初期の経歴と南北戦争とは? わかりやすく解説

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初期の経歴と南北戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:51 UTC 版)

オリバー・ボスビーシェル」の記事における「初期の経歴と南北戦争」の解説

オリバー・クリスチャン・ボスビーシェルは1839年1月3日に、ミシシッピ州ヴィックスバーグ生まれた。父は同名のオリバー・クリスチャン・ボスビーシェル、母はメアリー・アン(旧姓ホィットニー)だった。両親共にフィラデルフィア旧家出身であり、ヴィックスバーグには一時的に住んでいただけだった。父は問屋業に従事していた。その倉庫破壊した火事のときに消火当たっていて気管支炎患い、その健康を快復することを期待して船旅行ってフィラデルフィア戻った後に死んだ。その8週間後に息子生まれ、母のメアリー・アンは新生児連れてミシシッピ州からペンシルベニア州スクーカル郡にあった母の父の家に戻った。ボスビーシェルはそこで成長し地元公立学校通った15歳時に学校卒業し電報配達員となり、さらにその後3年間はその分野の様々なに就いていたが、その後法律分野の職を求めることを決心した。まず弁護士フランシス・W・ハグビーについて法律勉強しその後叔父ウィリアム・ホィットニー付いた両人ともポッツビル市に住んでいた。1861年南北戦争勃発した時、ボスビーシェルはまだ勉学中だった。 1861年4月15日エイブラハム・リンカーン大統領が、アメリカ合衆国を守るために戦う志願兵5万人の招集呼びかけた。翌日、ボスビーシェルは地元民兵隊であるワシントン砲兵隊入隊し直ぐにワシントン向かった。その途中4月17日ボルチモア通り行軍する必要があった。南軍同調者敵対的な群衆集まっており、ボスビーシェルがその後一生語っていたことに拠れば、石ともレンガとも様々に表現した飛び道具当てられた。それは大きな痣を作り一時的に失神していたが、出血無かった。ボスビーシェル兵士北軍側で最初に負傷した者とされ、その数分後に飛び道具で肌を破られアフリカ系アメリカ人従僕が、北軍のために初めて血を流したものと見られた。しかし、ボルチモア暴動公式記録ではボスビーシェルが負傷者入っていない。 ワシントンでは、部隊アメリカ合衆国議会議事堂の上会議場側のレディース・ギャラリーを宿舎にした。4月18日ワシントン最初に着いた350人のペンシルベニア州兵士は「第一守備隊」と呼ばれ戦後その生存者がその名前で同好会結成した。彼らが議事堂泊まっている間に、リンカーン大統領国務長官ウィリアム・スワード陸軍長官サイモン・キャメロン訪問してきた。ボスビーシェルはリンカーンのことを回想して、「そう、ここの部屋中にいる全てのの上聳えているのは、戦争偉大な中心人物だった。私はその顔の親切そうな様子、その腕と脚がぎこちなくぶら下がっていること、共和国最初兵士達前に明らかに恥ずかしがっていること、彼の態度に重大でむしろ陰気なものがあることに印象受けた」と記していた。 ワシントン砲兵隊ペンシルベニア25志願兵連隊H中隊再編されポトマック川下ってワシントン砦に送られ、そこの防御度を上げるために3か月費やした。ボスビーシェルは正規軍中尉任官提案されたが、志願兵任務を好むと言って辞退したこの中隊の徴兵期限明けたとき、ボスビーシェルはペンシルベニア48志願兵連隊G中隊少尉として北軍に再入隊し1861年10月1日からまる3年務めた。 ボスビーシェルは再入隊後約1か月ハリスバーグ連隊付き徴兵担当士官だったが、11月1日連隊と共にバージニア州モンロー砦から、ノースカロライナ州ハッテラスに船で移動した。そこでボスビーシェルは連隊副官代行として、また軍法会議では法務官務めたアンブローズ・バーンサイド将軍ニューバーン攻撃したとき、バーンサイド第48連隊の6個中隊を率い、ボスビーシェルも連れて行った。ただし、G中隊北軍入っていなかった。1862年4月5月、ボスビーシェルは連続して中尉大尉昇進し中隊長となったその後中隊率いて第二次ブルランの戦いアンティータムの戦いフレデリックスバーグの戦い参戦したフレデリックスバーグ後で再度軍法会議法務官になった1863年初期連隊西部移動すると、ボスビーシェルはケンタッキー州ルイビル憲兵司令官になったルイビル駐屯する間に休暇得てペンシルベニアの家に戻り牧師の娘マーサ・ステムと結婚した1863年9月連隊テネシー州での北軍の行動に加わるために移動命じられると、ボスビーシェルは第48連隊入っている第9軍団第1旅団の副参謀代行となった。そこでブルースプリングス戦いやキャンベルズ・ステーションの戦いで戦いノックスビル包囲戦参加した1864年連隊補充を行うために再びペンシルベニア戻った旅団役職に戻ると、オーバーランド方面作戦ではアフリカ系アメリカ人部隊指揮した1864年7月10日、ボスビーシェルは少佐に昇進し、第48連隊就任を命ぜられたが、一時的に旅団役職に留まっていた。このとき北軍は、南軍首都リッチモンドの南にあるピータースバーグ包囲していた。第48連隊指揮官代行だったヘンリー・プレザンツは、文民時には鉱山技師であり、南軍前線の下にトンネル掘って大きな爆弾爆発させる作戦立てた。数週間にわたる準備行った後、その爆弾7月30日爆破され南軍前線大きな穴を明けた南軍最初衝撃収まった後で兵士を再集合させ、北軍のへまにも助けられて、前線を破る動き撃退したクレーターの戦い呼ばれたこの戦闘で、ボスビーシェルはアフリカ系アメリカ人部隊指揮しており、400名以上の被害出した。プレザンツはがロバート・B・ポッター将軍参謀昇進したので、ボスビーシェルが1864年8月2日第48連隊になった。 ボスビーシェルはその部隊率いてグローブ・タバーンの戦いとピーブル農園戦い参戦した1864年9月個人的な用件ペンシルベニアに戻るために休暇取ろうとした。これが拒否され、ボスビーシェルの3年間の徴兵期限切れていたために、1864年10月1日付で除隊となった

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初期の経歴と南北戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:17 UTC 版)

アデルバート・エイムズ」の記事における「初期の経歴と南北戦争」の解説

エイムズメイン州ロックランドで、ジェシー・エイムズという船長息子として生まれた短期間父の船の商船員として働いた後、1861年陸軍士官学校卒業したが、これはサムター要塞南軍の手陥落させられ後のことだった。士官学校同期45名の中で5番目の成績取り、第2アメリカ砲兵隊少尉任官された。6日後には中尉昇進した1861年7月第一次ブルランの戦いの時、右太腿重傷負ったが、その大砲から離れることを拒んだこの後少佐への名誉昇進果たしたが、遅まきながら1893年にブルランでの英雄的行為に対して名誉勲章受章した翌春任務戻り半島方面作戦参戦してヨークタウン包囲戦ゲインズミルの戦いおよびマルバーンヒルの戦い加わったポトマック軍砲兵隊長のヘンリー・J・ハント大佐からマルバーンヒルでの功績称賛され中尉に名誉昇進された。 エイムズ優秀な砲兵士官になっていたが、昇進しよう思えば歩兵隊でのみ可能だということ認識したエイムズメイン州戻って歩兵連隊長に任官されるよう政治的働きかけ行い1862年8月20日に第20メイン志願歩兵連隊長に任命された。第20メイン志願歩兵連隊メリーランド方面作戦参戦したが、アンティータムの戦いでは予備軍留め置かれたために実戦にはほとんど参加しなかった。フレデリックスバーグの戦いでは、その連隊率いてメアリーズハイツに対すその日最後突撃敢行した。1863年5月チャンセラーズヴィル方面作戦では、第5軍団ジョージ・ミード少将副官志願した恐らくはこの参謀任務影響力あるミード近くにいたことで、戦闘2週間後の5月20日准将昇進したエイムズポトマック軍第11軍団旅団長となり、第20メイン志願歩兵連隊ジョシュア・チェンバレンに渡すことになったが、チェンバレンはこの連隊率いて間もないゲティスバーグの戦い名声挙げたゲティスバーグではエイムズ自身功績チェンバレンのものに届かなかったが、難し状況下で行動した7月1日南軍リチャード・イーウェル中将による大規模攻撃のとき、エイムズ属した師団指揮官フランシス・C・バーロー准将第11軍団の他の部隊よりも前にその師団出して現在はバーロー・ノールと呼ばれる小高い所を占めた。この突出部は直ぐに攻略されて、バーロー負傷し捕虜になったエイムズ師団指揮取って代わりゲティスバーグの町を抜けてセメタリーヒルまでの撤退指揮した戦い2日目である7月2日エイムズボロボロになった師団はイースト・セメタリーヒルで南軍ジュバル・アーリー少将猛攻を受けることになったが、他の部隊助けもあって重要な陣地を保つことができた。ある時点ではエイムズ自身白兵戦を戦うことになった戦闘後、第20メイン志願歩兵連隊兵士達尊敬の印としてその戦闘旗エイムズ進呈したゲティスバーグの後、エイムズ旅団長戻されたが、正規軍大佐に名誉昇進した。その師団はジョージ・ヘンリー・ゴードン准将指揮執り南部方面軍配転されてサウスカロライナ州フロリダ州での任務携わった1864年、その師団ベンジャミン・フランクリン・バトラー少将指揮するジェームズ軍第10軍団一部となり、バミューダ・ハンドレッド方面作戦ピーターズバーグ包囲戦参戦した。だいぶ後になるが、エイムズバトラー義理の息子になった。その冬、その師団第24軍団に配置換えとなり、ノースカロライナ州派遣された。ポトマック軍任務に続く2年間の間に、エイムズ旅団長師団長の間を行き来したが(2つ機会では軍団長にもなった)、概して師団長識別されている。第二次フィッシャー砦の戦いでは、第24軍第2師団指揮し手ごわい海岸要塞部隊兵連れて踏み込み、その参謀達の大半狙撃兵倒される中で攻略成功したエイムズはこの戦闘での功績志願兵少将正規軍准将)に名誉昇進した

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