なん‐ちょう〔‐テウ〕【南朝】
南朝
南朝
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東晋では沈郎五銖銭と称される小型の五銖銭が発行された、しかし粗悪な鋳造であり、呉や北朝の銅銭が流通する状態であった。 南朝宋が成立するとそれまでの五銖銭より大型の四銖銭を発行し経済の建て直しを図るが、銅不足や貨幣需要の増大により短期間で小型銅銭の鋳造が行われ、この貨幣改革は失敗している。 南朝斉では再び小型の斉五銖銭を発行している。 南朝梁では五銖銭の発行を行うが、銅不足により532年より鉄を材料にした鉄五銖銭の鋳造を開始する。しかし鉄銭の導入によって貨幣発行量が一挙に増大、国内経済の混乱を招いている。 陳でも562年より五銖銭を発行し経済の安定化を図る。そして579年には五銖銭10枚の価値を持つ太貨六銖の発行が開始されたが、民間では五銖銭と等価で取引されたため短期間で廃止されている。
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南朝
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東晋は、江南における西晋の復活という面をもつ王朝だった。江南豪族の成長、華北の動乱による流民の大量流入、それにともなう開墾によって東晋の経済は成長した。長江の下流では微高地を中心として灌漑施設が建設されて農地が開かれ、並行して低地の沼沢地の干拓も始まり、華北からの流民が労働力として動員された。東晋時代は、西晋が八王の乱と永嘉の乱で滅び、華北を失ったため、大勢の漢人が亡命してきた(衣冠南渡)。一方で当時、華北にあたる淮河北部にも大市が百余りあったと伝えられる。しかしこれ以降、華南が発展し始め、経済・政治・文化の中心が形成され、南に遷り始めた。 江南では開拓が進むとともに大土地所有も増えた。荘園には農地の他に、山林や果樹園、養魚池などもそろい、山川の産物は鳥獣や魚介類、建築材、燃料などの資源に恵まれていた。王侯貴族はそれらの産物を加工・販売するために屯、伝、邸、冶などの名で呼ばれる施設を建設した。水稲の他に麦が導入されて穀物の種類が増え、麻と麻布や養蚕と織絹による繊維業も増加して布帛は重要になっていった。新たな産業としては陶器の生産があり、六朝青瓷として知られる。原料の高陵土と木材に恵まれた山地で壺、瓶、碗などが大量に生産された。
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南朝
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南朝(420年 - 589年、書人、筆跡、書論)宋(劉宋)(420年 - 479年) 斉(南斉)(479年 - 502年) 梁(502年 - 557年) 陳(557年 - 589年) 東晋の貴族の間に絶大な崇敬を集めていた二王の書は、引き続き南朝の各王朝でも愛好され、たえず座右に法書を置いて学書された。宋朝では王羲之よりも王献之が貴ばれ、羊欣、薄紹之、孔琳之、蕭思話、謝霊運などは王献之を学んだといわれている。斉、梁では二王ともに流行し、王導の孫の王珣の第3子、王曇首とその子、王僧虔などが特に書名が高い(王氏#王導を参照)。陳では王羲之の7世の孫、智永がでて王羲之の書法の復興につとめ、後代に大きな影響を与えた。しかし、のちの唐代は南朝よりもむしろ北朝の伝統を受け継いだと見るべきであり、概して南朝は書のあまり振わなかった時代といえ、有力な書家もほとんどいない。
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南朝
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南朝時代には、懐良親王が倭寇の取り締まりを条件に明朝から冊封を受け、「良懐」の名で日本国王の称号を受けている。国内では生涯を通して征西大将軍として南朝の一翼を担い続け、日本国王や天皇の号を称することはなかった。
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南朝
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南朝では、天師道・神仙思想・上清経・霊宝経といったさまざまな道教の流れを統一し、中国固有の文化としての道教を守り、仏教に対抗しようとする動きが現れた。その一人が陸修静で、彼は南朝宋の歴代皇帝から尊敬を集め、明帝に請われて建康に建てられた崇虎観に入った。彼は上清経・霊宝経・三皇文を入手し、真偽乱れていた道教経典を整理・校正し、戒律や符籙を鑑定し、これらの文献群を「三洞」に整理した。こうした陸修静の作業の成果は『三洞経書目録』として現代に伝わり、南朝宋末期にこの「三洞」に「四輔」が加わり道教教理の基本が出来上がった。この経典体系成立が、道教を儒教・仏教と並ぶ三教のひとつに並ばせる端緒となった。 加えて、彼は天師道以来の教団の規律を正し、組織を立て直す方法を説いた『陸先生道門科略』を著した。また、道教の戒律(道士が規律違反した場合の懲罰)と斎醮儀規(神仙祭祀の方法)を整備し、完成形を示した。ここで築かれた道教教団の形式は隋唐次代に引き継がれ、大きな影響力を持った。 陸修静の孫弟子の陶弘景は、上清派の経典である『真誥』を整理したほか、天文・暦法・数学・地理・医学・薬学・錬丹といった各方面の著作を残した。ほか、上清派の内修養生の方術を説いた『登真隠訣』や、魏晋に流伝した道教経典を総括し人体や精神の修養論について説いた『養性延命録』といった著作を残している。陶弘景は神仙の世界を整然とした秩序のもとに体系づけた点にも功績があり、『真霊位業図』を書いて7層からなる鬼神の世界を示すとともに、元始天尊を道教の最高神として位置付けた。陶弘景によって上清派の学問が集大成され、後に王遠知・潘師正・司馬承禎・李含光といった道士を輩出した。
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南朝
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国号代数廟号諡号名在位年在位年数宋 1 高祖 武帝 劉裕 420年 - 422年 少帝 劉義符 422年 - 424年 太祖 文帝 劉義隆 424年 - 453年 世祖 孝武帝 劉駿 453年 - 464年 前廃帝 劉子業 464年 - 465年 太宗 明帝 劉彧 465年 - 472年 後廃帝・蒼梧王 劉昱 472年 - 476年 順帝 劉準 476年 - 479年 斉 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年 世祖 武帝 蕭賾 482年 - 493年 廃帝鬱林王 蕭昭業 493年 - 494年 廃帝海陵王 蕭昭文 494年 高祖 明帝 蕭鸞 494年 - 498年 廃帝東昏侯 蕭宝巻 498年 - 501年 和帝 蕭宝融 501年 - 502年 梁 高祖 武帝 蕭衍 502年 - 549年 太宗 簡文帝 蕭綱 549年 - 551年 廃帝豫章王 蕭棟 551年 世祖 孝元帝 蕭繹 552年 - 554年 孝敬帝 蕭方智 554年 - 557年 漢 侯景 551年 - 552年 後梁 中宗 宣帝 蕭詧 554年 - 562年 世祖 明帝 蕭巋 562年 - 585年 後主 蕭琮 585年 - 587年 陳 高祖 武帝 陳霸先 557年 - 559年 世祖 文帝 陳蒨 559年 - 566年 廃帝臨海王 陳伯宗 566年 - 568年 高宗 宣帝 陳頊 568年 - 582年 後主 陳叔宝 582年 - 589年 宋劉裕は、419年 - 420年に東晋の「宋王」だった。 劉劭は、453年に皇帝を称した。 晋安王劉子勛は、466年に皇帝を称した。 斉蕭道成は、479年に宋の「斉王」だった。 文恵太子は、蕭昭業によって、世宗文帝と追号された。 梁蕭衍は、502年、斉の「梁王」だった。 昭明太子は、簡文帝によって、高宗昭明帝と追号された。 臨賀王蕭正徳は、548年 - 549年、皇帝と称していた。 551年 - 552年、帝位は侯景に奪われていた。 武陵王蕭紀は、552年 - 553年、皇帝と称していた。 貞陽侯蕭淵明は、555年は、帝位についていた。この間、敬帝は皇太子だった。 永嘉王蕭荘は、557年 - 560年、帝位についていた。 後梁554年 - 555年、蕭詧は皇帝ではなく、梁主を称していた。 555年から、宣帝蕭詧は皇帝と称した。 陳陳霸先は、557年、梁の陳王だった。 陳道譚は、文帝によって、始興昭烈王と追号された。
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南朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:04 UTC 版)
王憲嫄 - 南朝宋の孝武帝の皇后。 王貞風 - 南朝宋の明帝の皇后。 王宝明 - 南朝斉の蕭昭業(廃帝鬱林王)の母。 王韶明 - 南朝斉の蕭昭文(廃帝海陵王)の皇后。 王蕣華 - 南朝斉の和帝の皇后。 王霊賓 - 南朝梁の簡文帝の皇太子時代の妃。皇后を追贈された。 王皇后 (梁敬帝)(中国語版) - 南朝梁の敬帝の皇后。 王皇后 (陳) - 南朝陳の廃帝臨海王の皇后。
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