初期の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:28 UTC 版)
フランクリンから何の便りも無いまま2年間が過ぎ、人々が心配するようになり、フランクリン夫人さらにはイギリスの議会議員や新聞が海軍本部に捜索隊を送るよう促すことになった。これに応じて海軍本部は1848年春には実施する3方向の捜索計画を立てた。1つはジョン・リチャードソンとジョン・レイの指揮する陸路からの救援隊であり、マッケンジー川を下り、カナダ北極圏海岸に向かうものだった。海上からは2つの隊が向かうことになった。1つはランカスター海峡を抜けてカナダ北極圏多島海に入るものであり、もう1つは太平洋側から向かうものだった。さらに海軍本部は「ジョン・フランクリン卿の指揮下にある探検船の乗組員を助けることになった、如何なる国の如何なる隊にも」2万ポンド(2014年換算で1,752,100ポンド)を賞金として提供すると発表した。この3方面の隊が失敗した後も、北極海に対するイギリス国民の興味関心は増加し、「フランクリン隊を発見することは十字軍に匹敵する」ほどまでになった。フランクリン夫人が失踪した夫を探すのを歌った『フランクリン夫人の嘆き』と題するバラードが人気を得た。 捜索には多くの者が加わった。1850年、イギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。その中にはHMSブレッドアルベーンとその姉妹艦HMSフェニックスも入っていた。幾隻かはビーチー島の東海岸に集まり、1845年から1846年の冬季宿営地の跡と、ジョン・ショー・トーリントン、ジョン・ハートネル、ウィリアム・ブレインの墓を含む、フランクリン遠征隊の遺物を初めて発見した。この場所でフランクリン遠征隊からの伝言は見つからなかった。1851年春、複数の船の乗客と乗組員がニューファンドランド島沖で巨大な氷山を視認したが、そこに2隻の船が、1つは直立したまま、1つは転覆しかかって捉えられているのが観測された。これらの船を近くから検証はできなかった。これらがエレバスとテラーだった可能性があると言われたが、両船が発見された現在では放棄された捕鯨船かなにかであった事が確定している。 1852年、エドワード・ベルチャーがジョン・フランクリン卿を探す政府北極遠征隊の指揮を任された。これも不成功に終わった。ベルチャーはその部下の人気を得られず、特に北極海の航海では不幸であり、氷海を航行する艦の指揮には全く向いていなかった。遠征隊5艦の内4艦(HMSレゾリュート、パイオニア、アシスタンス、インターピッド)を流氷の海で放棄することになり、ベルチャーは軍法会議に掛けられたが、無罪になった。その中のHMSレゾリュートのみは、後にアメリカの捕鯨船によって無傷で回収されイギリスに返還された。その船に使われていた木材を使って3つの机が作られ、うち一つはイギリス女王から友好の印としてアメリカ合衆国大統領に贈られた。これが、ホワイトハウスのウエストウイングの大統領執務室・オーバルオフィスにあり、大統領が執務する「レゾリュート・デスク(英語版)」と呼ばれる机である。
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