列聖とその後とは? わかりやすく解説

列聖とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 16:44 UTC 版)

ピオ神父」の記事における「列聖とその後」の解説

1982年に、教皇庁マンフレドーニア大司教に、ピオ神父聖者見なす値する決定するための調査始め権限与えた調査7年かかり、1990年ピオ神父列聖への第一歩である神のしもべであると宣言された。 1990年から列聖省 (Congregatio de Causis Sanctorum)は、ピオ神父どれくらい英雄的人生送ったかについて検討した。そして1997年ヨハネ・パウロ2世教皇は、ピオ神父尊者であると宣言した。さらに、神父生涯他者どのような影響与えたに関する議論続き、そこには、ピオ神父が代祷したことで癒し得たイタリア人女性コンシッリア・デ・マルティーノの例が含まれていた。1999年に、列聖省の勧告従いヨハネ・パウロ2世ピオ神父福者であると宣言したピオ神父人徳死後も善をなす能力、そして神父の代祷によるとされる前述とは別の癒しについて慎重に考慮され結果2002年6月16日に、教皇ピオ神父聖者であると宣言した列聖式には、およそ30万人出席した推定されている。 ピオ神父は、第2バチカン公会議の後も存命した聖職者列聖された2人のうちの1人である。(もう一人は、オプス・デイ創立者の聖ホセマリア・エスクリバー両者とも、第2バチカン公会議による典礼改革によらない伝統的ラテン語ミサをあげてもよいとする教皇からの許可得ていた。 2004年7月1日に、ヨハネ・パウロ2世教皇は、ピエトレルチーナの聖ピオ追悼として、サン・ジョヴァンニ・ロトンドにおいて聖ピオ巡礼教会献堂した。2002年に、シチリアメッシーナにあるピオ神父の像が血の涙流したとして、注目集めたピオ神父は、世界で最も人気のある聖者1人になった世界中には3,000上のピオ神父のための祈りの会があり、300万人会員がいる。ニュージャージー州ヴァインランド同州ラヴェレッテ、オーストラリア・シドニーにはピオ神父守護聖人とする教区がある。そして、聖ピオ聖堂ニュージャージー州ブエナにある。雑誌ファミッリャ・クリスティアーナによる2006年の調査で、イタリアカトリック信者は、他のいかなる存在よりもピオ神父のために祈ることが明らかになった。(この祈りは、より正確には、聖ピオが神に代祷してくれることを祈念するものと理解すべきであり、聖ピオへの崇拝取り違えるべきではない。カトリック教会教えでは、神に対す崇拝のみが正当とされる。) 神父記念するピエトレルチーナ近くの、イタリア南部プッリャ州サン・ジョヴァンニ・ロトンドに近い丘の上に、ピオ神父の像が建てられることになっているプロジェクト数百ポンド要し世界中信者寄付金送っている。像は、特殊な塗料太陽電池おおわれ太陽熱取り込んで太陽エネルギー発生させることができるエコロジー配慮した聖像となる予定である。

※この「列聖とその後」の解説は、「ピオ神父」の解説の一部です。
「列聖とその後」を含む「ピオ神父」の記事については、「ピオ神父」の概要を参照ください。

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