元使殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためという見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」 とある。更に1370年に訪日した明使・趙秩に対して懐良親王が「願るに蒙古は戎狄にして華に莅み小国をもって我を視る。乃ち趙良弼を使わし我を「言朮」うに好語もてす。初めその我が国を覘うを知らざるなり。既に而して船数千を発し我を襲う。」 と述べており、元寇から約100年後でも日本側は趙良弼が日本侵略のためのスパイ行為を行っていたと認識していたことが分かる。『元史』でも、趙良弼はほぼ1年間、太宰府に留まっていたが、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物」などの情報収拾を行い、帰還して後にクビライに報告した。ただし、趙良弼は日本侵攻については「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見るに、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性が無く、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つこと無きが良いでしょう」と述べ、日本侵攻に反対した。 こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、『大日本史』や頼山陽らは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。
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