国際線運航開始
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1954年2月2日には同社初で、第二次世界大戦後の日本の航空会社としても初の国際線となる東京(羽田) - ホノルル - サンフランシスコ線の運航を開始した。さらに同年2月5日には当時アメリカをはじめとする連合国軍の占領下にあり、「国際線」扱いであった沖縄線(羽田空港 - 那覇空港間)の運航を開始した。 運航開始当初は、新鋭機を揃えしかも長年の実績があり信頼性の高いパンアメリカン航空やノースウェスト航空、英国海外航空との競争に苦戦した。機数が少なく、よく出発到着が遅れたため「Just Always Late(いつも遅れる)」と揶揄された。戦後直ぐということもあり「神風パイロットが操縦するのか」と罵倒されるなど、ほとんど乗客数一桁、二桁だと大喜びという有様だった。社員は必死のイメージ回復戦略を行う。さらに1954年2月にはIATAの決定によりこれまでのファーストクラスに合わせてエコノミークラスの設置が許可された上に、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルルやロサンゼルスなどアメリカの主要都市に相次いで営業所を開設して、その後1955年度には国際線、国内線とも黒字に転じた。また、新たな国際線機材として当時の最新鋭機種であったダグラス DC-7C型機を導入した他、整備やグランドハンドリングの子会社を設立するなど自社整備体制となった。 なお、この頃より、皇族や首相、閣僚の海外公式訪問や国内移動の際に日本航空の特別機が頻繁に使用されることになり、1954年8月には、北海道で開かれた国民体育大会開会式から帰京する昭和天皇と香淳皇后のために、初の皇族向け特別機が千歳空港-羽田空港間で運航された。これは天皇として史上初の飛行機による移動であった。なお、これ以降も皇族や政府首脳向けの特別機が運航された上、1992年にボーイング747-400型機2機が日本国政府専用機として導入されて以降も度々運航されている。 1955年12月には、先にキャンセルしたデ・ハビランド DH.106 コメットII型機に代わるジェット旅客機として、過去に導入実績のあるダグラス社のDC-8型機4機の導入を正式に決定した。なお、当時日本航空および日本政府の外貨準備高がまだまだ低かったこともあり、その購入資金の4分の3はアメリカ輸出入銀行とダグラス社からの借款によって調達した。 なお、太平洋横断路線における最大のライバルであるパンアメリカン航空が一足早く、1959年9月にボーイング707-120型機を太平洋横断路線(東京-サンフランシスコ線)に投入し所要時間を大幅に短縮した上、1便当たりの旅客数も大幅に増加させたものの、日本航空は翌1960年7月までダグラスDC-8が納入されなかったことから、多くの乗客をパンアメリカン航空に奪われた。
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