四条貞子とは? わかりやすく解説

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四条貞子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 10:17 UTC 版)

四条 貞子(しじょう さだこ、藤原貞子(ふじわら の さだこ)、建久7年(1196年) - 正安4年10月1日1302年10月22日))は、鎌倉時代の貴族女性で、西園寺実氏の正室。父は権大納言四条隆衡、母は坊門信清の女。子に西園寺姞子西園寺公子、孫には後深草天皇亀山天皇、曾孫には伏見天皇後宇多天皇久明親王鎌倉幕府将軍)などがいる。准三宮。今林准后。当時としては異例の長寿を保ち(数え年107歳薨去)、晩年には北山に壮麗な邸宅を構えて北山准后といわれた。

経歴

父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫にあたる。同母弟に隆親、姉妹に灑子(儷子とも、二条良実室)・親子(西園寺公基室)。

西園寺実氏の室となり、嘉禄元年(1225年)に姞子(後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元年(1232年)に公子(後の後深草天皇中宮・東二条院)を生む。

弘安5年10月8日1282年11月16日)自身の死後の冥福を祈った逆修供養を行い、その願文が現存している(伝世尊寺経尹筆、東京国立博物館蔵、重要文化財[1][2])。

弘安8年2月30日1285年4月13日)の九十の御賀の華やかな様子が『増鏡』や『とはずがたり』巻第三に詳しく述べられている。

正安4年(1302年)10月1日に107歳で薨去建久正治建仁元久建永承元建暦建保承久貞応元仁嘉禄安貞寛喜貞永天福文暦嘉禎暦仁延応仁治寛元宝治建長康元正嘉正元文応弘長文永建治弘安正応永仁正安35元号を生きたことになる[注釈 1]

脚注


注釈

  1. ^ 慶応以前は、現在のように天皇崩御譲位しない限り改元しない一世一元ではなく、数年~数十年単位の改元であり、"存命中の元号の多さ = 寿命の長さ"とは限らない。四条貞子とほぼ同年齢で亡くなった人物に江戸時代の僧侶天海がいるが、この時期は改元が少なく天海の生きた元号の数は天文弘治永禄元亀天正文禄慶長元和寛永9つに過ぎない。

出典

  1. ^ 小松茂美監修 小松茂美 築島裕解説 『鎌倉 世尊寺経尹 西園寺実氏夫人願文・鎌倉 世尊寺定成 平行政願文』 二玄社〈日本名跡叢刊 44〉、1980年7月20日。
  2. ^ 西園寺実氏夫人願文 - e国宝

参考文献

  • 井上宗雄『増鏡(中)』、講談社(講談社学術文庫)、1983年
  • 角田文衛『平家後抄(下)』、講談社(講談社学術文庫)、2000年
  • 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年



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