初期の経歴と南北戦争
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「オリバー・ボスビーシェル」の記事における「初期の経歴と南北戦争」の解説
オリバー・クリスチャン・ボスビーシェルは1839年1月3日に、ミシシッピ州ヴィックスバーグで生まれた。父は同名のオリバー・クリスチャン・ボスビーシェル、母はメアリー・アン(旧姓ホィットニー)だった。両親共にフィラデルフィアの旧家の出身であり、ヴィックスバーグには一時的に住んでいただけだった。父は問屋業に従事していた。その倉庫を破壊した火事のときに消火に当たっていて気管支炎を患い、その健康を快復することを期待して船旅を行ってフィラデルフィアに戻った後に死んだ。その8週間後に息子が生まれ、母のメアリー・アンは新生児を連れて、ミシシッピ州からペンシルベニア州スクーカル郡にあった母の父の家に戻った。ボスビーシェルはそこで成長し、地元の公立学校に通った。15歳の時に学校を卒業し、電報配達員となり、さらにその後の3年間はその分野の様々な職に就いていたが、その後法律分野の職を求めることを決心した。まず弁護士のフランシス・W・ハグビーについて法律を勉強し、その後叔父のウィリアム・ホィットニーに付いた。両人ともポッツビル市に住んでいた。1861年、南北戦争が勃発した時、ボスビーシェルはまだ勉学中だった。 1861年4月15日、エイブラハム・リンカーン大統領が、アメリカ合衆国を守るために戦う志願兵5万人の招集を呼びかけた。翌日、ボスビーシェルは地元の民兵隊であるワシントン砲兵隊に入隊し、直ぐにワシントンに向かった。その途中の4月17日、ボルチモアの通りを行軍する必要があった。南軍同調者の敵対的な群衆が集まっており、ボスビーシェルがその後一生語っていたことに拠れば、石ともレンガとも様々に表現した飛び道具を当てられた。それは大きな痣を作り、一時的に失神していたが、出血は無かった。ボスビーシェル兵士は北軍側で最初に負傷した者とされ、その数分後に飛び道具で肌を破られたアフリカ系アメリカ人従僕が、北軍のために初めて血を流したものと見られた。しかし、ボルチモア暴動の公式記録ではボスビーシェルが負傷者に入っていない。 ワシントンでは、部隊がアメリカ合衆国議会議事堂の上院会議場側のレディース・ギャラリーを宿舎にした。4月18日にワシントンに最初に着いた350人のペンシルベニア州兵士は「第一守備隊」と呼ばれ、戦後その生存者がその名前で同好会を結成した。彼らが議事堂に泊まっている間に、リンカーン大統領、国務長官のウィリアム・スワード、陸軍長官のサイモン・キャメロンが訪問してきた。ボスビーシェルはリンカーンのことを回想して、「そう、ここの部屋の中にいる全ての者の上に聳えているのは、戦争の偉大な中心人物だった。私はその顔の親切そうな様子、その腕と脚がぎこちなくぶら下がっていること、共和国最初の兵士達を前に明らかに恥ずかしがっていること、彼の態度に重大でむしろ陰気なものがあることに印象を受けた」と記していた。 ワシントン砲兵隊はペンシルベニア第25志願兵連隊H中隊に再編され、ポトマック川を下ってワシントン砦に送られ、そこの防御度を上げるために3か月を費やした。ボスビーシェルは正規軍の中尉任官を提案されたが、志願兵任務を好むと言って辞退した。この中隊の徴兵期限が明けたとき、ボスビーシェルはペンシルベニア第48志願兵連隊G中隊少尉として北軍に再入隊し、1861年10月1日からまる3年間務めた。 ボスビーシェルは再入隊後約1か月、ハリスバーグで連隊付き徴兵担当士官だったが、11月1日、連隊と共にバージニア州モンロー砦から、ノースカロライナ州ハッテラスに船で移動した。そこでボスビーシェルは連隊の副官代行として、また軍法会議では法務官を務めた。アンブローズ・バーンサイド将軍がニューバーンを攻撃したとき、バーンサイドは第48連隊の6個中隊を率い、ボスビーシェルも連れて行った。ただし、G中隊は北軍に入っていなかった。1862年4月と5月、ボスビーシェルは連続して中尉と大尉に昇進し、中隊長となった。その後は中隊を率いて第二次ブルランの戦い、アンティータムの戦い、フレデリックスバーグの戦いに参戦した。フレデリックスバーグの後で、再度軍法会議の法務官になった。1863年初期に連隊が西部に移動すると、ボスビーシェルはケンタッキー州ルイビルの憲兵司令官になった。ルイビルに駐屯する間に休暇を得てペンシルベニアの家に戻り、牧師の娘マーサ・ステムと結婚した。 1863年9月、連隊がテネシー州での北軍の行動に加わるために移動を命じられると、ボスビーシェルは第48連隊が入っている第9軍団第1旅団の副参謀補代行となった。そこでブルースプリングスの戦いやキャンベルズ・ステーションの戦いで戦い、ノックスビル包囲戦に参加した。1864年、連隊の補充を行うために再びペンシルベニアに戻った。旅団の役職に戻ると、オーバーランド方面作戦ではアフリカ系アメリカ人の部隊を指揮した。 1864年7月10日、ボスビーシェルは少佐に昇進し、第48連隊長就任を命ぜられたが、一時的に旅団の役職に留まっていた。このとき北軍は、南軍の首都リッチモンドの南にあるピータースバーグを包囲していた。第48連隊の指揮官代行だったヘンリー・プレザンツは、文民の時には鉱山技師であり、南軍の前線の下にトンネルを掘って大きな爆弾を爆発させる作戦を立てた。数週間にわたる準備を行った後、その爆弾は7月30日に爆破され、南軍の前線に大きな穴を明けた。南軍は最初の衝撃が収まった後で、兵士を再集合させ、北軍のへまにも助けられて、前線を破る動きを撃退した。クレーターの戦いと呼ばれたこの戦闘で、ボスビーシェルはアフリカ系アメリカ人部隊を指揮しており、400名以上の被害を出した。プレザンツはがロバート・B・ポッター将軍の参謀に昇進したので、ボスビーシェルが1864年8月2日に第48連隊長になった。 ボスビーシェルはその部隊を率いてグローブ・タバーンの戦いとピーブル農園の戦いに参戦した。1864年9月、個人的な用件でペンシルベニアに戻るために休暇を取ろうとした。これが拒否され、ボスビーシェルの3年間の徴兵期限が切れていたために、1864年10月1日付で除隊となった。
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初期の経歴と南北戦争
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「アデルバート・エイムズ」の記事における「初期の経歴と南北戦争」の解説
エイムズはメイン州ロックランドで、ジェシー・エイムズという船長の息子として生まれた。短期間父の船の商船員として働いた後、1861年に陸軍士官学校を卒業したが、これはサムター要塞が南軍の手で陥落させられた後のことだった。士官学校の同期45名の中で5番目の成績を取り、第2アメリカ砲兵隊の少尉に任官された。6日後には中尉に昇進した。1861年7月、第一次ブルランの戦いの時、右太腿に重傷を負ったが、その大砲から離れることを拒んだ。この後で少佐への名誉昇進を果たしたが、遅まきながら1893年にブルランでの英雄的行為に対して名誉勲章を受章した。 翌春任務に戻り、半島方面作戦に参戦して、ヨークタウンの包囲戦、ゲインズミルの戦いおよびマルバーンヒルの戦いに加わった。ポトマック軍砲兵隊長のヘンリー・J・ハント大佐からマルバーンヒルでの功績を称賛され中尉に名誉昇進された。 エイムズは優秀な砲兵士官になっていたが、昇進しようと思えば歩兵隊でのみ可能だということを認識した。エイムズはメイン州に戻って歩兵連隊長に任官されるよう政治的働きかけを行い、1862年8月20日に第20メイン志願歩兵連隊長に任命された。第20メイン志願歩兵連隊はメリーランド方面作戦に参戦したが、アンティータムの戦いでは予備軍に留め置かれたために実戦にはほとんど参加しなかった。フレデリックスバーグの戦いでは、その連隊を率いてメアリーズハイツに対するその日最後の突撃を敢行した。1863年5月のチャンセラーズヴィル方面作戦では、第5軍団長ジョージ・ミード少将の副官を志願した。恐らくはこの参謀任務で影響力あるミードの近くにいたことで、戦闘の2週間後の5月20日に准将に昇進した。エイムズはポトマック軍第11軍団の旅団長となり、第20メイン志願歩兵連隊はジョシュア・チェンバレンに渡すことになったが、チェンバレンはこの連隊を率いて間もないゲティスバーグの戦いで名声を挙げた。 ゲティスバーグではエイムズ自身の功績はチェンバレンのものに届かなかったが、難しい状況下で行動した。7月1日の南軍リチャード・イーウェル中将による大規模攻撃のとき、エイムズの属した師団の指揮官フランシス・C・バーロー准将は第11軍団の他の部隊よりも前にその師団を出して現在はバーロー・ノールと呼ばれる小高い場所を占めた。この突出部は直ぐに攻略されて、バーローは負傷し捕虜になった。エイムズが師団指揮を取って代わり、ゲティスバーグの町を抜けてセメタリーヒルまでの撤退を指揮した。戦いの2日目である7月2日、エイムズのボロボロになった師団はイースト・セメタリーヒルで南軍ジュバル・アーリー少将の猛攻を受けることになったが、他の部隊の助けもあって重要な陣地を保つことができた。ある時点ではエイムズ自身が白兵戦を戦うことになった。戦闘後、第20メイン志願歩兵連隊の兵士達は尊敬の印としてその戦闘旗をエイムズに進呈した。 ゲティスバーグの後、エイムズは旅団長に戻されたが、正規軍の大佐に名誉昇進した。その師団はジョージ・ヘンリー・ゴードン准将が指揮を執り、南部方面軍に配転されてサウスカロライナ州とフロリダ州での任務に携わった。1864年、その師団はベンジャミン・フランクリン・バトラー少将が指揮するジェームズ軍の第10軍団の一部となり、バミューダ・ハンドレッド方面作戦とピーターズバーグ包囲戦に参戦した。だいぶ後になるが、エイムズはバトラーの義理の息子になった。その冬、その師団は第24軍団に配置換えとなり、ノースカロライナ州に派遣された。ポトマック軍の任務に続く2年間の間に、エイムズは旅団長と師団長の間を行き来したが(2つの機会では軍団長にもなった)、概して師団長と識別されている。第二次フィッシャー砦の戦いでは、第24軍団第2師団を指揮し、手ごわい海岸要塞に部隊兵を連れて踏み込み、その参謀達の大半が狙撃兵に倒される中で攻略に成功した。エイムズはこの戦闘での功績で志願兵の少将(正規軍の准将)に名誉昇進した。
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