初期の祭りの姿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
能代の七夕の起源は、一説には阿倍比羅夫や坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際におびただしい数の灯籠を掲げておびき寄せ、蝦夷を撃破したという故事に由来するとも言われるが、これは後世に付会された伝説の類であり、信憑に足るものとみられてはいない。能代における七夕行事の文献上の初出は、寛保元年(1741年)に宇野親員が著した『代邑聞見録』である。そこでは7月6日夜から7月7日朝にかけて「ねぶ流し」と呼ばれる行事が行われ、子供たちが組を作って「ねふねふ流れ流れ豆の葉にとまれとまれ」と囃し立てながら灯籠を持って練り歩いたことが記されている。『代邑聞見録』の記述からは、七夕が子供主体の行事であるものの、ある程度組織だって行われており、道具の準備や囃子の練習などで、大人の助力や年長の子供から年少の子供へと行事を伝える仕組みが既にあったことが推測されている。 次いで文献に登場するのは『代邑聞見録』から70年ほど下った文化年間の『風俗問状答』で、これは江戸幕府が全国の文化・習俗を調査するため諸藩に宛てて送った『風俗問状』に対する秋田藩からの回答である。ここでは『七月』の記事の中に『七日 星祭りの事』として一項が立てられ、「(上略)この眠流してふこと、城北の能代の港にはことにはなやかに候。わたりは二丈ばかり高は三丈にも四丈にもする屋台人形さまざまの工夫を尽し、皆蝋引きたる紙にて五彩をいろどり、瑠璃燈に似たり。年々新奇を競ひ、もとも壮観に候。」と記されており、趣向を凝らした七夕灯籠による華やかな祭りの姿が記されている。なお、『風俗問状答』に付された挿絵には、灯籠に車輪がついていないことから、この当時は七夕灯籠を担いで運行したものと考えられている。
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