【名誉勲章】(めいよくんしょう)
アメリカ軍において最高位の勲章で、アメリカ軍人に大統領から直接授与される。
「議会の名において」授与されることから議会名誉勲章とも呼ばれる。
多くは同時に大統領感状も授与される。
授章基準及び対象者は
「戦闘でその義務を超えた優秀な行為をし、もしくは自己犠牲を示したアメリカ軍人」
とされ、一回の作戦で授与されるのは1師団から一人だけである。
メダルのデザインは陸海空軍各々で異なっているが、海兵隊や沿岸警備隊には独自のデザインがなく、海軍のものが使用されている。
勲章の授与者には「毎月$600の手当て」「退職金の割り増し」「特別旅行」などの数々の実利が伴っており、また名誉勲章受賞者に対しては相手の階級に関係なく自ら敬礼し、答礼を受けることになっている。
関連:金鵄勲章
名誉勲章
名誉勲章
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「セオドア・S・ウィルキンソン」の記事における「名誉勲章」の解説
“ピング”こと、セオドア・スターク・ウィルキンソンは1888年12月22日、メリーランド州アナポリスで、アーネスト・ウィルキンソン海軍少尉の息子として生まれる。1905年に海軍兵学校(アナポリス)に入学し、1909年に首位の成績で卒業した。アナポリス時代はスポーツに長け、ニックネームの「ピング」は、特にテニスや卓球を得意としていたことから名づけられた。卒業年次から「アナポリス1909年組」と呼称された世代からはレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦で戦艦部隊を指揮したジェシー・B・オルデンドルフ、戦艦「ノースカロライナ」初代艦長オーラフ・M・ハストベット、初代海軍作戦部長のウィリアム・S・ベンソンを父に持つ戦艦「ワシントン」初代艦長ハワード・H・J・ベンソンらがいる。 アナポリス卒業後、ウィルキンソンは候補生として2年間の海外勤務の義務のため、戦艦「カンザス」 (USS Kansas, BB-21) および「サウスカロライナ」 (USS South Carolina, BB-26) 乗り組みとなる。1911年6月5日に少尉に任官後、ワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学に籍を置きながら海軍省兵站局(英語版)に勤務し、1913年7月25日に戦艦「フロリダ」 (USS Florida, BB-30) に配属され、再び国外での任務に就く。時はメキシコ革命の最中、「フロリダ」もベラクルスに派遣される。1914年4月21日から22日にかけて、ウィルキンソンは「フロリダ」の第2陸戦隊を率いてベラクルスでの戦闘に加わって税関を占領。「熟練して勇敢なリーダーシップを発揮し、卓越して顕著である行為」が認められて名誉勲章を授与された。この時、ウィルキンソン以外に名誉勲章を授与された者の中には、空母任務群を指揮したフランク・J・フレッチャー(アナポリス1906年組)や室蘭艦砲射撃を行ったオスカー・C・バジャー2世(英語版)(アナポリス1911年組)、アメリカ海軍航空隊の礎を築いたウィリアム・A・モフェット(アナポリス1890年組)などがいる。 名誉勲章感状階級と所属:アメリカ海軍、生地と年月日:1888年12月22日, アナポリス, メリーランド、推薦:ルイジアナ州第177番, 1915年12月4日付、他の受章歴:殊勲章, 金星章1914年4月21日及び22日のベラクルスにおける戦闘において、ウィルキンソン少尉は両日の戦闘に参加し、熟練して勇敢なリーダーシップを発揮して卓越して顕著である行為が認められた。
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名誉勲章
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「ロス・A・マクギニス」の記事における「名誉勲章」の解説
マクギニスは、バージニア州のアーリントン国立墓地に埋葬されている 。マクギニスは、イラク戦争開戦以来、生きたまま手榴弾の上に覆いかぶさった5人のアメリカ軍の兵士の1人となった。他の4人は、ジェイソン・ダナム伍長(海兵隊、名誉勲章)、マイケル・A・モンスーア二等兵曹(海軍、名誉勲章)、カイル・カーペンター伍長(海兵隊、名誉勲章)、ラファエル・ペラルタ三等軍曹(海兵隊、海軍十字章)である。またマクギニスは、イラク戦争における4人目の名誉勲章受章者である。 2008年6月2日、ホワイトハウスのイーストルームで式典が開かれ、ジョージ・W・ブッシュ大統領から遺族に名誉勲章が贈られた。この式典には、遺族と大統領の他に、副大統領、ジェームズ・ピーク退役軍人長官、ピート・ゲレン陸軍長官、マイケル・ウィン空軍長官、ジェームズ・カートライト統合参謀本部副議長などの多くの著名人が出席した。他にも連邦議会議員や、イラクでマクギニスが所属していた部隊のメンバーが出席し、その中には、マクギニスが命を犠牲にして救った4人の兵士も含まれていた。
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名誉勲章
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「ランディ・シュガート」の記事における「名誉勲章」の解説
1994年5月23日、シュガートとゴードンは死後、ブラックホーク「スーパーシックス・フォー」の乗組員を保護した功績により、名誉勲章を追贈された。彼らは、ベトナム戦争以来初となる名誉勲章受章者となった。 ランディ・シュガートの父ハーバート・シュガートは、ホワイトハウスで行われた名誉勲章授与式に出席したが、ビル・クリントン大統領の握手を拒否した。その後、彼は公然と大統領を批判し、「あなたはアメリカ合衆国大統領にふさわしくない。私の息子の死の責任は、ホワイトハウスとあなたにある。あなたは指揮官に適していない。」と述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}アメリカ陸軍のシュガート一等軍曹は、1993年10月3日、ソマリアのモガディシュにおける任務で、アメリカ陸軍特殊作戦司令部の狙撃部隊メンバーとして、義務の要求を超越した際立った行動があった。シュガート一等軍曹は、周囲の建物及び2機のヘリコプター墜落現場に対して、強力な自動兵器による射撃と多数のロケット推進手榴弾からの攻撃にさらされながら上空のヘリコプターから先頭に立って精密な狙撃支援を行った。シュガート一等軍曹と彼の狙撃部隊リーダーは、2機目の墜落現場に対し、多くの制圧射撃を実施している間、現場を確保するために地上部隊が直ぐに利用できないことを知った。シュガート一等軍曹と彼の狙撃部隊リーダーは、墜落現場に接近する敵の要員の数が増加していることを良く理解していたにも関わらず、4人の重傷を負った乗組員を保護するために躊躇なく地上に降下することを希望した。シュガート一等軍曹と彼の狙撃部隊リーダーは、3回目の降下要請で、この希望任務を実施することの許可を得た。墜落現場の破片と敵の地上攻撃により、最初の降下が中止された後、シュガート一等軍曹と彼の狙撃部隊リーダーは、墜落現場の南100メートルに降下した。狙撃銃とピストルだけを装備したシュガート一等軍曹と彼の狙撃部隊リーダーは、敵からの激しい攻撃の中で、重傷を負った乗組員に到達するために小屋と民家が密集した迷路を、戦いながら通り抜けた。シュガート一等軍曹は、パイロットと他の乗組員を機体から引き離し、自身と仲間の狙撃兵を最も脆弱な位置に配置し、防御線を確立した。シュガート一等軍曹は、長距離ライフルとサイドアームを利用し、周囲を移動している間に不特定多数の攻撃者を殺害し、墜落した乗組員を保護した。シュガート一等軍曹は、弾薬を使い果たし、致命傷を負うまで、防御射撃を続けた。彼の行動はパイロットの命を救った。シュガート一等軍曹の並外れた英雄的行動と任務への献身は、兵役における最高水準の伝統に沿うものであり、彼自身、彼の部隊、そしてアメリカ陸軍に偉大な功績を残した。
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名誉勲章
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「ダニエル・J・キャラハン」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状1942年11月12日から13日にかけての夜に、サボ島沖で突発的に起こった日本艦隊の襲来に対して、並外れた英雄的行為と明らかなる大胆不敵さを見せつけた。キャラハン少将は彼我の戦力差をものともせず、独創的かつ戦術的スキルと部隊の見事な連携策をもって強力で恐るべき日本艦隊との対決を決意し、日本艦隊に決定的な打撃と敗走を与えることに貢献した。圧倒的に優勢な敵の火力の猛攻撃を前面に浴びながら近接攻撃を敢行し、彼は旗艦艦上で戦死した。彼の発揮した勇敢なイニシアチブと感動的なリーダーシップ、および重大な危機が迫る中での賢明な予測と分析は、アメリカ海軍における任務での最高の伝統と一致している。彼はその勇敢な行為をもってわが身を捧げて国に忠誠をつくした。 キャラハンの戦死時、息子のダニエル・ジュニアは中尉であり、父に代わって名誉勲章を受け取った。
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名誉勲章
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「ジョー・M・ニシモト」の記事における「名誉勲章」の解説
ニシモトが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ジョー・M・ニシモト上等兵は、1944年11月15日のフランス・La Houssière近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。強固に守られた尾根から敵を追い払う、という彼の中隊による作戦が失敗した3日間後に、ニシモト上等兵は、分隊長代理として、大胆にも激しく破壊されているうえにブービートラップを仕掛けられたエリアを通過し、前方へ這って進んだ。機関銃の砲床に狙いを定め、彼は手榴弾を投げつけて、砲床を破壊した。ついで、もう一つの機関銃の陣地の後部に旋回して、彼は直接弾道距離内に自身の軽機関銃を発砲した。そして、1名の射手を殺害し、もう1名を負傷させた。2人の敵のライフルの狙撃手を追跡して、他の者が急いで退く間、ニシモト上等兵は1名を殺害した。なおも断固として攻撃を続け、彼はその場からもう1名の機関銃の射手を追い出した。敵軍は、彼らにとって重要な場所を奪われ、この防衛区域から撤退することを余儀なくされた。ニシモト上等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「ブルース・マッカンドレス」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、際立った勇敢さと義務をも超越した勇気を示したブルース・マッカンドレス中佐に名誉勲章を授与する。中佐の乗る「サンフランシスコ」は1942年11月12日から13日にかけて展開されたサボ島沖の海戦で日本艦隊と交戦し、敵の砲弾は容赦なく浴びせかけられて中佐は負傷、司令官や幕僚、艦長その他も戦死するか負傷するにいたった。彼は回復するや否やイニシアチブを発揮し、速やかに艦の運動を指示して圧倒的な敵艦隊に立ち向かい、砲撃を命じた。司令官の戦死を知らない他の艦艇に対して巧みに指示を与え、中佐は重大な責任を負いつつ敵を追い払うことに成功し、偉大な勝利を味方にもたらした。「サンフランシスコ」は彼のシーマンシップと偉大な勇気に応えるかのように生き残り、国の戦いに再び参加するために港に戻された。
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名誉勲章
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「テッド・T・タノウエ」の記事における「名誉勲章」の解説
タノウエが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 テッド・T・タノウエ一等軍曹は、1944年7月4日のイタリア・Molino a Ventoabbto近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。タノウエ一等軍曹は、殆ど防御する余裕の無かった戦略的に重要な高地を占領すべく、自身の小隊に攻撃を仕掛けさせた。敵のマシンガンの射手が、彼の左正面に銃を設置しているところを目撃し、タノウエ一等軍曹は2~3ヤード前に忍び寄り、陣地に向けて銃撃し、敵兵3名を死傷させ、残りの2名を追い払った。すぐに敵の自動小銃は、彼に向けて発砲したが、彼は反撃に転じ、更に3名の敵兵を死傷させた。前進中に、タノウエ一等軍曹は手榴弾の爆発によって、左腕に重傷を負った。敵に占拠された塹壕を発見して、彼は軽機関銃によって陣地を一掃し、何名かの敵兵を負傷させた。弾薬が尽きて、彼は仲間からいくつかの弾薬を得る為に、自身の左側面20ヤードを這って進んだ。次に、彼の部下を狙った敵の自動小銃を発見し、タノウエ一等軍曹は2~3ヤード前方へ這って進み、手榴弾を敵の陣地に投擲し、銃を沈黙させた。直後に彼は、高地の斜面に向けて発砲してくる別の敵の機関銃を発見、反撃し、相手を沈黙させた。彼の頭上に陣取る自動小銃の砲床から攻撃されたが、砲床へ銃撃し、その場に居た敵兵3名を負傷させた。応急手当処置と避難の指令を受け入れる前に、タノウエ一等軍曹は、自身の最終目標である高地の裏の斜面に防御陣地を完成させた。タノウエ一等軍曹の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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モトが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 カオル・モト上等兵は、1944年7月7日のイタリア・カステッリーナ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。モト上等兵は、自身にとって初めてとなる偵察の任務を行っている間、自身の小隊の前進を妨げていた機関銃の砲床を注視していた。自らの意志で、敵の陣地から10歩ほどの距離の位置にまで行き、敵の機関銃の射手を殺害した。直ちに、敵の補助射手はモト上等兵を目掛けて銃撃してきた。陣地の後部へと這って進み、モト上等兵は敵兵を驚かせ、その敵兵はすぐに降伏した。捕虜となった敵兵とともに、モト上等兵は敵が民家を監視所として使うことを防ぐ為、その民家から2~3ヤードの距離をとった。民家と捕虜を監視している間、家と彼の囚人を守っている間、彼は敵の機関銃チームが陣地へ移動しているところを見た。彼は敵を交戦し、執念深い砲火によって、敵を追い払った。別の民家に潜んでいた狙撃手は、モト上等兵に向けて発砲し、彼に重傷を負わせた。傷に応急処置を施し、彼は狙撃手による砲火を避けて前進する為、位置を変えた。最終的に彼の陣地は救援され、治療の為後退した。道を横切り、敵の機関銃の砲床を発見、銃撃し、陣地にいた敵兵3名のうち2名を負傷させた。これだけに飽き足らず、その後前方のより良い位置へ這って進み、敵兵に降伏するよう命じた。相手がそれを無視したことから、モト上等兵は発砲し、相手は降伏した。モト上等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「ロバート・T・クロダ」の記事における「名誉勲章」の解説
クロダが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ロバート・T・クロダ二等軍曹は、1944年10月20日のフランス・ブリュイエール近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。部下を率いて前進し、敵の狙撃兵と機関銃を巣窟を撃滅し、クロダ二等軍曹は非常に樹木が茂った斜面を占有している敵兵から、強烈な砲火攻撃を受けた。敵軍の機関銃を正確に指摘することが出来ず、彼は激しい砲火を物ともせず、果敢にも峰の頂上まで突き進んだ。一旦彼が機関銃を見つけると、クロダ二等軍曹は巣窟の10ヤードの中に点へ進み、手榴弾で敵の射手3名を殺害した。加えて、彼はライフル弾薬のクリップに一気に着火し、少なくとも3名の敵兵を死傷させた。彼は自身の弾薬が尽きたところ、米軍将校が隣接した丘にある敵対的な機関銃から、唐突に砲火攻撃を喰らっていることに気が付いた。将校の援助に走ったところ、彼はその将校が死亡していることを知った。将校の軽機関銃を拾い、クロダ二等軍曹は火の海の中、第二の機関銃の砲床の方へ進み、陣地を破壊した。彼が更なる敵兵による砲火に振り返ったところ、狙撃手によって殺害された。クロダ二等軍曹の勇敢な行動と不屈のファイティングスピリットは、防衛区域での敵の抵抗の撲滅を確実なものとした。クロダ二等軍曹の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「キヨシ・K・ムラナガ」の記事における「名誉勲章」の解説
ムラナガが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 キヨシ・K・ムラナガ上等兵は、1944年6月26日のイタリア・スヴェレート近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。ムラナガ上等兵の中隊は、要地を押さえているうえに優れた射撃能力を持つ敵の部隊に遭遇した。敵の88mm自走砲は直接中隊に攻撃を仕掛け、隊をバラバラに追いやった。ムラナガ上等兵の迫撃砲分隊は攻撃を命じられたが、地形の悪さが原因で武器を組み立てることが出来なかった。分隊長は、迫撃砲の位置の脆弱さを理解して、銃から相対的に安全な位置まで部下たちを遠ざけた。部隊に多くの死傷者が出たことから、射手だったムラナガ上等兵は、独力で88mm砲の陣地を制圧しようと試みた。自ら射点に残り、ムラナガ上等兵は自身を迫撃砲に配置し、約400ヤードの距離で敵の砲に発砲した。彼の3発目の射撃は、着弾修正することが出来たので、砲弾を敵砲の前に命中させることに成功した。一方、すぐに迫撃砲砲火の位置に気付いた敵の一団は、88mm砲をムラナガ上等兵の位置に向けた。ムラナガ上等兵が4発目の射撃を行う前に、88mm砲の砲弾は彼の位置に命中し、即死に追いやった。先のムラナガ上等兵による砲火の正確さにより、敵兵は更なる危険に身を晒すことを恐れ、位置を放棄した。ムラナガ上等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「アルバート・E・シュワブ」の記事における「名誉勲章」の解説
シュワブには名誉勲章が追贈されることとなった。1946年の戦没将兵追悼記念日当日、テキサス州コーパスクリスティの海軍航空中級課程部隊司令官を務めていたジョゼフ・J・クラーク海軍少将がタルサに出向いて、ボールダー・パークで行われた式典でシュワブの3歳になる息子に名誉勲章が授けられた。 名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、アルバート・アーネスト・シュワブ海兵一等兵に名誉勲章を追贈する。1945年5月7日に沖縄島における日本軍との対決において、彼は第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊の一員として火炎放射器を駆使し、生命の危険を顧みずに目立つ勇敢さと恐れ知らずの心を見せつけた。彼の部隊は周囲に敵が潜む急峻な崖のある谷間に釘づけにされ、高い尾根から浴びせかけられる銃弾により多数の死傷者を出していた。シュワブ一等兵は大胆にも激しい弾幕の中を尾根に向かって突進し、尾根の敵の銃架に対して火炎放射器の火を浴びせかけて味方部隊に尾根を占領させるきっかけを作った。突如として別の日本軍の機銃が味方部隊に新たな死傷者を強要させたのを見るや、シュワブ一等兵は苦難に直面している味方を救うべく瞬時に決断し、火炎放射器の燃料が不足気味にもかかわらず新たな攻撃を行った。冷静かつ不屈の闘志を持つ彼は、敵の銃架の正面に躍り出て執拗に攻め立てた。最終的には執拗な敵の反撃の弾に屈したが、シュワブ一等兵は戦闘の重要な局面において戦略的価値のある2つの日本軍の銃架を破壊し、彼一人の精悍な努力によって味方部隊の進撃に貢献した。彼の発揮した勇敢なイニシアチブと苦しい紛争を通じて鍛えられた卓越した勇気と専門的スキルは、アメリカ海軍における任務での最高の伝統の維持に貢献した。彼はその勇敢な行為をもってわが身を捧げて国に忠誠をつくした。 — ハリー・S・トルーマン、
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名誉勲章
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「ジョン・クロムウェル (軍人)」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年11月19日にトラック諸島近海における、潜水群司令として「スカルピン」の9回目の哨戒に同乗した司令ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐が示した際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。クロムウェル大佐は太平洋戦域において潜水任務群の大規模な哨戒計画を立案し、また味方の潜水艦戦略と戦術、察知した日本艦隊の動きや特定の攻撃計画に関する軍事機密情報を保有していた。潜水群は絶えず彼からの秘密の司令に基づいて正確な警戒を実施。彼は敵側の妨害を排除して容赦なく潜水群を前方に進出させ、ついに日本軍の牙城たるトラック諸島に対する潜水艦の哨戒ラインを確立した。やがて日本側の爆雷攻撃に見舞われ、「スカルピン」は甚大な戦闘被害を受けて深く沈むこととなった。彼は「スカルピン」を浮上させて敵に砲戦を挑んで敵を引付けさせ、その間に乗組員に艦を放棄して脱出させる機会を作った。彼は自らが生き残った場合、日本軍の薬物を使用した拷問により機密情報を告白させられるリスクを勘案し、その危険性を回避するため自らを犠牲にして情報を守ることを決意して、深く傷ついた艦に残って艦と運命を共にした。彼は国と海軍への義務の遂行と献身への深い思いから、わが身を犠牲にしてまで機密情報を守り通した。死を目前にした時の彼の偉大で剛直な勇気は、アメリカ海軍の任務の伝統に新たな輝きを追加した。彼はその勇敢な行為をもってわが身を捧げて国に忠誠をつくした。
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名誉勲章
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オータニが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 カズオ・オータニ二等軍曹は1944年7月15日、イタリアのピエーヴェ・ディ・サンタ・ルーチェ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。オータニ二等軍曹の小隊は、敵の機関銃と狙撃兵の陣地からの集中した砲火によって、小麦畑から身動きが取れなくなっていた。自身の小隊が直面している危険を認識し、オータニ二等軍曹は自身の避難場所を去ったうえで発砲し、小隊に対して致命的な危害を及ぼしていた狙撃兵を殺害した。機関銃による掃射が絶え間無く続き、オータニ二等軍曹は、広々とした小麦畑を横切り、崖の下部の方へ駆けていき、部下に崖の避難場所に這って進むよう命じた。小隊の動きが敵の激しい砲火を招いた際、彼は崖に沿って部隊の左側面へ駆け、敵の砲火を浴びた。敵の注意を惹くことによって、彼は崖に最も近い仲間を避難場所に着かせることに成功した。想定し得る敵の反撃に抵抗する部下達を編成して、オータニ二等軍曹は再び広々とした野原を横切り、敵の砲火を引き寄せている間、立ち往生する仲間に指示を叫んだ。小隊の位置の後部に着き、彼は前進し始めた部下の為に、浅い溝に部分的な避難場所を作り、指向援護射撃を行った。この所で、彼の部下の1人が重傷を負った。部下に隠れ続けることを命じ、オータニ二等軍曹は、敵から丸見えの広々とした場所に倒れていた負傷兵の場所にまで這って進んだ。浅い溝に負傷した兵士を引き寄せ、オータニ二等軍曹は応急処置を始めたが、機関銃の砲火によって致命傷を負った。オータニ二等軍曹の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「バーニー・F・ハジロ」の記事における「名誉勲章」の解説
ハジロが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 バーニー・F・ハジロ一等兵は、1944年10月19・22・29日のフランス東部のブリュイエールならびにビフォンテーヌ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。1944年10月19日に、ブリュイエール近郊の堤防において哨兵を務めている際、ハジロ一等兵は敵の砲火を自身に向けさせることによって、200ヤード離れた地点の掩体を攻撃している連合軍部隊を援助し、友軍の砲火を敵の拠点に向けさせた。彼は、その正確な自動小銃の射撃により、敵の狙撃手2名を殺傷し、部隊に貢献した。1944年10月22日に、彼と1人の仲間は、自身らの小隊の右正面50ヤードの位置から前哨警戒を始め、姿を隠すことによって、重武装の敵のパトロール部隊18名のうち2名を殺害、1名を負傷させ、残った者を捕虜として捕らえた。1944年10月29日に、ビフォンテーヌ近郊の樹木が茂った地域で、ハジロ一等兵は丘の傾斜の上において敵の攻撃が行われている約100ヤード前を走りながら攻撃を始めた。彼は仲間より約10ヤード前を進み、自ら攻撃の的となって、カモフラージュされた機関銃座を発見した。彼は敵軍の砲火を恐れず、独力で2つの機関銃座を破壊して、敵の狙撃手2名を殺害した。ハジロ一等兵の英雄的な行動の結果、攻撃は成功した。ハジロ一等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/24 14:34 UTC 版)
「ウィリアム・K・ナカムラ」の記事における「名誉勲章」の解説
ナカムラが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ウィリアム・K・ナカムラ上等兵は、1944年6月26日のイタリア・スヴェレート近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。激しい銃撃戦の間、ナカムラ上等兵の小隊は、死角からの敵の機関銃砲火によって身動きが取れなくなった。ナカムラ上等兵は、自ら進んで敵の砲火を辛うじて避けながら、敵の砲床を目指して20ヤード這って進んだ。目標地点から15ヤードの地点にまで達したところで、彼は即座に身を起こして4個の手榴弾を投擲し、少なくとも3名の敵兵を殺傷した。敵の攻撃が収まり、ナカムラ上等兵は自身の小隊にまで這って戻り、彼の勇敢な行動により、小隊は前進を続けることが可能となった。直後に、彼の中隊は尾根から迫撃砲の集中砲火を行えるよう準備する為に、丘の頂上から撤退することを命じられた。ナカムラ上等兵は、仲間の撤退を援護する為に、その場に留まることを決意した。安全な樹木が茂った溝の方向へ進んでいる間、彼の小隊は執念深い機関銃の砲火によって身動きが取れなくなった。敵の陣地に発砲することができた点へと這って進み、ナカムラ上等兵は敵の機関銃の射手の身動きを取れなくする為、迅速かつ正確に、自身の武器を発射した。それから、彼の小隊は更なる犠牲者を出すことなく、安全に撤退することができた。ナカムラ上等兵は、この勇気ある最期の抵抗の間、殺害された。ナカムラ上等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/12 16:40 UTC 版)
ハヤシに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 シズヤ・ハヤシ一等兵は、1943年11月29日のイタリア・チェラスオーロ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。高地を占拠する敵に対する側面攻撃において、部隊が敵の手榴弾・小銃・機関銃に制圧される中、ハヤシ一等兵はたった一人で突撃を敢行した。ハヤシ一等兵は瞬く間に 敵の機関銃座を奪取し、隠れていた敵兵7名を倒し、残る2名を追い払った。次いで、その地点から小隊が200ヤード前進した時に、敵の高射砲が発砲した。果敢に撃ち返したハヤシ一等兵は、敵兵9名を倒し、4名を捕虜とし、残る敵を敗走させて高地を占領した。ハヤシ一等兵の卓越した勇気と任務への献身は、軍人としての崇高な伝統を受け継ぎ、また、彼、その部隊、ひいては合衆国陸軍に偉大な名誉をもたらすものであった 。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/18 05:59 UTC 版)
ナカミネが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 シンエイ・ナカミネ一等兵は、1944年6月2日のイタリア・La Torreto近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。攻撃の間、ナカミネ一等兵の小隊は正面から200ヤード離れた小さな丘からの、機関銃による激しい十字砲火によって、動きを封じられていた。ナカミネ一等兵は、自らの決断により、敵の砲床の1つの方面へ這って進んだ。敵の位置から25ヤードの距離にまで達したところで、彼は機関銃の砲床に突撃、軽機関銃を発砲し、3名の敵兵を殺害し、2名の身柄を確保した。その日の夜遅く、ナカミネ一等兵は自身の小隊の位置の右側面に、敵兵を発見した。自身の位置から25ヤードの距離を這って進み、ナカミネ一等兵は銃撃し、敵兵を殺害した。次いで、自身の正面から約75ヤード離れた位置に機関銃の砲床を発見し、小隊まで戻り、自動小銃部隊を敵の位置にまで導いた。味方部隊からの援護射撃の中、ナカミネ一等兵は砲床から25ヤードの位置にまで這って進み、敵兵に手榴弾を投げつけ、1名を負傷させ、4名の身柄を確保した。右側面から100ヤードの位置にあるもう一つの機関銃の砲床に狙いを定めた彼は、自動小銃部隊を敵の位置にまで導いたが、突然の機関銃砲火によって殺害された。シンエイ・ナカミネ一等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/26 09:28 UTC 版)
「アラン・M・オーハタ」の記事における「名誉勲章」の解説
オーハタが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 アラン・M・オーハタ二等軍曹は、1943年11月29・30日のイタリア・チェラスオーロ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。分隊長であるオーハタ二等軍曹と3人の部下は、機関銃や機関拳銃、ライフルで武装した40名の敵兵から攻撃されている自身の小隊の左側面を防御するよう、命令された。彼は、自動小銃兵である部下の一人を自身の位置から15ヤード離れた左端に配置した。オーハタ二等軍曹は自分の位置につき、進攻してくる敵に対して有効な射撃を加えた。その部下は、自身の自動小銃が狙撃され、損害を受けた際、援助を求めた。オーハタ二等軍曹は、自身の危険を全く顧みず、自身の位置を去り、重機関銃による砲火の中、15ヤード前進した。部下の位置に達した彼は、直ちに敵に発砲して、10名の敵兵を殺害し、その部下が武器を交換するために撤退するのを上手く援護した。オーハタ二等軍曹とその自動小銃兵は、敵の位置を占拠し、37名の敵兵を殺害し、残りの3名の身柄を確保した。その後、オーハタ二等軍曹とその自動小銃兵は、他の14名の敵兵による攻撃を止めるべく、4名を殺害、3名を負傷させ、残りの者を追い払った。翌日、彼らは断固たる決意を以って自身の要塞の側面を守り、全ての攻撃を食い止めた。アラン・M・オーハタ二等軍曹の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/06 01:22 UTC 版)
「スチュアート・S・ストライカー」の記事における「名誉勲章」の解説
ストライカーが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 彼は、ライン川の東に降下した後、ドイツ ヴェーゼルの近郊で部隊が編成されたとき、小隊伝令手であった。 鉄道に沿って進撃したところ、E中隊は小銃、機関銃および野戦砲4門を備えた強大な戦力で守備された敵の司令部まで約250ヤードのところに到達した。一小隊が正面攻撃を仕掛けたが、わずか50ヤード進んだところで強烈な銃撃により足止めを受けた。小隊が大きな打撃を受け、応射することもできずドイツ機関銃手に翻弄されていたとき、ストライカー一等兵は自主的に比較的安全な場所を離れ、カービン銃で武装して、部隊の先頭へと走った。敵の眼前で、銃火が続く中 彼は仲間に立ち上がって彼に続くよう熱心に説き勧めた。恐れを知らぬ彼に触発され、部隊は彼に続いて強まる弾雨の中、捨て身の突撃を行った。彼は勇敢に闘ったが、目標まで25ヤードまで迫ったところで、敵兵の斉射により戦死した。圧倒的な火力に直面した中での彼の勇敢かつ完全に独立した行動は彼の戦友を勇気付けるとともに、彼が敵の注意を惹き付けたことにより彼の中隊は建物を包囲して200名以上の敵兵を捕虜にして、囚われていたアメリカ軍の爆撃機クルー3名を解放することができた。ストライカー一等兵の大胆かつ躊躇のない自己犠牲は、軍隊の最も崇高な伝統を維持するものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:21 UTC 版)
「トーマス・J・ライアン」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状1923年9月1日、横浜のグランドホテルで英雄的な行為により女性を救出した。この日、ライアン少尉は横浜で発生した地震と火災の中、わが身を顧みずグランドホテルから女性を避難させて命を救った。彼は、自らがとった英雄的行為により、アメリカ海軍に対する最大の信用を具現化した。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/10 16:35 UTC 版)
「ロバート・F・ストライカー」の記事における「名誉勲章」の解説
ストライカーが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ストライカー特技兵はC中隊の一員として、自らの生命の危険を顧みない、勇敢かつ大胆不敵な行動により、課せられた以上の任務を果たし、その名を残すこととなった。ストライカー特技兵はロクニン近郊での合同威力偵察において擲弾兵としての任務に就いていた。彼の部隊が生い茂る草むらをかいくぐって進軍していたところ、突然、要塞化された地下壕と周囲の木々に隠れていた敵軍からロケット弾や自動小銃、小火器による攻撃を浴びることとなった。ストライカー特技兵は直ちにグレネードランチャーで敵陣に反撃した。猛烈な銃撃戦の中、ストライカー特技兵は彼の中隊を包囲して友軍主力から孤立させようとする敵兵に気が付いた。ストライカー特技兵は、敵の機関銃と小火器からの銃撃に怯むことなく、繰り返しグレネードを森に撃ち込んで敵の狙撃手を倒すことで、敵の包囲を破ろうと試みる彼の戦友達を助けた。戦闘が続くうち、ストライカー特技兵は敵のクレイモア地雷の殺傷範囲(英語版)に踏み込んでしまった負傷者達を発見した。彼は周囲の状況も顧みずその場へ向かい、地雷の上に身を投げ出した。彼は身を挺して戦友を爆発から守り、致命傷を負った。彼の我が身を顧みぬ行動により、少なくとも6人の命が救われた。ストライカー特技兵の類まれな勇敢さは、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/10 09:20 UTC 版)
オクツが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 オクツ一等軍曹は、1945年4月7日のイタリア・ベルヴェデール山における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。彼の小隊が3丁の機関銃の十字砲火によって身動きを封じられる間、オクツ一等軍曹は激しい砲火を通り抜け、最も近い敵の砲床の30ヤード以内に、大胆に這って進入した。彼は、位置を正確に捉えた2個の手榴弾によって、3名の機関銃手を殺害した。匍匐前進と疾駆によって隅にまで進み、もう一つの手榴弾を投擲し、2丁目の機関銃を静まらせ、2名の敵兵を降伏させた。彼の小隊の前進を妨げていた3丁目の機関銃を目の当たりにし、彼は激しい小銃砲火の前方まで移動し、自身のヘルメットをかすめたライフル射撃によって少しの間驚かされた。落ち着きを取り戻すと、彼は短機関銃を片手に、果敢にも数人の敵のライフルの狙撃手に突進した。そして、敵兵をその場から立ち去らせることに成功した。次いで、機関銃の砲床に突進して、武器とチーム4名全員を確保した。これらの独力の行動によって、彼は自身の小隊が重要な目的を遂行する為の攻撃を再開することを可能にした。オクツ一等軍曹の打ち破れそうにもない困難を物ともしない勇敢な行動は、全ての友軍への激励となった。オクツ一等軍曹の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:23 UTC 版)
「ジョージ・L・ストリート3世」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1945年4月14日の「ティランテ」の最初の哨戒におけるジョージ・レヴィック・ストリート3世少佐の朝鮮済州島泊地における日本艦船への攻撃の際に示した際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を贈る。ストリート少佐は島の南岸、海岸から1,200ヤードしか離れていない海域から水上攻撃の態勢をとらせた。水深が10ファゾムしかなく、多数の哨戒艇と5つのレーダー施設、威嚇のための航空機をものともせず、機雷と浅瀬に守られた泊地に入り込んだ。ストリート少佐は敢然として攻撃を行い、日本の大型弾薬輸送船に対して致命傷となる魚雷を2本撃ちこみ、目標は白い炎と激しい閃光を発して爆発した。その閃光は新たな敵を照らしだし、「ティランテ」は退却しつつ魚雷の諸計算を行って追撃してくる大型護衛艦と同型艦に対して最後の2本の魚雷を発射し、海岸線に沿いつつ全速力で泊地を脱出した。後続は先行した地点で爆雷を投下しただけであった。「ティランテ」の最初の戦闘哨戒におけるストリート少佐の輝かしい記録は、彼を大胆かつ熟練した指揮官として印象付けると同時に最高位の信用を与え、その勇敢な任務遂行は同時にアメリカ海軍の精神を象徴している。 もっとも、ストリート自身は「すべての乗組員は私とともにあった」という信念により、「ティランテ」そのものに授けられた殊勲部隊章に名誉勲章以上の価値を見出していた。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 01:28 UTC 版)
オノが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 フランク・H・オノ上等兵は、1944年6月26日のイタリア・カステッリーナ・イン・キアンティ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。強固に守られた丘を攻撃する際、オノ上等兵の分隊は、塹壕で強く防備された敵から、身のすくむような砲火の雨に晒された。オノ上等兵は、自身の自動小銃を発砲し、右正面300ヤードにある機関銃1丁を沈黙させた。絶えることの無い火の海を進み、彼は一連射により、1名の射手を殺害した。次いで、分隊長が後部で残った小隊を再編成する間、彼のみは重要な位置を守った。敵の軍隊が彼に迫り、唐突に短機関銃を発砲してきたため、彼は手から武器をもぎ取られてしまった。オノ一等兵は手榴弾を投擲し、敵を追い払った。そして、残った小隊が前進するまで、新しく得た土地を断固として守り抜いた。負傷した仲間のライフルを受け取り、オノ上等兵は再び攻撃に参加した。更に2名の敵兵を殺害した後、彼は小隊長と重傷を負ったライフルの射手に応急処置を施す為、果敢にも猛烈な自動小銃と迫撃砲の砲火の中を走った。包囲される危険の中、小隊は撤退するよう命じられた。小隊を援護することを申し出て、オノ上等兵は丘の頂上の近くで実質的に無防備な陣地を占領した。そして、隣接している尾根に置かれた敵の機関銃を引き付け、自動小銃で武装した射手と銃火を交えた。小隊が比較的安全な溝に達するまで、彼は自身の安全を全く省みず、自身が敵の砲火の標的になるよう仕向けた。それから彼は、小隊に再合流するまで、彼のライフルを発砲しながら、丘を下った。オノ上等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 22:51 UTC 版)
ハセモトが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ミキオ・ハセモト一等兵は、1943年11月29日のイタリア・チェラスオーロ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。機関銃や拳銃、ライフル、手榴弾で武装した約40名の敵兵は、ハセモト一等兵の小隊の左側面から襲撃をかけ、2名の機関銃兵が前進し、発射してきた。BAR(ブローニング・オートマチック・ライフル)射手だったハセモト一等兵は、彼らに立ち向かった。接近してくる敵に弾倉を4本費やした後、自身の武器が破壊された。躊躇することなく、彼は10ヤード後ろまで身を引き、もう一つのBARを固定し、銃が故障するまで、発射し続けた。この時点で、彼と分隊長は約20名の敵兵を殺害した。また、ハセモト一等兵はM1ガーランドを拾うべく、敵の機関銃火の弾幕を通り抜けた。ハセモト一等兵と分隊長は攻撃を続け、更に10名の敵兵を殺害した。僅か3名となった敵兵達が逃走したが、彼と分隊長は果敢にも前方へ突撃し、1名を殺害、1名を負傷させ、1名を捕虜とした。翌日、彼が敵の砲火によって殺害されるまで、ハセモト一等兵は敵の攻撃を撃退し続けた。ミキオ・ハセモト一等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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ムネモリが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 彼はセラヴェッツァで勇敢に戦った。敵の強固な守備と火攻、部隊長の負傷によりセラヴェッツァに留まらざるをえなかった時、彼は砲火の中で正面の敵に対峙し、手榴弾を持って機関銃二丁のある敵を果敢に打ち倒した。敵砲兵の掃射と爆撃から後退したとき、彼は不発の手榴弾が彼の部下のいる塹壕に転がってゆくのを見た。すぐさま駆けた彼は手榴弾に覆いかぶさり、爆発を一身に受け止めた。彼の迅速で英雄的な行動は部下を救い、部隊の勝利に大いに貢献した。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 02:47 UTC 版)
「テリー・テルオ・カワムラ」の記事における「名誉勲章」の解説
カワムラが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 カワムラ伍長は第173工兵中隊の一員として、自らの生命の危険を顧みない、勇敢かつ大胆不敵な行動により、課せられた以上の任務を果たし、その名を残すこととなった。敵の爆破部隊が彼の部隊の兵舎を自動火器により襲撃した際、カワムラ伍長は強烈な火炎をものともせず、武器を取りに向かった。その瞬間の激しい爆発は、屋根に穴を空け、部屋に居た者を気絶させた。カワムラ伍長は武器を手に取り、敵へ反撃しようと試みたが、別の弾薬が屋根の穴を通して、床に放り投げられたことに気が付いた。彼は2人の戦友が危険に晒され、警告を叫んでいることに気が付いたが、逃げるどころか、躊躇せずクルリと向きを変え、全力で弾薬に身を投げ出した。自身の危険を一切顧みないカワムラ伍長の行動により、2人の命が救われた。カワムラ伍長によって示された驚異的な勇気と無私無欲の精神は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 21:46 UTC 版)
「ジョージ・T・サカト」の記事における「名誉勲章」の解説
サカトが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ジョージ・T・サカト一等兵は、1944年10月29日のフランス・ビフォンテーヌ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。彼の小隊が2つの敵の防御線を事実上突破した後(その間に、彼は単独で5名の敵兵を殺害、4名の身柄を確保した)、彼の部隊は激しい敵の砲火によって、身動きが出来なくなった。敵の砲火を物ともせず、サカト一等兵は単身突撃を決行し、彼の小隊が敵の防衛拠点へ突撃、破壊することに繋がった。小隊が立て直しを行っている間、彼は分隊長が戦死した左側堡からの反撃を阻止することを提案した。分隊を指揮し、敵の組織化された攻撃を阻止するべく、敵のライフルとワルサーP38を使用して、激しい攻撃を続けた。この連続した行動の間、彼は12名を殺害、2名を負傷、単独で4名の身柄を確保して、小隊が34名の捕虜を連行するのに貢献した。間断なく敵の砲火を顧みない彼の勇ましい度胸とファイティングスピリットによって、彼は間近に迫った敗北を勝利に変え、彼の小隊がその使命を完遂するのに貢献した。サカト一等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「ジェームズ・K・オークボ」の記事における「名誉勲章」の解説
オークボが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ジェームズ・K・オークボ衛生五等特技兵は、1944年10月28・29日と11月4日のフランス北東部ビフォンテーヌ近郊のForet Domaniale de Champにおける作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。10月28日に、地雷原と防柵の後方から急襲する強烈な敵の砲火の下で、オークボ衛生五等特技兵は、敵の防御線より150ヤードの地点から、40ヤード以内にまで這って進んだ。彼が最後に残った負傷した仲間を連れ戻す間、2つの手榴弾が投げつけられた。敵の小銃とマシンガンによる不断の集中砲火の中、28日に17名、翌29日にもう8名の仲間の手当てにあたった。11月4日に、オークボ衛生五等特技兵は機関銃砲火の中75ヤードを走り抜き、敵の砲火を浴びながらも、燃え盛る戦車の中から、重傷を負って、本来ならば死ぬはずだった仲間を救助し、治療を施した。オークボ衛生五等特技兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。 典拠管理 FAST: 390837 ISNI: 0000 0000 4644 4468 LCCN: no97026046 SNAC: w6d22341 VIAF: 41443240 WorldCat Identities: lccn-no97026046
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名誉勲章
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ハヤシが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。 ジョー・ハヤシ一等兵は、1945年4月20・22日のイタリア・スヴェレート近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。1945年4月20日に、テンドラの村への全ての道を抑え、強固に防御された丘を攻撃するよう命令され、ハヤシ一等兵は敵に見つかり発砲されるまで、巧みに仲間を敵の陣地から75ヤード以内の点にまで誘導した。負傷した仲間を安全なところにまで引っ張った後に、彼は単独で戻り、敵の砲床に対して迫撃砲砲火を向けて照準を合わせる為に、自ら小銃の砲火を浴びた。彼の分隊の残りの仲間とともに、果敢に丘を攻撃し、迫撃砲が機関銃3丁を制圧したことを知ったほか、敵兵27名を殺害、多数を負傷させ、作戦を成功させた。1945年4月22日に、テンドラの村を攻撃し、ハヤシ一等兵は自身の分隊を、敵から100ヤード以内にある急勾配で段々になった丘の上にまで移動させた。彼は敵の機関銃の陣地まで、強烈な砲火の下を這って進んで、手榴弾を投擲して、敵兵1名を殺害し、他の射手達を降伏させた。4丁の敵の機関銃が、彼の小隊の他の部隊の頭上に執念深く砲火を向けているのを目の当たりにし、彼はもう一つの手榴弾を投擲し、機関銃の砲床を破壊した。それから彼は、もうひとつの機関銃の陣地の右側面に這って進み、4名の敵兵を殺害し、残りの者を追い払った。更に敵を追跡しようとしたが、彼は突然の短機関銃の砲火によって、致命傷を負った。ハヤシ一等兵の不屈の勇気と模範的なリーダーシップは、彼の中隊がその目的を遂行することを可能とした。ハヤシ一等兵の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
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名誉勲章
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「ノーマン・スコット (軍人)」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状スコットは1942年10月11日から12日の夜および11月12日から13日の夜、日本軍の攻撃に対して際立った、英雄的かつ恐れ知らずの行為を見せつけた。スコット少将はガダルカナル島に対する味方部隊の掩護とともに日本艦隊の意図を察知し、指揮下の各部隊に勇敢な能力と見事な連携を駆使させて日本艦隊のうち8隻を撃沈し、航空機を撃ち落とした。一か月ののち、スコット少将は日本艦隊に再び挑戦し、予想だにもしなかった海戦で必死の砲火を交え、猛烈な砲撃により戦死するまで侵入してきた敵に対して近接戦闘を繰り広げた。二度の機会における彼の精悍なるイニシアチブは、味方に迫る重大な危機に対して感動的なリーダーシップと賢明なる先見性を発揮し、恐るべき日本艦隊に決定的な打撃と敗走を与えることに貢献した。彼はその勇敢な行為をもってわが身を捧げて国に忠誠をつくした。
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名誉勲章
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名誉勲章感状1941年12月7日の日本艦隊による真珠湾攻撃において、「ヴェスタル」は自らの身を顧みず傑出した英雄的行為を行って艦を危機から救った。ヤング艦長は艦橋に進み、自ら3インチ砲を操作した。間もなく「アリゾナ」の前方で大爆発が起こり、爆風で海中に飛ばされたものの、泳いで艦に戻った。「アリゾナ」と「ヴェスタル」の間は火炎に包まれ、「ヴェスタル」もまたいくつかの爆弾の命中を受けていた。激しい敵の爆撃や機銃掃射が続いているさ中、ヤング艦長は爆風で吹き飛ばされたことが逆に冷静さを与え、「ヴェスタル」を燃える「アリゾナ」から引き離させたのち、浜にのし上げて艦を保存することに成功した。 ヤングの名誉勲章は現在、アナポリスの海軍士官学校博物館に展示されている。
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名誉勲章
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「ローソン・P・ラメージ」の記事における「名誉勲章」の解説
1944年7月30日から31日にかけてのミ11船団への攻撃で、ラメージの「パーチー」は2隻を確実に撃沈して3隻に損傷を与えたと判定された。この戦功により、ラメージは1945年1月10日付でフランクリン・ルーズベルト大統領から名誉勲章を授与された。 名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1944年7月31日夜明け前の南シナ海における日本船団に対する攻撃で目立つ戦いぶりと恐れを知らぬ行為を示して義務を全うした「レッド」ローソン・P・ラメージ中佐に名誉勲章を授与する。ラメージ中佐は大胆不敵にも敵の輸送船団の護衛陣を突破して貨物船の船尾に命中弾を与え、艦首と艦尾から魚雷を発射して先頭のタンカーを撃沈し、2番目の目標に損傷を与えた。頭上を飛び交う砲弾と反撃の発砲による閃光によって目標が照らし出され、彼は前方を襲撃して2隻の輸送船を撃沈した。損傷したり沈むタンカーからの火災で海面が無秩序と混乱の真っただ中にあるとき、彼は艦橋に残って冷静に敵と戦うよう部下に命じた。やがて、体当たりを企図して輸送船が高速で突進してきたが、ラメージが冷静に対処したおかげで50フィート未満の差で体当たりから逃れた。「パーチー」は大胆にも全速力を発揮して護衛艦との致命的な砲戦を演じ、「パーチー」はこれらに屈することなく打ち勝って、無傷で戦場から去ることができた。46分間の戦いの末、クライマックスとして停止した目標の「喉仏」に、3つの止めを与えた。 — プレゼンテーションに続き、ラメージはミ11船団との戦いに参加した「パーチー」乗組員のための証明書を作成した。なお、「パーチー」そのものに対しても殊勲部隊章が授けられている。 私は名誉勲章を、艦と勇敢な乗組員に国家へのオマージュとして合衆国大統領から授与されたという事実を強調したい。彼ら乗組員は、忠実なる協力と援助によって「パーチー」の戦功に貢献した。全乗組員は等しく、名誉勲章と同等の栄誉を共有していることを感じる。私は彼らに大きな敬意と誇りを持っている。敬具L. P. ラメージ —
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名誉勲章
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ミレットに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 E中隊長ミレット大尉は著しい勇敢、大胆不敵、課せられた義務を凌駕する行動でその名を知らしめた。彼は自ら中隊を率い敵陣への攻撃を指揮していた時、第1小隊が小火器、機関銃、対戦車火器による攻撃によって釘付けにされていることに気づいた。ミレット大尉は第3小隊を前進させると自ら両小隊の先頭に立ち、総員着剣および高地の敵一掃を命じた上、この突撃を自ら指揮した。苛烈な突撃の最中、ミレット大尉は敵兵2人を銃剣で刺突すると、さらに手榴弾を投擲し、敵を殴り殺し、銃剣で刺殺し、部下を励ましつつさらなる前進を促した。敵軍からの激しい銃砲撃があったものの、迅速な前進と白兵戦によって彼らは高地の頂上へと到達したのである。彼の不屈の指導力と彼自身の勇気に鼓舞された将兵は銃剣を用いて大打撃を与え、敵軍は混乱の中で撤退した。突撃の中でミレット大尉は手榴弾片を受け負傷したが、高地の確保が完全に達成されるまで後送を拒み続けた。ミレット大尉が示した見事な指導力、類稀なる勇敢、責務への完全な献身は、あまりにも危険な任務を達成へと導き、また彼自身の信望、我が軍の英雄的な伝統を確かなものとしたのである。
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名誉勲章
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「ロバート・M・ハンソン」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、ロバート・マレー・ハンソン海兵中尉に名誉勲章を追贈する。1943年11月1日から1944年1月24日までの間、海兵隊第215飛行中隊のパイロットとして目立つ勇敢さと恐れ知らずの心をもって、ニューブリテン島の日本軍に対する戦闘を継続した。ハンソン中尉は大胆不敵にも、敵の圧倒的戦力と猛烈な反撃に阻止されることなく、日本の戦力と戦った。11月1日、エンプレス・オーガスタ湾への上陸作戦の掩護のため飛行中、無理に突入してきた敵の6機の雷撃機を迎えうち、そのうちの1機を撃墜した。また1月24日、敵勢力圏奥深いシンプソン湾への攻撃の掩護作戦の際には、ハンソン中尉は味方爆撃機が反撃を受けているところを見ると単機よく勇敢に戦い、5機の零戦のうち4機と未確認の1機を撃墜した。彼は追撃と攻撃の双方の手段で見事に乗機を駆って、一連の戦闘で25機の日本機を撃墜した空中戦の達人であった。彼の偉大な個人的な勇気と無敵の闘志は、アメリカ海軍の任務の最高の伝統と調和している。 —
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名誉勲章
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「ハワード・W・ギルモア」の記事における「名誉勲章」の解説
名誉勲章感状アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1943年1月10日から2月7日までの「グロウラー」の第4の哨戒におけるハワード・ウォルター・ギルモア中佐の際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を追贈する。絶え間ない敵の脅威と対潜哨戒の中をかいくぐり、ギルモア中佐は果敢な攻撃によって日本貨物船を1隻撃沈し、その火災によって他にも被害を与え、執拗な爆雷攻撃を回避した。2月7日の暗闇の中、敵の砲艦は「グロウラー」への体当たりを試みて接近してきた。ギルモア中佐は衝突を避けるために左に舵を切り、11ノットの速力で敵砲艦に突っ込んで外板を切り裂いた。沈みゆく砲艦からの機関銃弾を浴びたギルモア中佐は、部下に対して冷静に艦橋から去るよう命令し、自らは危険を顧みず艦橋に残った。敵の一斉射撃に屈しながらも最大限の努力を行ったギルモア中佐は、最後の瞬間に「潜航せよ!」と当直将校に対して最後の命令を下した。「グロウラー」は甚大な被害を受けたが、戦死した中佐に闘志をかきたてられた、よく訓練された乗組員によって母港に無事生還した。 — 今日においても、「潜航せよ!」“Take her down!“ はアメリカ海軍潜水艦部隊における伝統的なフレーズとして語り継がれている。
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名誉勲章
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1994年5月23日、死後のシュガートとゴードンに、デュラントとブラックホーク「スーパーシックス・フォー」の乗組員の命を守るために払った行動と犠牲を称えて、ベトナム戦争以来初となる名誉勲章を贈られた。彼らは、ゴシック・サーペント作戦に参加した兵士の中で、唯一アメリカ軍の最高勲章である名誉勲章を受章した。名誉勲章はホワイトハウスで、彼らの妻であるカルメン・ゴードンとステファニー・シュガートにビル・クリントン大統領から手渡された。
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名誉勲章 (Medal of Honor)
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「勲章」の記事における「名誉勲章 (Medal of Honor)」の解説
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