国目付の引継ぎ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 09:29 UTC 版)
側衆のうち、諸国監察を任とする配下の国目付を与力としていたものの引継ぎ状況(側衆への就任・離任の時期とは必ずしも一致しないため注意)。 当初の担当中根正盛(明暦元年8月3日まで、致仕) 明暦元年9月17日からの引継ぎ内藤忠由(寛文元年12月24日まで、寄合に昇進) 土屋数直(寛文2年2月22日まで、若年寄に昇進) 久世広之(寛文2年2月22日まで、若年寄に昇進) 寛文2年2月晦日からの引継ぎ森川重名(寛文6年12月8日、没) 松平氏信(延宝2年12月16日、辞任) 板倉重直(延宝4年4月10日、辞任) 上記より各個に引継ぎ松平信興(重名の国目付を引継ぎ、寛文7年2月10日-延宝7年7月10月、若年寄に昇進) 石川乗政(氏信の国目付を引継ぎ、延宝2年12月26日-延宝7年7月10月、若年寄に昇進) 内藤重頼(重直の国目付を引継ぎ、延宝4年5月14日から) 上記より各個に引継ぎ三枝守俊(信興の国目付を引継ぎ、延宝7年8月25日から) 稲葉正休(乗政の国目付を引継ぎ、延宝7年8月25日から) これらの国目付の引継ぎは、天和元年12月に牧野成貞が側用人に就任した後の、天和2年4月10日に国目付が小十人組(御目見以上、250~300石の地方知行取)へ昇進したことにより、国目付の監察機能とともに消滅した。側用人に権威・権力・情報が集まった代わりに、側衆は強い政治力を持たなくなった。この後も、側衆から側用人・御側御用取次などの昇進ルートがある他、平の側衆は御家人の出世ルートの最後を飾る極官となった。
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