いずものくにふどき〔いづものくにフドキ〕【出雲国風土記】
出雲国風土記
出雲国風土記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 23:36 UTC 版)
元明天皇の詔より作られた各国の風土記は、ほとんどが失われた。ほぼ完全に現存する出雲国風土記には、「寺」・「新造院」・「堂」について記述がある。 出雲国風土記によると、意宇郡舎人郷・教昊寺のみ、「寺」として記載がある。創建者である僧・教昊の法号がつけられた寺で、安来市の野方廃寺が最有力である。出土した瓦は7世紀・第4四半期と島根県内で最古となり、新羅系といえる文様が見られたという。 「新造院」は出雲国風土記には郡家からの方位・距離や造営者(7院が郡司層)などが記載されていることから、島根県古代文化センターは、新造院を国家に寺として認可してもらうための施設だと有力視している。ほかに、716年の寺院併合例(続日本紀)後に新たに造られた施設だとする説がある。 「堂」は、日本霊異記の記述から、瓦葺きでない村落内寺院とされ、出雲では神社と併設されることがあった。
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出雲国風土記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:12 UTC 版)
『出雲国風土記』では記紀所載の国譲り神話のような話は見られないが、意宇郡母理郷の条では大穴持命(大国主神)が自主的に出雲国以外を譲るという伝承が語られている。 天(あめ)の下造らしし大神・大穴持(おほなもち)命、越の八口(やぐち)を平(む)け賜(たま)ひて還り坐(ま)しし時、長江(ながえ)の山に来(き)坐(ま)して詔(の)りたまひけらく、「我が造り坐して命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)命、平世(とこよ)に知らせと依さし奉り。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は我が静まり坐す国と、青垣山(あをがきやま)廻(めぐ)らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守る」と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)と云ふ。
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出雲国風土記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:31 UTC 版)
千酌(ちくみ)の驛家(うまや)郡家(こおりのみやけ)の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命(いざなきのみこと)の御子、「都久豆美命(つくつみのみこと)」、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。 ただし、都久豆美命は渡津の守護の月神で、古くから千酌を守る土着神だったが、朝廷の支配が強まったため土地の人々が伊佐奈枳の子としたのであり、ツクヨミとは関係ないとする説がある。
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