和魂漢才碑
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伝菅原道真作『菅家遺誡』中の2章を「要文二則」と呼び、その普及のため各地に和魂漢才碑を建立した。 第21則 凡そ神国一世、無窮の玄妙なるものは、敢へて窺ひ知るべからず、漢土三代、周孔の聖経を学ぶと雖も、革命の国風、深く思慮を加ふべきなり。 第22則 凡そ国学の要とする所は、論、古今に渉り、天人を究めんと欲すと雖も、和魂漢才にあらざるよりは、その閫奥を闞(うかが)ふことあたはず。 北野天満宮和魂漢才碑 東坊城聡長の揮毫により嘉永元年(1848年)4月本殿東に建立。2005年(平成17年)覆屋が作られた。 神護寺和魂漢才実事篤行碑 鷹司政通の揮毫により嘉永4年(1851年)護王社前に建立。「篤行」は『中庸』「明弁之、篤行之」(明らかに之を弁じ、篤く之を行ふ)による。1898年(明治31年)清麻呂墓碑左側、1933年(昭和8年)頃墳墓入口前の山道に移された。嘉永4年(1851年)10月には護王社本殿前に灯籠2基を寄進し、1886年(明治19年)遷座により移転、2006年(平成18年)本殿左右横に移転した。 大坂天満宮和魂漢才碑 東坊城聡長の揮毫により嘉永5年(1852年)大倉好斎と建立。 嘉永5年(1852年)3月には関東に勤皇思想を広めるため神護寺普賢院の名で江戸浅草寺に「江戸浅草寺内ニ清麻呂公之社を建立する願書」を提出したが、実現しなかった。 『菅家遺誡』は当時から六人部是香・黒川春村により古代に「国学」「和魂」のような語はないとして偽書説が唱えられていたが、維貞は「即(かり)に他人の手に出づるも、苟しくも以て人に訓(をし)へ、国に報いるべくんば、即ち当に尊信してこれを表章すべし」として活動を擁護している。 戦後加藤仁平『和魂漢才説』により、「要文二則」は谷川士清『日本書紀通証』が『菅家遺誡』を引用した際の細注が本文の一部と誤解されて混入したものと判明した。
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