地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:18 UTC 版)
この年の5月下旬頃からこの付近で鳴動があり、象潟内陸部の長岡、小瀧では地震前に井戸の水位低下や水の濁りがあったという。『金浦年代記』には夜四ツ時、大地が2、3尺持上げられたように感じられた直後、激しい揺れに襲われたとある。地震は多くの人々が就寝中の夜の発生であったため、潰家の下敷きとなり犠牲者を出す結果となった。 近江八幡でも有感であったとする史料も存在し、酒田、鶴岡では6月中余震が続いた記録がある。6月6日朝五ツ時(7月12日8時頃)の余震は強く、酒田で潰家15軒、津波も生じた。
※この「地震の記録」の解説は、「象潟地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「象潟地震」の記事については、「象潟地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:25 UTC 版)
仁和3年7月30日申刻(ユリウス暦887年8月22日16時ごろ、グレゴリオ暦887年8月26日)、五畿七道諸国にわたる大地震が発生した。 本地震の信頼度の高い根本史料とされる『日本三代実録』には、京都において諸司の舎屋や民家の多くが潰れ死者も出し、五畿七道諸国が同日大きく揺れ官舎が倒壊、津波による多数の溺死者を出したとする記録がある。余震は8月末ごろまで記録されている。 特に摂津において津波の被害が甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方の震害が著しい。はるか後世に編纂された史料であるが、淡路島の洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には仁和三年七月の地震により海に突出していた砂嘴が津波で失われたことが記される。一方で、土佐における津波や大地の沈降・隆起など記録が確認されておらず、高知県には白鳳地震についての口碑に残る言い伝えはいくつか存在するが、仁和地震によるものが確認されていない。 『日本三代実録』巻第五十、7月30日の地震の記録。亥時(22時頃)余震が3回あった。 卅日辛丑、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所、諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中摂津国尤甚、夜中東西有声、如雷者二、 沿岸部だけでなく離れた内陸でも被害が発生したとされている。八ヶ岳の山麓が崩壊し、千曲川を堰き止めて形成された堰止め湖(河道閉塞)が、303日後の仁和4年5月8日(888年6月20日[J]、6月24日[G])に決壊し発生した土石流が原因と考えられる洪水。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億m3と推定されている。これは日本最大規模の天然ダムとされる。なお八ヶ岳山麓の崩壊については、糸魚川-静岡構造線断層帯の南部が連動して発生した地震の影響を受けた可能性も指摘されている『扶桑略記』 仁和三年七月卅日辛丑 信乃国大山頽崩、巨河溢流、六郡城廬払地漂流、牛馬男女流死成丘、 『類聚三代格』巻十七 去年七月卅日、坤徳失静、地震成災、八月廿日亦有大風洪水之沴、前後遭重害者卅有余国、或海水泛溢、人民帰魚亀之国、或邑野陥没、廨宇変蛟龍之家、呼嗟猪沢之功未成、象耕之期奄至、顧念辺氓、誠軫中懐、朕忝以薄徳丕承洪基、内纏陟岵之慟、多惕臨谷之危、重今月八日信濃国山頽河溢、唐突六郡、城廬払地而流漂、戸口随波而没溺、百姓何辜、頻罹惟禍、徒発疚首之歎、宜降援手之恩、故分遣使者、就存慰撫、宜詳加実覈施優恤、其被災尤甚者、勿輸今年租調、所在開倉賑■、給其生業、若有屍骸未歛者、官為埋葬、播此洪沢之美、協朕納隍之心、主者施行、/仁和四年五月廿八日 また臼杵郡東海村(現・延岡市)にあった護国寺である慈通寺(現・円通山千光寺)が流失したという記録や、同村の川島熊野大権現が倒壊した記録から、日向においても津波や震害があったとされる。
※この「地震の記録」の解説は、「仁和地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「仁和地震」の記事については、「仁和地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:04 UTC 版)
『続日本紀』天平17年4月27日(ユリウス暦745年6月1日、グレゴリオ暦6月5日)の条項に、この日夜を通して地震があり、地震は三日三晩続いたという。美濃国では国衙の櫓、館、正倉、仏寺の堂、塔、民衆の家が被害を受け、少し触れると倒壊したとある。 『続日本紀』巻十六 天平十七年四月甲寅(27日) 是日通夜地震、三日三夜、美濃国櫓館正倉、仏寺堂塔、百姓廬舍、触処崩壊。 この地震の後も連日余震と見られる記録が約20日間続き、地割れができ水が湧出した。大森房吉(1913)は5月2日の条項にある京師は当時難波京の置かれていた摂津国難波であるとし、ここでも本震において同時に震動を感じ、余震も摂津難波における記録と解釈している。余震が続く間に、大安・薬師・元興・興福の各寺および平城宮で般若経など各経典を読ましめた。 五月戊午朔(1日)、地震、 己未(2日)、地震、令京師諸寺、限一七日転読最勝王経、 庚申(3日)、地震、 辛酉(4日)、地震、 壬戌(5日)、地震、日夜不止、 癸亥(6日)、地震、 甲子(7日)、地震、 乙丑(8日)、地震、於大安・薬師・元興・興福四寺、限三七日、令読大集経、 丙寅(9日)、地震、 丁卯(10日)、地震、読大般若経於平城宮、 癸酉(16日)、地震、 乙亥(18日)、地震、 是月、地震異常、往々折裂、水泉涌出、 『熊野年代記』にも本地震の記載があり、大地震が7日続いたと記されている。 『熊野年代記』 乙酉十七 天下大地震經七日
※この「地震の記録」の解説は、「天平地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「天平地震」の記事については、「天平地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:40 UTC 版)
承徳3年正月24日卯刻(ユリウス暦1099年2月16日6時頃、グレゴリオ暦1099年2月22日)、畿内で大地震が発生した。また南海道沖を震源と推定する根拠は土佐の康和2年正月X4日の記録であり、この記録を以て上記の畿内の地震と同一のものと推定されていた。 『後二條師通記』によれば、奈良の興福寺で大門、回廊が転倒、塔が破損、西金堂が少破した。『太子伝古今目録抄』によれば、摂津では天王寺でも回廊転倒などの被害があった。京都では「大地震」と記録にあり強い揺れは感じられたものの被害記録は確認できず、長い揺れがあって小破損の記録が見られる永長地震とは対照的である。 従来、本地震は畿内付近のものとされ、河角廣(1951)は、奈良付近(北緯34.7°、東経135.7°)に震央を仮定し、規模MK = 3.1 を与え、マグニチュードM6.4 に換算されていたが、後述する土佐の記録の発見によって、巨大地震である南海地震と考えられるようになった。 神田(1968)は、土佐の記録は『広橋本兼仲卿記』の紙背文書に見られ、これは賀茂御祖神社に伝わった文書で土佐から提出されたものと推定した。「土佐国潮江庄康和二年〔ママ〕正月□□四日地震之刻国内作田千余町皆以成海底」の記録は白鳳地震の『日本書紀』による記述「土左国田苑五十余万頃 没為海」と類似し、宝永地震、安政南海地震および昭和南海地震でも見られた南上りの地殻変動による高知平野付近の沈降と考えられた。また康和二年正月X四日に相当する地震の記録が見当たらない事から、これは康和元年(承徳3年)の誤記の可能性が高いとされた。 賀茂御祖神社は寛治4年(1090年)に荘園として潮江荘(高知市)を設置したが、この地震で田園1000余町(約10km2)が海没した際、潮江荘も被害を受け、翌年の康和2年(1100年)に国司に申請し、国衛領の高岡郡吾井郷津野保を代替地に譲り受け、津野荘が展開することとなった。 『広橋本兼仲卿記』の紙背文 左弁官下土左国 応以能米参拾石、毎年進納鴨御祖社禰宜県主、令子々孫々知行社領当国字津野内 (欠損)] 野保一処事四至 東限本庄堺 西限津野河西山 北限冤杠寺山 南隈海 (欠損)] 右得祐季今月五日解状称、謹検案内、募彼賞、或祐季申 [(欠損) (欠損)] 階、或祐忠望社司之処、上階者未有先例、社司者可期来 [(欠損) (欠損)] 者於今度賞者、可直立牢籠社領等之由、被仰下 [(欠損) (欠損)] 仍募彼祐季、給預件保、欲令相伝子々孫々云々而巳、 (欠損)] 件保者元是寛治立券管土左国潮江庄康和二年正月 [(欠損) (欠損)] 四日地震之刻、国内作田千余町皆以成海底畢、社領 [(欠損) (欠損)] 江御庄依近海浜又以同前、其後同年二月廿七日国司藤原 (欠損)] 臣有佐、改立高岡郡吾井郷津野村、号津野庄、所 [(欠損) (欠損)] 領也。爰経卅九箇年之後、保延四年国司藤原顕保任 [(欠損) 有利田忽縮四至、早寄傍示割取畢、号津野御一色 [(欠損) マグニチュードは南海道沖の巨大地震と仮定するならばM8.2あるいはM8.0-8.3などと推定されているが、断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値の精度は高くない。畿内の内陸地震ならば、河角(1951)によればM6.4程度となる。 東大阪市瓜生遺跡で11世紀末から12世紀にかけての小規模な液状化跡が発見され、この時期に南海道沖の地震が発生した証拠とされる。
※この「地震の記録」の解説は、「康和地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「康和地震」の記事については、「康和地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:00 UTC 版)
大宝元年3月26日(ユリウス暦701年5月8日、グレゴリオ暦5月12日)、丹波国(後に丹後国に分国、現:京都府北部)で大地震が発生し、三日に渡って揺れがあったという。 『続日本紀』巻二 大寳元年三月甲戌朔、己亥(26日) 丹波國地震三日 また『丹後風土記残欠』の記述から、この地震により若狭湾内の凡海郷(おふしあまのさと、東西2.4km、南北6.4km)が一夜にして山頂を残して没し、これが現:舞鶴市沖の冠島および沓島であると考えられた。 『丹後風土記残欠』 凡海郷者、往昔去此田造郷萬代濱四十三里□□□三拾五里二歩、四面皆属レ海、壹之大島也、所三以稱二其凡海一、□□□曰往昔治二天下一、當下大穴□□□□□□□到二坐于此地一之時上、引二集海中□□□小島□□□凡枯以成壹島、故云凡海矣、□□□寳元年三月己亥地震三日不レ已此郷一夜蒼□□□海漸纔郷中之高山ニ峯與二立神岩一出二海上一、今號二常世島一、亦俗称二男島女島一、毎島有二神祠一、所レ祭者天火明神與二日子郎女神一也、是海部直竝凡海連等所三以齋二祖神一也 (以下八行虫食) しかし、この『丹後風土記残欠』は江戸時代に作成された偽書である可能性も指摘され、60m以上の地殻変動を必要とする冠島の沈降は地学的にも疑問視されている。 一方でこの凡海郷は冠島ではなく、丹後国加佐郡の郷の一つであり、由良川河口付近の神崎村および由良村などに相当するとされ、また大浦半島も含めた加佐郡の沿岸部の集落を指していたものと推定されている。 『縁城寺年代記』 辛丑大寳元年、三月廿一日紀年 此月大地□三日不熄、加佐郡大半滄海トナル 本地震の震源断層や、その被害状況ははっきりしないが、若狭湾を襲った歴史津波の検討候補ともされている。 河角廣は規模 MK = 4.3を与え、マグニチュードは M = 7.0 (M = 4.85 + 0.5 MK)に換算されていたが、宇津(2001)や宇佐美(2003)はマグニチュードの値を示していない。
※この「地震の記録」の解説は、「大宝地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「大宝地震」の記事については、「大宝地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:01 UTC 版)
『続日本紀』天平6年4月7日(ユリウス暦734年5月14日、グレゴリオ暦5月18日)の条項に、大地大いに震い天下の民衆の家が倒壊し圧死者が多数出、山崩れ、川の閉塞、地割れが数えきれないほど発生したとある。 また、地震の5日後の4月12日に、畿内七道諸国に遣いを出して神社の被災状況を調べさせ、4月17日には天皇陵8か所と功のあった王の墓の被害状況を調査させた。さらに同日の招書では政事に欠くることなきよう注意し、4月21日には天皇の徳と政治の欠失を省みる詔が出され、7月12日には天変地異による大赦の詔が発せられたが、「天頻見異、地数震動」とあり、余震活動が続いたものとみられる。このように天変地異の発生の責任を天皇が自ら負い、大赦などの詔が発せられた例は奈良時代から平安時代までいくつか見られる。 『続日本紀』巻十一 天平六年夏四月 戊戌(7日)、地大震、壊天下百姓廬舍。圧死者多。山崩川擁、地往々折裂、不可勝数。 癸卯(12日)、遣使畿内七道諸国、検看被地震神社。 戊申(17日)、詔曰、今月七日、地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王・真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓。又詔曰、地震之災、恐由政事有關。凡厥庶寮勉理職理事。自今以後、若不改励、随其状迹、必将貶黜焉。 壬子(21日)、遣使於京及畿内、問百姓所疾苦。詔曰、比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。今故、発遣使者、問其疾苦。宜知朕意焉。諸道節度使事既訖。於是、令国司主典已上掌知其事。 秋七月 辛未(12日)、詔曰、朕、撫育黎元、稍歴年歳。風化尚擁、囹圄未空。通旦忘寐、憂労在茲。頃者、天頻見異、地数震動。良由朕訓導不明、民多入罪。責在予一人。非関兆庶、宜令存寛宥而登仁寿、蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。其犯八虐、故殺人、謀殺々訖、別勅長禁、劫賊傷人、官人・史生、枉法受財、盜所監臨、造偽至死、掠良人為奴婢、強盜・窃盜、及常赦所不免、並不在赦例。 伯耆国から出雲国に本地震に関する太政官符が送られ、これは『続日本紀』にある畿内七道諸国に神社の調査を命じた件を指している可能性があるとされる。 『出雲国計会帳』 天平六年四月 十六日移太政官下符壹道、地震状 『熊野年代記』にも本地震の記載があり、熊野で神倉が崩れて火の玉が峰から東の海に飛んだという記述が見られるが、信憑性は劣るとされる。 『熊野年代記』 天平甲戌六 熊野五月大地震神ノ倉崩ス嶺ヨリ火ノ玉東海飛、西金堂ヲ興福寺建四月諸国大地震丙子八 神倉成、今神倉成 『八木町神社誌』にも『住吉神社記録』にこの地震で社殿が破損したとの記述が見られる。 『八木町神社誌』 聖武天皇御宇、天平六甲戌年四月 地大いに震う。この時住吉神社の社殿大に傾斜し、既に大廃に至らんとす。 誰か造営するものなかりしが、同九年八月、疱瘡四方に起り、死者多かりしとき、村老の曰く、前年の地震にて我産土神御屋根破損し雨露落下す。此れ神明病疫を以て村民に論すものならん。と、村民驚愕し翌戊寅の年、従来社殿よりも規模広大にして造営し、神明に奉謝すと。
※この「地震の記録」の解説は、「畿内七道地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「畿内七道地震」の記事については、「畿内七道地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:51 UTC 版)
文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し、『平家物語』や『方丈記』にその記述が見られ、『平家物語』には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、」と記されている。また『玉葉』、『醍醐雑事記』、『歴代皇紀』、『吉記』、『山槐記』、『百錬抄』、『園太暦』、『康富記』、『一代要記』、『愚管抄』など京都で記された記録が多く、『吾妻鏡』のように鎌倉で記された記録も存在するが、これも京都の状況を記載したものであった。 京都の震害が著しく、『醍醐雑事記』には白河辺りの諸御願寺や京中の殿屋などで九重塔や九輪などが大破した様子が記される。『吉記』には白河の法勝寺で金堂廻廓、鐘楼、阿弥陀堂および九重塔などが破損した被害が記述されている。その他、東寺では破損した鐘楼を文治3年(1187年)に修理した記録や『仁和寺御伝』による六条殿、一字金輪、於院御所の修理の記録がある。 『山槐記』によれば閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり後日旧に復し、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死、また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面のものが特に倒壊し、南北面のものは頗る残ったという。法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった。同書はその後の余震が続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位が下がったことなどを記す。 唐招提寺では千手観音の足柄墨書修理銘に文治元年7月の地動によって転倒したものを9月20日に修理したとあり、大和における被害とされる。『興福寺略年代記』にも「元暦二年七月九日、大地震、処々多顛倒」の記述がある。 比叡山では延暦寺根本中堂の輪灯が悉く消滅し、戒壇八足門、看衣堂、四面廻廊、中堂廻廊など諸建物が転倒するなどの被害が出た(『園太暦』)。 近江では大津の三井寺において金堂廻廊が転倒したことが『山槐記』に記され、田3町が地裂け淵になったという。遠国においても被害が発生し津波があったともいう。 この地震は美濃、伯耆、三河でも有感であったとされる。『山槐記』には「又自美濃伯耆等國來之輩曰、非殊之大動、」とある。
※この「地震の記録」の解説は、「文治地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「文治地震」の記事については、「文治地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 04:00 UTC 版)
安政三年七月二十三日午刻(1856年8月23日12時頃)八戸を中心に東北地方北部太平洋側から北海道にかけて強震に見舞われた。陸奥では『蝦名日記』、『津軽藩日記』、および『柿崎日記』には12月頃まで余震が記録され、7月26日朝の余震はかなり強いものであったという。『維新前北海道変災年表』には7月19日頃から数回の地震を感じたとある。 『八戸藩史稿』によれば最希有なる強震で八戸城が所々破損し、湊村は海嘯によって浸水し流家があったという。『津軽藩日記』には青森において強震で酒蔵など土蔵が潰れたとあり、また襟裳岬付近で山崩れが生じたが、全体として震害は少ない。 地域推定震度蝦夷 浦河(E), 苫小牧(S), 長万部(E), 八雲(S), 函館(4), 松前(E) 陸奥 下北(4-5), 田名部(5), 青森(5), 黒石(4), 弘前(4), 蟹田(4), 市浦(4), 木造(5), 鯵ヶ沢(4), 野辺地(5), 七戸(5), 十和田(5), 五戸(5), 三戸(5), 八戸(5-6), 久慈(4), 岩泉(E), 安代(5), 雫石(5), 盛岡(4-5), 紫波(4-5), 花巻(E), 遠野(4-5), 宮古(5), 大槌(4-5), 大船渡(E), 陸前高田(4), 藤沢(E), 一関(E), 唐桑(E), 気仙沼(E), 松島(e), 仙台(4), 相馬(S), 郡山(e) 羽後 鹿角(5), 秋田(e), 湯沢(E) 羽前 余目(e), 鶴岡(e), 米沢(e) 東山道 黒羽(E), 宇都宮(e), 今市(e), 南河内(e), 大田(E) 東海道 那珂湊(e), 水戸(e), 銚子(e), 滝山(E), 江戸(4), 大滝(e), 甲府(e) 北陸道 白根(e), 分水(e), 見附(e), 中条(e), 柏崎(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)
※この「地震の記録」の解説は、「安政八戸沖地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「安政八戸沖地震」の記事については、「安政八戸沖地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 18:27 UTC 版)
正徳四年三月十五日戌刻過(夜五ツ半)(1714年4月28日21時頃)に小谷村を中心とする地震が発生した。尾張藩の奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』、および『江戸幕府日記』には、水野出羽守領分、信州松本大町組で大地震、102石余の田畑が損亡、潰家194軒、半潰141軒、怪我人37人、死人56人、牛馬怪我20疋と記されている。 『月堂見聞集』では死人は男32人、女25人、潰家33ヶ所となっている。白馬村大出で発見された古文書には15日夜戌亥刻から翌16日昼四ツ時(10時頃)まで33度震い、四ヶ条村、小谷まで皆々震い崩れ、54人が死に、350軒潰れ、坪の沢では大山抜け崩れ大堤になり塩島新田まで2里(約8km)が水没したとある。 『新編信濃史料叢書 第五巻』、『中土村誌』には、千国村で山崩れがあり、人家田畑残らず亡所となり、人30人、牛馬8疋が死亡し、家9件が倒壊、堀ノ内村(四ヶ庄:神城、北城、小谷、中土)では人14人、牛馬36疋が死亡し、家48件が倒壊、中谷村・上谷村では合計家18軒が押し崩され、姫川の天然ダム決壊で流失したとある。 役所への被害届である『中谷村地震満水に付田畑指出帳控』には、地震による山崩れで天然ダムを形成し水没した田畑の面積が合計壱丁九反七畝廿九歩(約19,633m2)、その見積もりが拾壱石九升四合弐勺と記されている。 『松代町史』によれば、宝永4年の地震に比すれば震動が少なく家屋の被害も軽微であったが、半時(約1時間)ばかりの間に4度の震動があったという。『江戸幕府日記』によれば、松代領では、潰家48軒、寺社潰3、田畑の損が420石余、道路の破損が38ヶ所に上った。善光寺では本堂が破損し、二天東西の石垣が悉く崩れ石塔がほとんど転倒した。 『菖蒲氏年代記』によれば、出羽の余目、『津軽藩御日記』によれば江戸においても有感であった。 資料調査をまとめた地震調査研究推進本部のプロジェクトによれば、小谷村の坪ノ沢では全戸が壊滅する被害だったほか、小谷村の中小谷や白馬村の堀之内でも過半数の家屋が倒壊した。また、姫川右岸にある岩戸山の斜面崩壊により姫川に天然ダムが形成された。結果、5570万m3規模の湛水が生じ、3日後に決壊し下流に被害。 地域推定震度出羽 余目(e) 信濃 善光寺(5-6), 小谷(6), 白馬(6), 大町(6), 駒ヶ根(e) その他 江戸(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)
※この「地震の記録」の解説は、「信濃小谷地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「信濃小谷地震」の記事については、「信濃小谷地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:20 UTC 版)
嘉保3年11月24日辰刻(ユリウス暦1096年12月11日8時頃、グレゴリオ暦1096年12月17日)、東海道沖に大地震が発生した。東海地方の津波記録、および畿内付近の震害記録がみられる。 藤原宗忠の日記である『中右記』には、この地震に関する詳細な記録があり、地震動が一時(約2時間)程続き、東大寺の巨鐘が落下、薬師寺の回廊が倒壊、東寺の九輪が落下、法成寺の東西塔が破損、法勝寺の御仏等光が破損したと記されている。東大寺の巨鐘の落下は延久2年10月20日(ユリウス暦1070年11月25日)の地震以来のことであった。閑院御所では堀河天皇が庭の池に浮かべた舟に避難したという。 『中右記』にはまた、近江で勢多橋が落下し、伊勢阿乃津(安濃津、現・三重県津市)で津波によって多くの人家が破壊され、その他諸国でも同様であったなど伝聞から京都以外でも大きな被害があったことが記されている。 藤原師通が著した『後二条師通記』には辰時に6度震い、また駿河からの報告書に「去月廿四日に大地震があり、津波により社寺や民家が400余流失し、国家の大事なり」と記されていたとある。この時代の地震の古記録は京都・奈良など畿内で書かれたものが殆どであり、駿河や伊勢の津波被害など地方の被害は伝聞として京都に伝えられ記録されたものである。 『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取・野代両庄住人、」とあって、本地震で木曽川下流域の鹿取・野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月を経て陸地に戻った様子が記述される。木曾三川河口デルタの低地が強震動・液状化・地盤沈降・津波の複合作用で崩壊、海没したものと考えられる。 『中右記』には、この地震前後から約2年後の康和地震頃まで多くの地震の記録が見られ、活発な余震活動が続いたことが窺われる。この相次ぐ地震などのため、永長2年11月21日(ユリウス暦1097年12月27日)には再び改元され、元号は承徳に改められた。 阿波国太龍寺に関する古記録を集成した『太龍寺縁起』にも、本地震の記述が登場する。しかし、この『太龍寺縁起』には土佐の沈降を伴ったとされてきた康和地震の記録はない。 嘉保二年乙亥〔ママ〕 十一月廿四日辰時、天下大震動、海内悉驚怖、祈之佛神、占之陰陽云々、是則有異國蜂起難、須有本朝不預之憤、故課處々之道場、令修種々之秘法、専依爲密教根本聖跡、即止阿波國太龍之靈地、令修瑜伽上乘之秘教、欲致祈祷中欄之精誠、於是佛子長範忝承綸旨、方勤勅願、天下安穏海内無爲也、因茲同三年八月廿三日任大師本願之先蹤、抽一條御宇之中誠、寄進那賀山五箇之庄國〔ママ〕、興隆大龍寺滿山之伽鹽、擺棘荊兮顯礎石、摧磐石兮方研基跡、非人力所難及、佛神能助者歟、龍神降兮闢寺地、天子肄兮建佛閣、遥送教廻之星霜、方説一寺之成就而己、 長治元年甲申八月廿五日記之
※この「地震の記録」の解説は、「永長地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「永長地震」の記事については、「永長地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:19 UTC 版)
信頼度の高い史料とされる当時の日記である『後愚昧記』、『忠光卿記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、および『斑鳩嘉元記』、また信頼度は低いとされる文芸作品や後世の編纂物であるが『和漢合運』、『南方紀伝』、『太平記』、および『阿波志』などに地震被害の記録がある。 正平16年(康安元年)6月24日寅刻(ユリウス暦[J]1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦[G]1361年8月3日)、畿内・熊野などで被害記録が残るような大地震が発生した。 『後愚昧記』などには摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺、薬師寺、山城東寺など堂塔が破損、倒壊したと記録される。『斑鳩嘉元記』によれば、法隆寺で金堂の仏壇が崩れ、東大門の築地の破損、東院伝法堂の壁が落下し、塔の九輪の上部の火炎(水煙)が折損した。なお、この塔の九輪の上で火災が生じたとする解釈があるが、それは『斑鳩嘉元記』の「當寺ニハ御塔九輪之上火炎、一折懸ニテ下モヘハヲチス、(折れ懸けにて下へは落ちず)」を、「當寺ニハ御塔九輪之上火災、一折燃テ下モヘハヲチス、」と誤読した翻刻文を掲載した『大日本地震史料』によるものと思われる。 また『斑鳩嘉元記』には、薬師寺で金堂二階の傾損、2基の塔の内、1基の塔の九輪の落下、唐招提寺でも九輪の大破、回廊の転倒、諸堂の破損したとある。さらに紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、『愚管記』には熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損したとある。 『太平記』巻第三十六、地震と夏雪の記録。軍記物語ゆえに文学的、誇張的表現、あるいは創作による不正確な記述も見られるが、阿波雪湊(由岐)の津波の存在は事実であろうとされる。 大地震並夏雪事 同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗男女、牛馬鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。 七月〔ママ〕二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。 又八月〔ママ〕二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。 鳴戸では三四日前に海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動と思われる現象で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている。また6月22日の地震(前震?)の日は盛夏にも関わらず冬至前後の様な寒さで雪が降りだしたことが記録されている。この夏雪の記事は当時の公卿の日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる。 三河の記録としては渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日迄大地震地破」とある。 『皇年代略記』には「貞治元年壬寅九月廿三日改元、依兵革流病天変地震也。」とあって、翌年の貞治元年9月23日(ユリウス暦1362年10月11日)に兵革・疫病・天変地異によって「貞治」に改元された。
※この「地震の記録」の解説は、「正平地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「正平地震」の記事については、「正平地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/26 16:00 UTC 版)
五畿七道諸国に亘って大揺れとなった南海トラフ巨大地震である宝永地震の翌朝、宝永四年十月五日卯刻(1707年10月29日6時頃)、駿河から甲斐附近は再び激しい揺れに見舞われた。内陸地震としては宝永地震の最大余震とされる。 柳沢吉保の公用日記『楽只堂年録』には、宝永地震の本震に加えて本地震による被害記録も記されている。 村山浅間神社による報告では、4日の本震は「夥しき地震」と記述されているのみであるが、5日の本地震による被害が特に著しく、辻之坊・大鏡坊・池西坊中門前および村山社領の家が残らず潰れ、死人4人を出し、怪我人は多数であった。 駿刕村山今月四日未刻夥鋪地震ニ而御座候 同五日卯之刻より大地震ニ而浅間御本地堂鎮守大棟槃権現并諸末社室中宮辻之坊・大鏡坊・池西坊右三寺中門前并社領之家不残潰申候、村山社領ニ而相果候者男女四人、怪我仕候者数多御座候間為御注進辻之坊出府仕候 已上 亥十月 駿刕富士山村山 辻之坊 大鏡坊 池西坊 また富士山本宮浅間大社による被害報告も同書に記されるが、4日の本震被害との区別が出来ない。 駿州富士本宮浅間社頭当四日之未刻五日之卯刻両度之就大地震破壊仕候目録 御本社二階三軒社宝殿造り屋禰檜皮葺 (中略:大破の内容) 右浅間社頭目録之通今度之大地震故大破之上ニ弥破壊仕候付乍恐書付を以御注進申上候 已上 富士大宮別当 宝幢院同案主 富士大学同公文 富士長門同大宮司 富士山城 富士山本宮浅間大社による文書『大地震富士山焼出之事』には、「□□□分に夥敷大地震、昨夜之三双倍」とあって、神社仏閣が傾き、村家が数多く潰れたとある。 さらに『楽只堂年録』に記された、油井、岡部、袋井の報告でも「両度之地震ニ而」とあって本震による被害と区別できない。神原でも「同五日之朝五つ時又々大地震、大分山崩も仕候付潰家或半潰大破仕候」とある。 『日本被害地震総覧』では「甲斐などでは本震より強く感じ、大きな被害(潰家7,397, 同寺254, 死24)となった。」と記述されているが、甲斐の被害は『楽只堂年録』や『山田町御用留帳』の内容から被害の大部分は4日の本震によると判断される。『甲西町誌』所収の『新津容策家の往年災異記』によれば、4日の地震で荊沢十五ヶ村(現・南アルプス市)は家が残らず潰れ、5日の朝も家が潰れる程の揺れであったという。久能山では、『楽只堂年録』に4日に八坊の内4ヶ寺潰れ、5日に番所ならびに坊中1ヶ寺潰れ、前方小破の所々も5日の地震に大破に及んだとある。 『楽只堂年録』に記載された被害報告地域知行主潰家半潰家大破その他被害死者主に被害をもたらした地震谷村 松平美濃守 在家28軒 4日 甲斐国 町屋149軒, 在家5,621軒, 寺社217 甲府城櫓多門瓦壁落, 石垣損 9人 甲斐国西東河内領 在家1,599軒, 寺社37 15人 駿刕府中 能勢権兵衛 22軒 15軒 45軒 駿府城米蔵大破, 多門潰 4日で過半大破 駿刕村山 村山三坊 社領不残 4人 5日 駿州富士本宮浅間社 富士大宮別当 檜皮葺屋根大破 4日および5日 久能 星伝右衛門 坊中5ヶ寺, 神領58軒 3ヶ寺 大谷村浜波打上 1人 4日および5日 駿刕神原宿 安藤筑後守 石尾阿波守 有 有 有 山崩れ 4日および5日 駿刕油井宿 83軒 157軒 4日および5日 駿刕丸子宿 百姓家5軒 宿ならび役家少々破損 宇津野谷坂山崩れ 4日 駿刕岡部宿 16軒 91軒 21軒 4日および5日 駿刕藤枝宿 23軒 59軒 町中 4日 駿刕嶋田宿 裏々小家 4日 遠刕金谷宿 5軒 町中 4日 遠刕袋井宿 不残 大地割 35人 4日および5日 駿刕田中 内藤紀伊守 長屋18ヶ所, 足軽屋敷110軒 田中城石垣崩 4日および5日 駿刕藤枝町 町屋13軒, 23軒 59軒 其外数多 駿刕内谷村 町屋12軒, 其外 駿刕岡部町 16軒 91軒 21軒 駿刕志太郡内10ヶ村 1,409軒 1,213軒 駿刕益津郡内4ヶ村 345軒 137軒 地舟高波で行方不知 駿刕有渡郡内5ヶ村 12軒 6軒 猟船8艘高波で破船 1人 遠刕榛原郡内19ヶ村 243軒 5軒 塩浜高波で損 5人 遠刕城東郡内7ヶ村 2,142軒 1,511軒 6人 駿刕富士郡内5ヶ村 久世三四郎 百姓家所々 4日および5日 江戸でも地震後に御機嫌伺いに登城しているため震度4程度と推定される。『出火洪水大風地震』には「十月四日之昼同五日之朝地震有之、天水こほれ余程之地震ニ而御座候得共、上々様方益御機嫌被成御座候旨御到来有之」とあって、当時は天水桶がこぼれる程の地震が起った場合は君主の御機嫌伺いに参上するのが慣習であった。 その他、日光でも「卯刻過地震」(『御番所日記』)、松代で「明六時過余程強致地震」(『『家老日記』』)、富山で「卯刻地震強動」(『吉川随筆』)、大聖寺で「卯之刻地震」(『大聖寺藩史』)、名古屋で「卯の刻よ程強き地震」(『鸚鵡籠中記』)など広い範囲で強く揺れた記録がある。 この後、富士山周辺では余震が続き、11月10日(1707年12月3日)頃からは鳴動が始まり、11月23日(1707年12月16日)には宝永大噴火となり、宝永山が出現した。
※この「地震の記録」の解説は、「宝永富士宮地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「宝永富士宮地震」の記事については、「宝永富士宮地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:19 UTC 版)
天武天皇13年10月14日人定(亥時)(ユリウス暦684年11月26日20 - 22時頃、グレゴリオ暦684年11月29日)、西日本太平洋沿岸に大地震が発生した。 山崩れ、河涌くとする液状化現象を思わせる記録があり、諸国の郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊した。伊予湯泉(いよのゆ、道後温泉)や紀伊の牟婁温泉(むろのゆ、南紀白浜温泉)が埋もれて湧出が止まり、土佐では田畑50余万頃(約12km2)が海中に没した。加えて津波が襲来し、土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失した。この様相は昭和南海地震、安政南海地震および宝永地震にも見られた現象であり、田畑の水没は南東上がりの地盤変動によると思われる。 土佐の沈降して海となった地は、江原真伍による土佐市の高岡付近とする説および、今村明恒の高知市東部とする説などがあり、昭和南海地震による類推から高知市東部の可能性が高いが、高岡方面の沈降も否定できないと推定される。田畑の海没面積は安政南海地震と同程度とされ、宝永地震の半分程度とされるが、江戸時代の山内氏入国以降に浦戸湾周辺など各地で新田開発を行ったことを考慮すれば田畑の海没面積を以て地震による変動量を比較することは困難である。 マグニチュードはM8.4ないしM8.3、あるいはM8 - 9などと推定されているが、その根拠は畿内から土佐と広い範囲に被害が及んだ南海トラフ沿いの巨大地震との推定のみであり、断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値は不確定性を含む。紀伊半島沿岸で発見された津波堆積物から本地震の規模が超巨大であった可能性も推定されている。 震央は北緯32度48分 東経134度18分 / 北緯32.8度 東経134.3度 / 32.8; 134.3座標: 北緯32度48分 東経134度18分 / 北緯32.8度 東経134.3度 / 32.8; 134.3と一応は推定されている。 『日本書紀』巻第二十九、天武13年10月14日(684年11月26日[J]、11月29日[G])、地震および伊豆諸島噴火の記録。東方から聞えた鼓音は『日本書紀』の記述にある噴火の音に囚われる必要はなく、熊野灘方面で発生した津波の音である可能性も指摘されている。 天武天皇十三年冬十月 壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。 天武13年11月3日(684年12月14日[J]、12月17日[G])、土佐国司による津波の状況の報告。地震18日後に津波が襲来したのではなく、津波は10月14日の地震によるもので、11月3日は被害を報告した日付と解釈され、上京する道中の古代における交通不便の状況の証左であると解釈される。 十一月 庚戌。土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。 天武14年3月(685年4月頃)、信濃における火山灰によると見られる被害。浅間山の噴火とされるが、現代の再研究では風向きから推定して長野県西方の火山、例えば焼岳であろうとする説がある。 天武天皇十四年三月 是月。灰零於信濃国。草木皆枯焉。 天武14年4月4日(685年5月12日[J]、5月15日[G])、紀伊国司による白浜温泉湧出停止の報告。 夏四月丙子朔己卯。紀伊国司言。牟婁湯泉没而不出也。 本地震に関して、発生当時に近い時期に編纂され信頼性の高い史料は上記の『日本書紀』の記事のみである。以下は地震発生より遥か降る時期に編纂された史料であり、信頼性は劣る。 『熊野年代記』にも熊野浦々に津波が入り、翌年には大破した熊野三山の造修料として黄金が下ったとされる記録がある。ただし、『熊野年代記』は地震より遥か後世の近世に書かれた書物であり当時のものではなく信憑性の高い史料とは言えない。 甲申十三(684年) 去年御幸式定大辺路ノ通路ヲ中辺路ニ定給ウ新進二ツリ弓矢一納金佛各神宝ヲ一熊野浦々ニ津浪入 詔男女衣服神造二伊豆島一十ノ十四大地震 乙酉十四(685年) 熊野三山大破造修料黄金下ル御輿ヲ錺ル 『邇幣姫神社由緒記』には本地震で三瓶山の親三瓶と子三瓶の間の層雲越で激しく鳴動し、夥しい土砂崩れや転石があり浮布池が出来たと記される。 白鳳十三年甲寅の四月十四日〔ママ〕 当地大地震のとき、佐比売山の西側崩れ水源の下流を埋めたため、この池、水をたたえて霊池となる。 『朝倉村誌』には、越智郡(現・今治市)に、かつて天然の良港である朝倉港があり、畿内と九州を結ぶ中間碇泊地として栄えていたが、本地震によって遠浅であった海が陸化して府中平野が出現し、碇泊地は朝倉郷から桜井郷の湊にとって代わられたとある。
※この「地震の記録」の解説は、「白鳳地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「白鳳地震」の記事については、「白鳳地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 09:30 UTC 版)
「慶長十九年十月二十五日の地震」の記事における「地震の記録」の解説
慶長19年10月25日(1614年11月26日)には越後高田のみならず、会津・銚子・江戸・八王子・小田原・伊豆・伊那・駿府・三河田原・桑名・伊勢・津・京都・奈良・大坂・紀伊田辺・伊予松山など広い範囲で大地震の記録があり、発生時刻は午-未刻(12-14時頃)との記録がある。 越後高田 『続年日記』:越後国高田領大震、人死多、津波も揚打。 銚子 『玄番先代集』:十月廿五日津波入る、浜通は観音裏門まで上る、岡は松平外記様御家中山口喜左衛門殿と申衆入孫右衛門屋敷に其時代居住被成、洗足之砌波上ヶ盤浮き申程波参候由咄伝也。 江戸 『新編武蔵風土記稿』:池上本門寺五重塔は「慶長十九年の大地震に傾きしを台徳院殿御遊獵の時御覧ありて御修造のことを命ぜられしとぞ」。 八王子 『正続桑都日記』:地震。 小田原 『慶長見聞書』:小田原宿に御泊、此日大地震。 伊那 『赤須上続旧記録抄』:十月廿五日大地震。 三河田原 『田原城主考付録』:大坂御出陣の前年に大地震有之、其の時右の矢倉ゆり崩れ申候。 桑名 『慶長自記』:廿五日未の刻大地震家蔵なと少々損くすれ程にはなし。 伊勢 『神朝遺文』:廿五日甲辰未刻大震海溢死者衆。 津 『西島八兵衛寛文書上』:廿五日、大地震。 京都 『当代記』:午下刻に震動が頗る強かったが、顛倒の被害は無く、二条城へ五山衆出仕して広間に在り、庭に走り出したところ天水桶が落下して水を浴びた。 『徳川実紀』:京洛で死者2、負傷370余、二条城破損せず。 奈良 『南都年代記』:廿五日未刻大地震。 大坂 『難波戦記』:申の刻、天曇、大地震山崩れ、騎馬死す。民家多く顛倒し、堂社仏閣破壌に及ぶ。 紀伊田辺 『万代記』:十月廿五日、大地震。『田辺万代記』:十月二十五日、大地震。 伊予松山 『温泉伝記』:大地震にて山崩れて泉脈塞がる(道後温泉?)。 『松山叢談』:十月二十五日、地震して湯出でず、その後月を越て又出で初の如し。 『田原城主考付録』の記録については「大坂御出陣(1615年)の前年」とあるが、この「前年」を大坂御出陣以前の年と解釈し津波地震と考えられている1609年慶長地震の震害の一つとする見方もある。
※この「地震の記録」の解説は、「慶長十九年十月二十五日の地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「慶長十九年十月二十五日の地震」の記事については、「慶長十九年十月二十五日の地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:11 UTC 版)
『日本書紀』推古天皇7年4月27日(ユリウス暦599年5月26日、グレゴリオ暦5月28日)の条項に被害地震の記述が登場する。 地震が発生し建造物が悉く倒壊した。四方に命じて地震の神を祭らせたという。聖徳太子の伝記によれば、太子が地震を予測して建物の補強を促し、地震後は税の免除を建言したと伝わる。 『日本書紀』巻第二十二 推古天皇七年夏四月乙未朔辛酉。 地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。 『聖徳太子伝暦』 春三月。太子候望天気。奏曰。応致地震。即命天下令堅屋舎。夏四月。大地震。屋舎悉破。太子密奏曰。天為男為陽。地為女為陰。陰理不足。即陽迫不能通。陽道不填即陰塞而不得達。故有地震。陛下為女主居男位。唯御陰理。不施陽徳。故有此譴。伏願徳沢潤物。仁化被民。天皇大悦。下勅天下。今年調庸租税竝免。 『熊野年代記』(古写・歳代記)にも『日本書紀』類似の記録があり、『豊浜町誌』にも讃岐国で微震であったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世に記されたものであり詳細は不明である。 『熊野年代記』 乙未七 四ノ廿七、地動屋破ル祭神。 『豊浜町誌』 讃岐地方にも微震(四・二七)。
※この「地震の記録」の解説は、「推古地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「推古地震」の記事については、「推古地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:20 UTC 版)
『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。 允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れた。允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため捕えて殺したという。このようにこの地震の記事は政治的事件の発端として記されており、地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。また武烈天皇8年(西暦506年)以前は日本暦が明らかでないため厳密に西暦には換算できず、西暦換算が416年であるかも疑わしいとの見方もある。 『日本書紀』巻第十三 允恭天皇五年秋七月丙子朔己丑。 地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞歯別天皇之殯。則当地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮之消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女而酒宴焉。吾襲挙状、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲為礼幣。乃密遮吾襲、而殺于道路。因以逃隠武内宿禰之墓域。天皇聞之喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之。甲服襖中而参赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女、賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇。天皇設兵将殺。玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更発卒囲玉田家。而捕之乃誅。 『熊野年代記』にも諸国で大地震であったと記され、『豊浜町誌』にも讃岐国で地震があったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世に記されたものであり出典や詳細は不明である。 『熊野年代記』 丙辰五 七ノ十四諸国大地震是始。 『豊浜町誌』 讃岐の国に地震(七・一四)。
※この「地震の記録」の解説は、「允恭地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「允恭地震」の記事については、「允恭地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:11 UTC 版)
寛文二年五月一日巳下刻から午上刻(1662年6月16日10 - 12時ごろ)、近江・若狭を中心に2回の激しい揺れに襲われた。この日は大雨で、京都の地震動も強く『基煕公記』の宝永地震の記録において「昔卅六年己前(数え年)五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震ノ五分ノ一也」とあり、宝永地震の京都における揺れは振動が長くとも破損を生じる程で建物が倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ寛文地震の揺れの1⁄5程度の強さであったことになる。 『殿中日記』には京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人200人余、伏見城も各所で破損したとある。 また同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ石垣が5、6百間崩れ、家千軒余潰れ、死人30人あまり、大溝(現・高島市)では家1,022軒潰れ、死人38人、牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ家が潰れ出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口城でも門、塀、御殿が破損した。 『落穂雑談一言集』には伏見で町屋320軒余倒壊、死人4人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑85町余がゆり込み、並家1,570軒が倒壊したとある。 『元延実録』には愛宕神社や岩清水八幡宮が大いに破損、知恩院や祇園も大方破損したとある。『厳有院実紀』によれば二条城は各所が破損したが禁裡院は無事である旨、また丹波亀山城、篠山城、摂津尼崎城、近江膳所城、若狭小浜城は崩れ、近江国朽木谷では朽木陣屋が倒壊し、多くの家臣らと共に隠居していた先代領主の朽木宣綱が圧死したとある。 当時の被害の様子や余震を恐れる人々など当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された浅井了意の『かなめいし』(寛文2年8月から同年末までに成立)が、災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる。。 京の方広寺の大仏は1596年の慶長伏見地震でも倒壊するなど度々災難に見舞われていたが、本地震でも1612年に再建された大仏が破損した。大仏は木造で再建されることとなり、破損した旧大仏は解体された。解体された大仏の銅地金が寛文8年5月(1668年6月頃)から鋳造が始まった寛永通宝文銭の材料の一部にもなったという説があるが、これは当時も流布されたデマである(新寛永(文銭)項目参照)。 強震は近江、若狭に加えて、山城、大和、河内、和泉、摂津、丹波、美濃、伊勢、駿河、三河、信濃と広範囲におよび、比良岳付近で顕著であった。『慶延略紀』によれば二条城や大坂城も破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったとされ、福山でも有感、『殿中日記』には「長崎表も地震之由」とある。被害の全体では死者880あまり、潰家約4,500とされる。 地域推定震度畿内 京都 (5 - 6), 伏見 (6), 宇治 (5 - 6), 八幡 (5 - 6), 高槻 (5 - 6), 大坂 (5 - 6), 布施 (5), 八尾 (5), 岸和田 (5 - 6), 尼崎 (5 - 6), 加茂 (5), 奈良 (5), 大和郡山 (5), 天理 (E), 桜井 (5) 東海道 豊橋 (S), 岡崎 (4), 豊田 (5), 犬山 (4), 名古屋 (5), 桑名 (5 - 6), 亀山 (5-6), 鈴鹿 (E), 津 (5), 伊勢 (4), 上野 (5) 東山道 美麻 (E), 白鳥 (4), 海津 (5), 今津 (5 - 6), 朽木 (7), 高島 (7), 葛川 (6), 坂本 (6), 比叡山 (5), 彦根 (7), 近江八幡 (5), 野洲 (5 - 6), 水口 (5 - 6), 富川 (6), 膳所 (6), 大津 (6) 北陸道 富山 (5), 福野 (5), 門前 (E), 福井 (5), 敦賀 (6), 美浜 (6), 三方 (5), 上中 (5 - 6), 小浜 (5 - 6) 山陰道 亀岡 (5 - 6), 篠山 (5), 福知山 (5), 舞鶴 (E), 国府 (4), 伯耆 (E) 山陽道 岡山 (E) 南海道 和歌山 (5) S: 強地震 (≧4), E: 大地震 (≧4), M: 中地震 (2 - 3), e: 地震 (≦3) マグニチュードは河角廣によりMK = 5.5として M = 7.6 (M = 4.85 + 0.5 MK)と推定され、7 1/4 - 7.6、あるいは7.4、M 7.5あるいはそれより上とも推定されているが、地震計の記録のない歴史地震であるためその数値は不確定性を含む。 『続史愚抄』には「此後連々昼夜揺動、至七月云」とあり、また余震と思われる地震は12月まで記録されているという。
※この「地震の記録」の解説は、「寛文近江・若狭地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「寛文近江・若狭地震」の記事については、「寛文近江・若狭地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 09:43 UTC 版)
本地震に関する古記録は東海地震および南海地震と共に記されている。 伊予の吉田(『赤松家文書』)、宇和島(『地震海溢記』)、豊後の佐伯(『御用日記』)、延岡(『日記』)、および豊前小倉(『鈴木大雑集』)では、五日の地震よりも一層烈しいものであったと記録されている。 南海地震は中国の上海郊外の嘉定付近でも有感であったとされるが、これを記述した同史料である『中国地震歴史資料彙編』には、12月26日、上海において「辰刻地大震」とも記録され、震央距離約1000kmにおいて本地震の揺れが南海地震より強く感じられたことが示唆される。 この地震では津波は無かったとされており、宇和島では潮は平常と相変らずと記録されているが(『大控』)、佐伯では「浦々高浪之趣」と記録されている(『御用日記』)。 街道推定震度畿内 大坂(e) 東海道 津(M), 伊勢(M) 東山道 馬籠(M) 北陸道 金沢(e) 山陰道 松江(M), 邑智(e), 萩(E) 山陽道 津山(e), 勝山(e), 岡山(e), 児島(E), 福山(e), 鞆(M),広島(4), 岩国(e), 徳山(5-6) 南海道 松茂(E), 徳島(e), 多度津(E), 琴平(E), 小松(S), 今治(E), 松山(E), 大洲(5-6), 八幡浜(6), 吉田(5-6), 宇和島(E), 野村(E), 一本松(E), 高知(E), 土佐清水(5-6), 宿毛(5) 西海道 小倉(5), 芦屋(5-6), 木屋瀬(5), 久留米(E), 多久(e), 小城(e), 白石(E), 佐賀(E), 諫早(S), 柳川(e), 熊本(E), 仏原(5), 牛ヶ瀬(5), 豊野(E), 坂本(E), 人吉(E), 中津(5-6), 宇佐(5), 杵築(5-6), 日出(5), 別府(6), 大分(6), 臼杵(6), 佐伯(5-6), 高千穂(E), 椎葉(5-6), 米良(5-6), 延岡(5-6), 高鍋(E) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)
※この「地震の記録」の解説は、「豊予海峡地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「豊予海峡地震」の記事については、「豊予海峡地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 05:52 UTC 版)
天武天皇7年12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日、グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。 巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたという。 『日本書紀』巻第二十九 天武天皇七年十二月是月 筑紫国大地動之。地裂広二丈。長三千余丈。百姓舍屋。毎村多仆壌。是時百姓一家有岡上。当于地動夕。以岡崩処遷。然家既全、而無破壌。家人不知岡崩家避。但会明後。知以大驚焉。 また『豊後国風土記』によれば五馬山が崩れて温泉が所々で噴出し、そのうち1つが間欠泉であったという。戊寅年は天武天皇7年である。 五馬山(在二郡南一)昔者比山有二土蜘蛛一名曰二五馬媛一。因曰二五馬山一。飛鳥浄御原宮御宇天皇御世戊寅年大有二地震一山崗裂崩、此山一峡崩落、温之泉処処而出。湯気熾熱炊レ飯早熟。但一処之湯其穴似レ井臼注丈余無レ知二浅深一。水色如レ紺。常不レ流。聞二人之声一驚慍騰レ埿一丈余許。今謂二慍湯一是也 この地震の条項「十二月是月」の直前にある『日本書紀』12月27日の条項には、臘子鳥(あとり)が天を覆って西から東北方向へ移動したとあり、宏観異常現象の1つと考える説もある。 十二月癸丑朔己卯。 臘子鳥蔽天。自西南飛東北。 河角廣は本地震に対し規模MK = 3.6を与え、マグニチュード M = 6.7に換算されている。宇佐美(2003)は M = 6.5 - 7.5 と巾を広く取っている。
※この「地震の記録」の解説は、「筑紫地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「筑紫地震」の記事については、「筑紫地震」の概要を参照ください。
地震の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 20:25 UTC 版)
寛政五年正月七日午刻(昼九ツ時過)(1793年2月17日正午過頃)牡鹿半島沖に大地震が発生した。 『古廟山主将記録』には、大津波が発生し須賀浦にて家17軒が流れ12-13人が流死したとある。『東藩史稿』には仙台藩領内で圧死12人、馬13頭、潰家1060余とある。 全体で潰家および流失家1730軒余、船の流失・破損33、死者44人以上とされ、相馬では余震が10ヶ月以上続いた記録がある。 この地震に関する古記録は1904年刊行の『大日本地震史料』では『武江年表』の「寛政五年正月、関東地震」1件しか収録されていなかった が、その後、次第に多くの史料が集積されるようになり、震度分布などこの地震の全体像が明らかになりつつある。 地域推定震度陸奥 弘前(5), 八戸(E), 雫石(5), 盛岡(4), 花巻(5-6), 宮古(E), 釜石(E), 藤沢(E), 北方早稲田(6), 登米(6), 古川(4-5), 塩釜(E), 仙台(5), 名取(5), 福島(4-5), 相馬(5), 田島(e), 矢祭(E) 羽後 鷹巣(E), 本荘(e) 羽前 鶴岡(E), 羽黒(4-5), 新庄(4) 東山道 日光(E), 諏訪(e), 東海道 笠間(4), 関城(e), 九十九里(E), 川越(S), 蕨(E), 江戸(E), 八王子(e), 生麦(e), 甲府(e), 御殿場(e) 北陸道 長岡(E), 糸魚川(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)
※この「地震の記録」の解説は、「寛政地震」の解説の一部です。
「地震の記録」を含む「寛政地震」の記事については、「寛政地震」の概要を参照ください。
- 地震の記録のページへのリンク