡山市妹尾)の妹尾戸川氏、都宇郡早島(現・岡山県都窪郡早島町早島)の早島戸川氏、都宇郡帯江(現・岡山県倉敷市羽島)の帯江戸川氏がそれぞれ独自に旗本札を発行した。 花房氏もまた宇喜多氏の家臣であったが、宇喜多家の内紛ののち徳川家康の庇護下に入り、関ヶ原の戦いで東軍についた。更に戦後処理で備中国の鎮撫に当たった功によって旗本に取り立てられた。羽柴秀吉の水攻め(備中高松城の戦い)で有名な備中高松城の近傍、賀陽郡高松の原古才(現・岡山県岡山市高松原古才)に陣屋を置き、旗本札を発行した。また、都宇郡津寺(現・岡山県岡山市津寺)の旗本榊原氏は花房氏の出自であるが、徳川家康に取り立てられる際に仲介の労をとった譜代大名榊原氏の恩に報いるために姓を榊原に改めた。津寺榊原氏も旗本札を発行した。 水谷氏は、備中松山藩主であったが、本家は無嗣改易となった。しかし、旗本として阿賀郡小阪部(現・岡山県新見市大佐小阪部)の小阪部水谷氏と、川上郡布賀(現・岡山県高梁市備中町布賀)の布賀黒鳥水谷氏が存続してそれぞれ独自に旗本札を発行した。 後月郡井原(現・岡山県井原市井原町)の旗本池田氏は、鳥取藩や岡山藩の池田氏と同族であり、池田輝政の実弟の初代備中松山藩主池田長幸の子孫である。井原池田氏は本家の備中松山藩池田家が無嗣断絶したのちも存続し、旗本札を発行した。 備中国では、藩札及び旗本札の一部に永銭勘定による額面記載がある場合が散見される。永銭とは、室町時代から、江戸幕府による貨幣制度が整う江戸時代初期まで全国的に流通した永楽通宝銭を指す。永楽通寶銭自体は幕府により通用を禁止されたが、呼称は江戸期を通じて永銭一貫文(一千文)を金一両とする金の補助単位として使用された。永銭勘定自体は両替商等でも一般に使用されたが、紙幣の額面として用いられている点はこの地域に特有の特徴である。
※この「備中国」の解説は、「旗本札」の解説の一部です。
「備中国」を含む「旗本札」の記事については、「旗本札」の概要を参照ください。
備中国
- 備中国のページへのリンク