元寇
元寇
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13世紀、高麗はモンゴル帝国(のちの元)のクビライに服属したのち、日本に対してモンゴル帝国への服属を迫った。日本の鎌倉幕府はこれを拒絶したため、高麗は元に日本侵略を提言し、元軍とともに日本を攻撃したが失敗に終わった。
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元寇
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鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。この受難を小茂田浜神社で伝えられている。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。 1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役において『八幡愚童記』正応本には、 其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。 と記されている。
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元寇
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至元11年(1274年)、元の日本侵攻(元寇)に際し、左副都元帥として第一回目の侵攻(文永の役)に従軍。『元史』左副元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」とされている。 博多上陸後の百道原・姪浜の戦いにおいて負傷した。元側の記録『高麗史』によれば流れ矢で負傷したという。日本側の記録『八幡愚童訓』によれば少弐景資が敵軍大将を射落としたが、捕虜の証言でそれは大将軍流将公なる人物であった。これが劉復亨と推測されている。この指揮官の負傷により陣を乱した元軍は敗走した。
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元寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:44 UTC 版)
「元寇」も参照 しかしその反面、他国から侵略の被害にも遭っており、869年には新羅海賊が博多湾に侵入、1019年には刀伊の入寇があり、博多は常に対外的な脅威に曝されていた。その最大の脅威は、宋を滅ぼしてユーラシア大陸のほとんどを支配した人類史上最大の帝国、モンゴル帝国である。 高麗を屈服させたモンゴル帝国のクビライが日本の服属を求め、時の鎌倉幕府がこれを拒否したことから、1274年、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人などからなる4万人の元軍が襲来した(文永の役)。10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた元軍は、10月20日、百道原から博多湾に上陸し、激しい地上戦が展開された。しかし、赤坂の戦いや鳥飼潟の戦いで破れるなど苦戦を強いられた元軍は、撤退を決め、夜間の撤退を強行したため、撤退中に暴風雨を受け、甚大な損害を被った。 幕府は、再度の元軍の襲来に備え、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地を築いた。この史跡「元寇防塁」は現代にも残っており「防塁」という地名も存在する。そして、1281年に元軍が襲来(弘安の役)。博多湾に現れた元軍は、防塁から上陸することを避け、陸繋島である志賀島を占領し、博多への進出を窺うが、日本側の総攻撃を受け大敗し、壱岐島に撤退した(志賀島の戦い)。
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元寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
詳細は「元寇」を参照 時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の北条時宗だった。時宗が得宗となった前後の1268年、モンゴル帝国第5代大ハーンのクビライが高麗を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。1269年と1271年にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。 モンゴルから国号を改めた元は、文永11年(1274年)10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため(赤坂の戦い・鳥飼潟の戦い)、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを文永の役という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。 元は弘安4年(1281年)、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2ヶ月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)、侵攻が停滞していたところに台風により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦)。これを弘安の役という。前回の襲来と併せて元寇と呼ぶ。幕府は大陸に出兵して、反撃する計画を再びたてたが、この計画も実行はされなかった(第二次高麗征伐計画)。 この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近(御内人という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである内管領が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の平頼綱と有力御家人の安達泰盛が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が1284年に急死すると、翌1285年、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされる。 この頃、朝廷においては、後嵯峨天皇以後の皇位を巡って大覚寺統と持明院統の2系統に分立して幕府に皇位継承の調整を求めた。幕府は両統迭立原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「徳政」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて亀山上皇は弘安9年(1286年)12月に院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰に分割、続いて伏見天皇は正応6年(1293年)6月に記録所組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。
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