各人の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:04 UTC 版)
張本勲は「首位打者を一騎討ちで争って負けたのは榎本さんだけだった。投手がどんな球を投げても決して逃げなかった。あんな打者は他に川上哲治さんだけだった。すごい打者だった」と述べている。また、「私はね、過去の名打者として左で5〜6人、右で5〜6人をリストアップしておるんですよ。左は大下弘さん、川上哲治さん、榎本さん、王貞治、イチロー、私ですね」と語っており、「左打者の理想は榎本さん。教科書になるフォーム。ほとんど動かない。体も開かない」、「教科書になるようなバッティングなんですよ。正確に強い打球を飛ばすには、反動をつけたりしないで、本当は構えてから動かない方がいい。榎本さんは反動も使わず、構えてからなかなか動かない。理想的なバッティングでした」、「野球は動くボールを打つのだから動かないのが理想だが、それではボールの速さに負けるので、普通は反動をつける。足を上げるにも、そのひとつ。だが、榎本さんは、まったく動かなかった。バックステップ、テイクバックもなかった」と評し、「左打者としては完璧だった。川上哲治さんより理想的だったのではないか。『静』の中に『動』があるフォーム。まるで動かないように見えて、静かに膝でタイミングを取る。体が開くわけでも突っ込むわけでもない」、「口数が少なく生真面目で、妥協なく我が道をいく。本当の職人気質の選手だったと思う」と語っている。 豊田泰光は「打撃の上手さでは史上最高の一塁手。とにかく打てないコース、高さというものがほとんど存在しない。この点では、川上さんや大下弘さん、イチローより上。これは断言できる。すごいの形容しか見つからない打者」と語っており、有藤通世は「まさしく、天才の中の天才でした。相手投手の最高の球を、寸分の狂いもなく正確にミートするんです」、「新人で最初に見たプロ野球選手が榎本さんで、その打撃を見て、とんでもない世界に入ってしまったと思った。プロで生きていくためには榎本さんに追いつかなきゃいけない、という思いでずっとやっていた」、「私がロッテに入団した年、最初に見たプロの選手が榎本さんだった。東京球場での自主トレ。ティー打撃でのスイングに全く狂いがない。まるで機械のよう。『凄い…』という言葉しか出てこなかった」、「口数が少なく、求道者のような人だった」と振り返っている。 野村克也が現役時代に最も恐れた打者の一人である。野村が対戦相手の打者を「ささやき戦術」でかく乱したことは広く知られているが、榎本に対しては独特の雰囲気に呑まれ、ささやく余裕を無くしたと後年に証言している。野村は榎本について、「王は榎本と似てましたね。同じコーチに習ったせいでしょうけどね。まあ、こっちはいつも榎本と対戦しているんで、王を攻めるのは易しかったですよ。例えば、王の選球眼は凄いって言われるが、榎本のほうがもっと凄いですよ」、「王は際どい球にピクっとバットが動きそうになるんで、こちらとしても攻めやすいが、榎本は全然動かんのですよ……。ホント、あんな恐ろしいバッターには、後にも先にもお目にかかったことはないね」と語っている。また、野村は「榎本ほど選球眼のよい選手を私は見たことがない。ボール球に手を出さないのは勿論のこと、苦手なコースというものも殆どないのだから、捕手としてはお手上げである。唯一苦手なのが内角高めなのだが、そこも余程速い球でないと手を出してくれない。私の囁きもまったく通用しなかった」、「ボールを見送るとき、頭がピクリとも動かない。表情も変わらない。王のほうが、よほど扱いやすかった。あれほどに恐ろしい打者には、後にも先にもお目にかかったことがない」、「あれほど雰囲気のあるバッターはいない」、「捕手野村として、一番対戦したくなかった打者」とも述べている。 この件については稲尾和久や森安敏明も同様の証言をしており、ストライクゾーンぎりぎりのコースに投げても、榎本はそれがボール球なら首を少し動かすだけで見送り、身体やバットは微動だにしなかったという。稲尾は「とにかくボール球は絶対と言っていいほど手を出さなかった。外角ギリギリに投げ込んだスライダーを、ピクリともせず見送られたのにはまいった」と語っている。また稲尾がフォークボールを投じた唯一の打者である。稲尾は榎本を打ち取るためだけにフォークボールをマスターしており、「自分が対戦した中で榎本さんは最高にして最強のバッター。もっとも雰囲気のあるバッターでした」、「私はヒジへの負担が大きかったのでフォークボールを投げなかったんですが、榎本さんだけには投げざるを得なかった。1試合に5球以内と限定して、ただひとりだけに投げてました」、「構えたままで見切る、ボールの見送り方が嫌だった。無気味なくらいの集中力を感じましたね。シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と振り返っている。 足立光宏は「榎本さんのは同じヒットでもボテボテじゃなく完璧に芯でとらえたヒット。自信を持って投げたボールをきっちり打ち返してくるんです。それも機械のような正確さで。いってみれば球界の宮本武蔵。打率では計り知れない怖さを感じました」と評しており、足立と捕手の和田博実は、榎本のミートポイントはかなり捕手寄りで、変化球を曲がりきった所で打たれてしまうのでお手上げだったと証言している。また杉浦忠は榎本について、「投げる球がなかった。当たり損ないの内野安打やバントヒットなどはほとんどなかった。それで通算打率.298は凄いの一言に尽きる。引っ張り専門の弾丸ライナーで、アウトになった打球もほとんどヒット性の当たりだった」と述べ、「昭和30年代を代表するバッターを挙げろと言われれば、榎本喜八、張本勲、山内一弘、長嶋茂雄、王貞治の名前を挙げます」と榎本の名前を最初に出している。 広瀬叔功は「ボールを見逃し、ストライクを打つ。好球必打は野球における鉄則だが、それを徹底的に実施したのが、この榎本氏だった。恐ろしいばかりの選球眼。1年目に97四死球を選んだのは、偶然でも何でもない。彼の選球眼からすれば、必然の結果だろう。審判の判定にクレームをつける時、榎本氏は親指と人差し指を1センチほど広げて『今の(ボール)はこれだけ外れていましたよ』と平然とした顔で言っていた。大雑把な私には想像できない選球眼だったが、彼が言うと妙に説得力があった。1センチの差が分かる眼力にはただただ感心して敬服したものだ」と述べている。また、オリオンズの監督であった別当薫も「彼(榎本)が偉大だったのは、決してボール球には手を出さないことである」と語っている。 南海のエースであったジョー・スタンカは、日米を通じて榎本を最も苦手な打者としていた。どのように投げても打たれ続けたが、ある試合でようやく榎本を抑えた後にベンチに戻ると、クーラーボックスのビールを開けて他のチームメイトと乾杯したという。 捕手を務めていた辻恭彦は、榎本について、「大毎では榎本喜八さんもすごかったなあ。ミートがうまい左打者でね。覚えているのは、あるゲームで、審判のインサイドのジャッジがいつもより厳しかったんですよ。普通ならストライクのコースがボール、ボールって。榎本さんはバッターボックスのホームベース寄りに構えるんですが、こっちがコースいっぱいのところへ投げ、ボールとジャッジされたとき、悔しくて審判に文句を言っていたら、『辻君、このくらい外れてたろ』って、親指と人さし指を1センチくらい離していた。実は、ほんとそのくらい外れていたんで、びっくりです。いいバッターはたくさん見ましたが、コースでこんなことを言われたのは初めてです。すごい目だなと思いました」と述べている。 西本幸雄は榎本について、「今までに見たバッターの中で一番正確なバッターは誰かと聞かれれば、躊躇なく榎本と言うな。パ・リーグでは野村克也や張本勲が、榎本よりいい成績を残しているけれど」と評している。川上哲治は「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本が最も相応しい」と語っており、その実力を「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」と称している。 榎本と王貞治を指導した荒川博は、「バットコントロールが素晴らしく、あれだけの打撃の名人はいなかった」、「バッターとしての完成度は王より榎本の方が上」と述べており、「お客さんを喜ばせるプレーが初めて『芸』の域に達したプレーなんだね。まず『技』があって、その上に『術』がある。だから『技術』というんだ。『芸』はその上なんだよ。で、『芸』の上が『道』を極めるだ。野球で、それに挑戦したのが榎本なんだよ」、「確かに残した記録では王が上だが、到達したバッティングの境地でいえば、榎本が上だったね」と振り返っている。荒川は榎本の打撃について、「何よりボールの引きつけ方が違った。ヘッドスピードが速いから、ボールがホームベースへ入ってきてストライクだったら、ゆっくり打つ。今の選手みたいにヤマを張る必要がなかった」と評し、榎本が殿堂入りした際には「王、長嶋と榎本は私の教え子の三羽がらす。中でも(榎本は)一番弟子だからね。王、長嶋の殿堂入りとは違う。苦労したから」と祝福した。また、荒川の自宅へ練習に通う榎本を見ていた王貞治は、その姿勢に大いに影響を受けたという。 スポーツジャーナリストの二宮清純が、通算1000イニング以上投げた往年の投手たちへ「最強打者は?」と質問したところ、最も多く返ってきた答えは榎本喜八の名であった。二宮は少年時代に見た晩年の榎本しか知らず、榎本と同時代に生きたパ・リーグの投手たちが張本勲・野村克也・中西太などの上に榎本の存在を位置づけようとすることが不思議だったという。二宮は榎本の残した数字を見て「史上最強と呼ぶには物足りない」と判断したものの、実際に古いテープを取り寄せて榎本の打撃を繰り返し見ているうちに、「その偉大さを理解すると同時に、ピッチャーが榎本を恐れる理由も理解できた」という旨のことを述べており、「何が凄いかといって、榎本の打球はミリ単位も左右にブレないのだ。順回転のスピンで猛禽のように野手を襲うのだ。順回転のスピンというのは、すなわち寸分の狂いもなくピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう」と評価している。また、二宮は少年の頃に晩年の榎本の「一、二塁間を真っ二つに割る強烈なライナーが印象に残っている」と記している。なお、右翼スタンドや右中間スタンドへの突き刺さるような榎本の本塁打は、負傷者を生み出したことがあった。打球を取ろうとして避けきれず、顔にボールを受けて昏倒した観客までいたという。 榎本自身は現役時代に印象深かった投手として、稲尾和久、杉浦忠、足立光宏の3人の名を挙げている。稲尾については「本当に良いライバルでした。どんなに打たれても、あの人だけは一回もひげそりボール(ブラッシュボール)を投げてこなかったです。素晴らしい人間でした」と讃えている。榎本と同じように左の中距離打者で「打撃の天才」と言われていた前田智徳については、「話を聞く限り、彼には私と共通するものがあると思います」とコメントした。打撃へのこだわりなど奇人めいたものを持つところまで共通している部分はある。二宮清純は1993年に、前田の打撃の理想を追い求める姿や、投手との対決での剣豪・職人じみた雰囲気から、「前田は榎本の姿を彷彿とさせる」という旨のことを述べている。また、榎本は1980年代中盤のインタビューで、ロッテで全盛期を迎えていた落合博満について問われた際、「彼はロボットが違いますから」と評した。1990年代後半のインタビューでは、宮本慎也について「エンジンがある」と評価している。
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