加寿子の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:32 UTC 版)
妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。 不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。明治25年(1892年)1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。 千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。
※この「加寿子の死」の解説は、「内村鑑三」の解説の一部です。
「加寿子の死」を含む「内村鑑三」の記事については、「内村鑑三」の概要を参照ください。
- 加寿子の死のページへのリンク