ぜんしん【前秦】
前秦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 03:21 UTC 版)
前秦(ぜんしん、拼音: 、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。
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前秦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:50 UTC 版)
苻洪は、高祖によって、太祖恵武帝と追号された。 350年、苻洪は、三秦王を自称した。 350年、苻健は、三秦王を自称したが、同年、東晋に降り、王号を称することを止めた。 高祖景明帝(苻健、在位352年 - 355年)325年まで「秦天王」を称する。 廃帝厲王(苻生、在位355年 - 357年) 世祖宣昭帝(苻堅、在位357年 - 385年) 哀平帝(苻丕、在位385年 - 386年) 高帝(苻登、在位386年 - 394年) 末帝(苻崇、在位394年)
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前秦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 15:32 UTC 版)
苻堅は長安に帰還すると、遠征を思いとどまらせようとした張夫人に対して、「われ、また何の面目あってか天下を治めん!」とさめざめ泣いたという。 敗れた前秦はこの敗戦における動揺が激しく、一気に統制力が緩み華北は再び戦乱の時代となる。 慕容垂は弟の慕容徳に苻堅を殺して自立しようと誘われるが、それは出来ないと断り、東の鎮定に出るという名目で、苻堅と途中で分かれた。そして故郷である鄴(旧前燕の首都)に戻り、ここにいた苻堅の庶長子の苻丕と争い、384年に自立して燕王となった。これは後燕と呼ばれる。同じ頃、前秦の北地長史であった慕容泓は華陰で兵を挙げた。また同時期に関中で挙兵していた弟の慕容沖は苻堅の軍に敗れて逃亡し、慕容泓と合流した。これに対して苻堅は姚萇を派遣するが、慕容泓はこれを破る。更に苻堅に捕らわれていた慕容暐を助けるために長安攻略を目指すが、途中で部下に暗殺される。その後を慕容沖が継ぎ、長安を攻めて苻堅を敗走させ、ここで即位した。これは西燕と呼ばれる。慕容泓に敗れた姚萇は、敗戦の罪で苻堅に誅殺されることを恐れて逃亡し、渭北(渭河の北)で羌族を集めて自立した。これは後秦と呼ばれる。前秦の将軍として西域に遠征していた呂光は、一旦帰ってきたところで淝水の敗戦を聞き、涼州で自立して386年に涼天王を名乗った。これは後涼と呼ばれる。 長安から逃げた後の苻堅は、離反した諸国を鎮定するために派兵するが、敗戦が多くまたこの混乱で長安の経済が破壊されて深刻な食糧不足に陥った。385年5月、西燕の勢力を恐れて苻堅は一族と共に長安から脱出するが、385年7月に姚萇により捕らえられ新平に連行されて禅譲を強要される。しかしこれを断り、首を絞められて殺された(自殺したともいわれる)。その死を聞いた苻丕は河東(黄河が北流する東)で皇帝に即位するが、西燕に大敗し、逃れたところを東晋軍に攻められて殺される。その後、一族は抵抗を続けるが、394年10月に完全に滅ぼされた。 この後、更に西秦や夏などが誕生し、更に混乱は深まるが、386年に拓跋珪(道武帝)により復興された代国が魏(北魏)と名前を変えて勢力を伸ばし、最終的に華北を統一することになる。
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