初期の啓蒙活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:49 UTC 版)
桜の木をワシントンD.C.に持ち込もうという試みは公式に植樹される十数年前から行われていた。1885年、ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事であったエリザ・シドモアは初の日本旅行からアメリカに帰国し、公共施設・公有地庁のアメリカ陸軍管理者に対して埋め立てが行われたポトマック川河畔沿いに桜の木を植えることを提案した。この提案は拒否されたが、シドモアはすべての管理者にその後24年間提案し続けている。この時期、個人によって数本の桜の木がこの地域に持ち込まれた。その中には北西ワシントンD.C.にて、木の下でシドモアが桜鑑賞の茶会を開いた桜木もあった。茶会には著名な植物学者であるデビッド・フェアチャイルドとフェアチャイルドの婚約者で発明家アレクサンダー・グラハム・ベルの娘のマリアンなどが招かれていた。 その後、エリザの活動とは別に、1906年、フェアチャイルドは日本の横浜植木社から1000本の桜の木を輸入し、自らの所有するチェビーチェイス(英語版)に植樹した。フェアチャイルドはその結果に満足して、1907年にワシントン地域の道に植えるのに適した樹木として日本の桜の促進を始めた。9月26日、フェアチャイルドの友人の助けによってチェビーチェイス・ランド・カンパニーは当地に植える300本の東洋の桜を発注した。1908年、フェアチャイルドは植樹祭を守るためにすべてのD.C.の学校の校庭に植える桜の苗木を寄贈した。エリザ・シドモアが参加した植樹祭のスピーチで、フェアチャイルドは当時タイダルベイスンの周辺に存在した"スピードウェイ"を"桜の道"に変えることを提案した。 それまでアラスカの活動に軸を移していたシドモアは、1909年、桜を買って地区に寄贈するための資金を調達することを決めた。主な事例として、4月5日、彼女は当時のファーストレディ、ヘレン・ヘロン・タフト(英語版)に彼女の計画を知らせるために手紙を書いている。2日後、大統領夫人から以下のような返事があった。 Thank you very much for your suggestion about the cherry trees. I have taken the matter up and am promised the trees, but I thought perhaps it would be best to make an avenue of them, extending down to the turn in the road, as the other part is still too rough to do any planting. Of course, they could not reflect in the water, but the effect would be very lovely of the long avenue. Let me know what you think about this.桜に関する提案をありがとうございます。私は桜を植えることには同意しますが、他の部分はまだ植えるには整っていないので、道の曲がり角まで伸びる桜の並木道を作るのがよいと考えています。もちろん、これらは水に映えないでしょうが、長い通りをとても美しくするでしょう。あなたはどう思われるでしょうか? この計画が、ワシントンにいた日本人科学者高峰譲吉と駐ニューヨーク日本総領事水野幸吉の知ることころになった。その頃、東京市長でもあった衆議院議員尾崎行雄は、先の日露戦争の講和に助力してもらったアメリカへの謝礼を考えていたところへ、水野からこのような計画があることを知らされた。4月8日、高峰は大統領夫人に、東京の尾崎から2000本の桜を寄贈する計画があることをもちかけ、水野は東京の名で桜を贈ることを提案した。高峰と水野はその後大統領夫人と会見し、彼女は2000本の桜の寄贈の提案を受け入れた。
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