四輪車市場への参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:23 UTC 版)
三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。 1951年(昭和26年)、重次郎の長男で専務の松田恒次が社長に就任。1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。 1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360や三菱重工業の三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。 このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場に進出するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。これは国民の所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に軽乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車、日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。 次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。
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