南極探検隊の結成と出発
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明治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、失望・落胆する。そこで北極探検を断念し、目標を南極点へ変更するが、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したと知り、意気消沈した。さらに、イギリス政府がロバート・スコットが南極探検に来年も挑むと発表すると、白瀬は即座に競争を決意した。スコットは1910年にイギリスの王立地理学会から支援を受け、科学調査とともに南極点到達を目標にしていた。 明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議した。衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の補助金を支出しなかったため、渡航費用14万円は国民の義援金に頼ることとなった。政府の対応は冷淡であったが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}国民は熱狂的に応援した[要検証 – ノート]。 船の調達も難航し、予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。最終的には千島探検で険悪の仲となっていた郡司成忠に頭を下げ、積載量204トンの木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造をした。この船は、東郷平八郎によって「開南丸」と命名された。極地での輸送力は29頭の犬だった。 同年7月5日、神田で南極探検発表演説会を開催した。当日中に南極探検後援会が組織され、幹事に三宅雪嶺、押川方義、桜井熊太郎、村上濁浪、田中舎身、佐々木照山、会長には大隈重信が就任した。 同年11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港したが、航海中にほとんどの犬が原因不明で死んだ。さらに、白瀬と書記長の多田恵一、船長の野村直吉と他隊員との間に不和が起こった。 明治44年(1911年)2月8日に、ニュージーランドのウェリントン港に入港。物資を積み込み、2月11日、南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、5月1日、シドニーに入港した。 ここで、資金調達のために、書記長の多田と船長の野村が帰国したが、後援会内部では村上濁浪が会費を使い込んだという疑惑が起きて内紛が発生した。一方、シドニーで滞在していた本隊でも内紛が発生しており、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きた。 その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーに戻った多田を加えた隊は、表面上は和解して再び南極を目指して、明治44年(1911年)11月19日に出港した。明治45年(1912年)1月16日、南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名した。同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸でロス棚氷・クジラ湾に向かった。クジラ湾内では、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していた「フラム号」と遭遇、限られた形ながら接触している。 その後、クジラ湾より再上陸し、同年1月20日、極地に向け出発した。この時点では南極点到達は断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とした。 同年1月28日、帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地に「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言した。この領有宣言は、アーネスト・シャクルトンにならって行われた。なお、この地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明した。 白瀬ら突進隊数名は上陸地点付近での気象観測、開南丸はロス湾周辺の調査を行い、付近の湾を「大隈湾」「開南湾」と命名した。なお、これらの地は氷上であり大陸ではない。 探検の記録映像『日本南極探検』は東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、展示室のビデオモニターでその一部が鑑賞できる。
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