力石
姓 | 読み方 |
---|---|
力石 | ちからいし |
力石 | りきいし |
力石 | りきし |
力石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 06:09 UTC 版)
力石(ちからいし)は、力試しに用いられる大きな石である。日本では鍛錬や娯楽として、江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。磐持石 / 盤持石 / 晩持石(ばんもちいし)、力試し石(ちからだめしいし)など地方によって様々に呼ばれた。また、伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
- ^ 韮塚一三郎編『埼玉県伝説集成 分類と解説 下・信仰編』(北振図書、1974年)pp.112-113
- ^ 高島愼助 全国の力石研究
- ^ 高島愼助『北海道・東北の力石』(岩田書院、2005年)
- ^ a b 文化庁文化財保護部監修『日本民俗資料事典』(第一法規、1969年) p.293
- ^ 大録義行編『那珂の伝説 下』(筑波書林、1984年) pp.120 - 121
- ^ 川崎陽堂『浦和市史蹟と伝説』、韮塚一三郎編『埼玉県伝説集成 分類と解説 下・信仰編』(北振図書、1974年)p.111
- ^ 大録義行編『那珂の伝説 上』(筑波書林、 1984年) p.72
- ^ 『ニ上村史』(1956年) p.549
力石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 22:53 UTC 版)
本殿の右側にある。松原村の若者らが、ことあるごとに体力を試そうとして競いあい、この力石を持ち上げた。重さは不明。松原村に代々伝わったものを、1993年(平成5年)に聖武天皇社に移した。
※この「力石」の解説は、「聖武天皇社」の解説の一部です。
「力石」を含む「聖武天皇社」の記事については、「聖武天皇社」の概要を参照ください。
力石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 07:55 UTC 版)
※この「力石」の解説は、「鷲宮神社」の解説の一部です。
「力石」を含む「鷲宮神社」の記事については、「鷲宮神社」の概要を参照ください。
力石(ちからいし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:36 UTC 版)
「丹後町の離村・廃村」の記事における「力石(ちからいし)」の解説
丹後町の南部、吉永地区から東へ約3キロメートル山道を登りつめた標高220〜250メートル前後に位置した。集落のあった場所を京都府道碇網野線が東西に走る。1888年(明治21年)時点で戸数31戸。谷間に拓いたわずかな田畑と炭焼きなどの林業、養蚕で生計を立てた半農半林の集落であり、とくに養蚕は盛んで「養蚕の里」と称された。しかし、1957年(昭和32年)4月7日未明に火事があり、当時26戸121人が居住していた集落は、その大半の24戸、54棟の家屋が全焼し、111名が罹災した。丹後地方で第二次世界大戦後最大の大火で、その被害割合を重く見た京都府は、本来丹後町であれば40世帯の罹災がなければ適応されない基準があった災害救助法を発動、復興に向けた支援が行われたが、家屋は再建できても、火災で主産業の養蚕が壊滅して生活手段を失ったことで離村者が相次ぎ、1960年(昭和35年)には5戸10人となり、1965年(昭和40年)には2戸4人、1970年(昭和45年)には2戸2人となり、ついに1975年(昭和50年)に全戸離村し、廃村となった。2004年(平成16年)以降の行政手続き上の地名は「[丹後町力石」。 2018年(平成30年)、もと住民とその子孫により「力石集落碑」が建設され、集落の歴史を伝える記録誌が作成された。
※この「力石(ちからいし)」の解説は、「丹後町の離村・廃村」の解説の一部です。
「力石(ちからいし)」を含む「丹後町の離村・廃村」の記事については、「丹後町の離村・廃村」の概要を参照ください。
- >> 「力石」を含む用語の索引
- 力石のページへのリンク