各地域の初期農耕文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:38 UTC 版)
「エジプト先王朝時代」の記事における「各地域の初期農耕文化」の解説
古代エジプト人は今日のエジプトの土地を上エジプト(タ・シェマ)と下エジプト(タ・メフ)と言う2つの国、あるいは2つの土地に分けて理解していた。上下という表現は、ナイル川の上流・下流に対応し、上エジプトが南、下エジプトが北である。ナイル川が一筋に流れ、ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトと、ナイル川の広大なデルタ地帯が扇状に広がり、一面の緑が広がり海に面した下エジプトでは、その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した。その後エジプトが統一された後も、この2つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。 また、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、ファイユーム低地地方が存在した。ナイル川の分流が流れ込んで形成されたカルーン湖を中心とするこの地方は、中王国時代に干拓が行われるまで、広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、継続的に人類の生活の舞台であった。
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