南京事件に関して
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「ベルンハルト・シンドバーグ」の記事における「南京事件に関して」の解説
上海事変当時、シンドバーグは上海で英デイリー・テレグラフ社の記者ペンブローク・スティーブンスの運転手として働いていたが、1937年11月スティーブンスは誤って日本軍に射殺される。その後、シンドバーグはデンマークの F.L. Smidth 社に南京郊外に建設中の江南セメント工場の警備のために雇われ、12月2日にそこに到着する。そこにいたドイツ人カール・ギュンター博士とともに、シンドバーグはこの工場を爆撃からまもるため屋根にデンマーク国旗を描きドイツとデンマークの旗を掲げたところ、それに気づいた現地の民間人が殺到、彼らはそれら6000~1万人の難民を受入れ、仮設の病院を作り、治療などをほどこし、また、車を走らせて難民のために国際赤十字から薬・食糧・衣服等を集めることを繰り返していたという。中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。シンドバーグは、1937年12月の南京戦で日本軍によって南京が陥落したあと、1938年2月の手紙で、近辺に同様な難民施設を設けていた棲霞山寺の高僧からの依頼で、日本軍の暴虐からの保護を海外に求める手紙をドイツ語に翻訳し、連絡した。 棲霞山寺の高僧の1938年1月25日付報告は以下の通り。 2万4000人の難民が寺にいて、大半は女子供である。男は射殺されたか、拉致された。 1938年1月4日。日本兵がトラック一台にのってやってきて、牝牛を九頭盗み、中国人に屠殺させた。ひまつぶしに近所で数軒の家を焼いた。 1月6日。河岸から多くの日本兵が来て、ロバ一頭と寝具18枚を盗んだ。 1月7日。日本兵が一人の婦人と14歳の少女を強姦し、寝具を5枚奪った。 1月8日・9日。婦人6人が日本兵に銃剣で脅され強姦された。 1月11日。婦人4人が強姦され、酔っぱらった兵隊が寺をかけまわって、小銃を乱射し、多くの者を負傷させた。(民族名無記名) 1月13日。多くの兵隊が食糧を大量に没収し、母と娘を強姦。(民族名無記名) 1月15日。多くの日本兵が若い女10人を寺で強姦した。一人の泥酔した日本兵が酒と女を出せと要求した。酒は出したが、女は出さなかった。 彼は立腹して銃を乱射しはじめ、少年2人を殺し、また道ばたの一軒の家で70歳の老農婦を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた。 1月16日。強姦と略奪がくりかえされた。(民族名無記名) 1月18日。ロバが三頭盗まれた。(民族名無記名) 1月19日。日本兵が寺中を暴れまわり、戸や窓や家具をこわし、ロバを七頭盗んでひきあげた。 1月20日頃、別の分遣隊が到着して棲霞山鉄道駅の警備を交替しました。新しい中尉がきてから事態は改善され、寺にも警備兵が一人ついた。 近年、再認識されるようになった資料では、シンドバーグ自身の方の難民施設では、大きな問題は起こらなかったように見えるが、マギーは、そこを訪問した時に日本兵が女を求めてくるので周辺の村長格の者たち10人ほどで警戒に当たっており、彼らが日本兵の要求を拒むがそのために彼らは殴られると語ったことを証言している。シンドバーグの難民施設では大規模な殺人や虐殺はなかったものの、シンドバーグは性的虐待を完全に阻止することはできず、1937年12月14日から1938年1月27日までの間に、彼は日本の犯罪の26件を記録し、南京の国際安全委員会に報告書を提出した。南京大虐殺紀念館の朱成山館長は、シンドバーグは日本軍による南京大虐殺の目撃者であると主張する。ただし、日本ではシンドバーグは掠奪や強姦の被害を受けた僧侶の報告を翻訳したにとどまるとしばしば主張される。しかし、シンドバーグは写真を趣味としていたため、日本軍の残虐行為に関するものもを含む、彼が1937-1938年に撮ったとされる写真がテキサス大学オースチン校にコレクションされている(上海事変の写真と南京事件の写真がどこまで区別されているかは不明)。これらは、シンドバーグが平素から撮りためておいたものを身を守るため未現像のまま会社の船荷で密かに運び出し、海外で同僚に現像してもらったものとされ、戦後まで未公開のままとなったものも多いとされる。1938年3月彼は職を解かれ、その後中国を離れる(情勢が落ち着いてきたので単にその時期にあたったためとも考えられるが、日本軍の圧力によるとする説もある[要出典]。実際に、ベイツは日本軍がシンドバークに不満を持っていたらしきこと、彼が南京を去った後になっても、大使館員がベイツにシンドバークがカメラマンでなかったか質問してきたことを書き残している。)。南京大虐殺紀念館は、シンドバーグの写真や書簡は、日本による南京大虐殺を告発する重要な記録・証拠であるとし、展示にも使われており、訪中したデンマーク女王も閲覧した。また、関係性は不明だが、南京大虐殺紀念館は彼の同僚であったカール・ギュンターの遺族からも南京事件に関する当時の写真の提供を受けている。 2019年9月に行われたオーフスでのシンドバーグ氏の像の除幕式には、デンマーク女王のマルグレーテ2世 も出席した。
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南京事件に関して
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「南京事件 (代表的なトピック)」および「南京事件論争」も参照 1937年の南京陥落の際には「南京安全区」に逃走した中国兵を、日本軍が便衣兵として多数摘発して逮捕・処刑したが、これについては、便衣兵の摘発が適格であったかなど、以下のように論議ある。1937年の日中戦争の際には中国国民党が、便衣兵による日本軍への襲撃を行っている。
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南京事件に関して
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南京虐殺(南京事件)関連では、第6師団長谷寿夫、同師団の歩兵第45連隊中隊長田中軍吉、および、戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと報じられた向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、谷が1947年4月に、残る3人が1947年12月に死刑判決を受け、処刑された。 谷寿夫 - 当時陸軍中将。第10軍隷下第6師団長。1947年3月10日、BC級戦犯として死刑判決を受け、4月26日、同地で銃殺刑、享年64。当人は虐殺は中島・末松らの部隊が行ったものだと主張した(これは指揮官クラスで公に南京虐殺の存在を認めた唯一のものだとされる。)。しかし、虐殺等について互いに他人の行為を利用して目的を達成しようとした以上、共謀共同正犯として責任を負うとされ、さらに、本人が管轄した中華門一帯でも虐殺事件等が起きていることも指摘され、有罪を免れなかった(なお、共謀共同正犯の共謀は黙示でも良いし、必ずしも事前でなく実行の際でも良いとされる)。この中華門一帯の暴虐行為については、証言を募ったところ四百余人が申し出、公判では八十余人が証言したという。ベイツやスマイスの声明書も公判で提出されている。谷は自身の部下や柳川部隊の関係者を証人として呼ぶことを要請したが、彼らは本来共犯容疑者であり私情から庇うとみられるため判決の根拠に出来ない、要請は単なる時間稼ぎである、として認められなかった。谷当人は上申書を書き、再審を請求したが容れられなかった。 田中軍吉- 当時陸軍大尉。第6師団中隊長。300人斬りの容疑で起訴、山中峯太郎編著『皇兵』(昭和15年)のなかの「三百人も斬った隊長の愛刀助広」として説明されたことや中国人の処刑写真などが証拠とされ、死刑判決。処刑写真の処刑者が自分であることを否定できなかったとされる。一方で、反証提出は許されなかったとする説がある。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年42。 向井敏明 - 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊。百人斬り競争の容疑で起訴、1947年12月12日、公判、18日死刑判決。東京日日新聞昭和12年12月13日の記事、それを転載したハロルド・J・ティンパーリの書籍が証拠とされた。反証提出は許されなかったとする説がある。百人斬りは自分のホラ話とし、当時の部下を証人として呼ぶことを要求したが、部下の証言では信頼性に欠け単なる時間稼ぎであるとして認められていない。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年36。 野田毅- 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊。百人斬り競争の容疑で向井敏明、田中軍吉と共に死刑判決を受けて1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年35。 田中軍吉、向井敏明、野田毅の3名は南京虐殺について、実行行為者として共同正犯にあたるとされたものであるが、中国軍事法廷は、新聞報道、記者証言、被告人らの証言に対する心証等を元に有罪認定しており、3名の「犯行」の実行を特定する証人については、死人に口なしとはいえ見つけてはいない。なお、被告の中からは百人斬りの話を記者にしたことについて英雄視され良縁を得るためという説明もなされ、これ自体は事件後の実際の事実経過と一致しているのだが、判決文を見るかぎり、裁判官はこれをまともな話と受け取っていないように思われる。[どこ?][誰?] 判決では、南京全体で証言のあった揚子江沿岸での捕虜・難民の虐殺者数、民間篤志団体の集団埋葬者数を積み上げる形で「虐殺被害者総数は三〇万人以上に達する。」と認定、現在の中国政府が主張する(事実上最低で)犠牲者三十万人以上説の根拠となっている。
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