地震の記録とは? わかりやすく解説

地震の記録

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象潟地震」の記事における「地震の記録」の解説

この年5月下旬頃からこの付近鳴動があり、象潟内陸部長岡小瀧では地震前に井戸水位低下水の濁りがあったという。『金浦年代記』には夜四ツ時、大地2、3持上げられたように感じられ直後激し揺れ襲われたとある。地震多く人々就寝中の夜の発生であったため、潰家の下敷きとなり犠牲者を出す結果となった近江八幡でも有感であったとする史料存在し酒田鶴岡では6月余震続いた記録がある。6月6日朝五ツ時(7月12日8時頃)の余震強く酒田で潰家15軒、津波生じた

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地震の記録

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仁和地震」の記事における「地震の記録」の解説

仁和3年7月30日申刻(ユリウス暦887年8月22日16時ごろ、グレゴリオ暦887年8月26日)、五畿七道諸国にわたる大地震発生した本地震の信頼度の高い根本史料とされる日本三代実録』には、京都において諸司舎屋民家多くが潰れ死者出し五畿七道諸国同日大きく揺れ官舎倒壊津波による多数溺死者を出したとする記録がある。余震8月末ごろまで記録されている。 特に摂津において津波被害甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方震害著しい。はるか後世編纂された史料であるが、淡路島洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には仁和三年七月地震により海に突出していた砂嘴津波失われたことが記される一方で土佐における津波大地沈降隆起など記録確認されておらず、高知県には白鳳地震についての口碑に残る言い伝えはいくつ存在するが、仁和地震よるもの確認されていない。 『日本三代実録巻第五十、7月30日の地震の記録。亥時(22時頃)余震3回あった。 卅日辛丑、申時、地大震動経歴数剋震猶不止、天皇仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所諸司倉屋及東西廬舎往往顛覆圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又三度五畿内七道諸国同日大震官舎多損、海潮漲陸、溺死不可勝計、其中摂津国尤甚、夜中東西有声、如者二、 沿岸部だけでなく離れた内陸でも被害発生したとされている。八ヶ岳山麓崩壊し千曲川堰き止めて形成され堰止め湖河道閉塞)が、303日後の仁和4年5月8日888年6月20日[J]、6月24日[G])に決壊し発生した土石流原因考えられる洪水大月川出来た河道閉塞湛水量は5.8億m3と推定されている。これは日本最大規模天然ダムとされる。なお八ヶ岳山麓崩壊については、糸魚川-静岡構造線断層帯南部連動して発生した地震の影響受けた可能性指摘されている『扶桑略記仁和三年七月卅日辛丑 信乃国大山頽崩、巨河溢流、六郡城廬払地漂流牛馬男女流死成丘、 『類聚三代格』巻十七 去年七月卅日、坤徳失静、地震成災、八月廿日亦有大風洪水之沴、前後遭重害者有余国、或海水泛溢、人民亀之国、或邑野陥没、廨宇変蛟龍之家、呼嗟沢之功未成、象耕之期奄至、顧念辺氓、誠軫中懐、朕忝以薄徳丕承洪基、内纏陟岵之慟、多惕臨谷之危、重今月八日信濃国山頽河溢、唐突六郡、城廬払地而流漂、戸口随波而没溺百姓何辜、頻罹惟禍、徒発疚首之歎、宜降援手之恩、故分遣使者、就存慰撫、宜詳加実覈施優恤、其被災尤甚者、勿輸今年租調、所在開倉賑■、給其生業、若有屍骸未歛者、官為埋葬、播此洪沢之美、協朕納隍之心、主者施行、/仁和四年五月廿八日 また臼杵郡東海村(現・延岡市)にあった護国寺である慈通寺(現・円通山千光寺)が流失したという記録や、同村川島熊野大権現倒壊した記録から、日向においても津波震害があったとされる

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地震の記録

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天平地震」の記事における「地震の記録」の解説

『続日本紀』天平17年4月27日ユリウス暦745年6月1日グレゴリオ暦6月5日)の条項に、この日夜通して地震があり、地震三日三晩続いたという。美濃国では国衙、館、正倉仏寺の堂、塔、民衆の家が被害を受け、少し触れると倒壊したとある。 『続日本紀』十六 天平十七四月甲寅27日) 是日通地震三日三夜美濃国正倉仏寺堂塔百姓廬舍触処崩壊。 この地震の後も連日余震と見られる記録が約20日続き地割れができ湧出した。大森房吉(1913)は5月2日条項にある京師当時難波京置かれていた摂津国難波であるとし、ここでも本震において同時に震動感じ余震摂津難波における記録解釈している。余震が続く間に、大安薬師元興・興福の各寺および平城宮般若経など各経典を読ましめた。 五月戊午朔(1日)、地震己未2日)、地震、令京師諸寺、限一七日転読最勝王経庚申3日)、地震辛酉4日)、地震壬戌5日)、地震日夜不止、 癸亥6日)、地震甲子7日)、地震乙丑8日)、地震於大安・薬師元興・興福四寺、限三七日、令読大集経丙寅9日)、地震丁卯10日)、地震、読大般若経平城宮癸酉16日)、地震乙亥18日)、地震、 是月、地震異常、往々折裂、水泉涌出、 『熊野年代記』にも本地震記載があり、大地震7日続いた記されている。 『熊野年代記乙酉十七 天下大地震七日

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地震の記録

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康和地震」の記事における「地震の記録」の解説

承徳3年正月24日卯刻(ユリウス暦1099年2月16日6時頃、グレゴリオ暦1099年2月22日)、畿内大地震発生した。また南海道沖を震源推定する根拠土佐康和2年正月X4日の記録であり、この記録を以て上記畿内地震同一のものと推定されていた。 『後二條師通記によれば奈良興福寺大門回廊転倒、塔が破損西金堂が少破した。『太子古今目録抄によれば摂津では天王寺でも回廊転倒などの被害があった。京都では「大地震」と記録にあり強い揺れ感じられたものの被害記録確認できず、長い揺れがあって小破損の記録見られる永長地震とは対照的である。 従来本地震は畿内付近のものとされ、河角廣(1951)は、奈良付近北緯34.7°、東経135.7°)に震央仮定し規模MK = 3.1与えマグニチュードM6.4 に換算されていたが、後述する土佐記録発見によって、巨大地震である南海地震考えられるようになった神田(1968)は、土佐記録は『広橋本兼仲卿記』の紙背文書見られ、これは賀茂御祖神社伝わった文書土佐から提出されたものと推定した。「土佐国潮江康和二年〔ママ正月□□四日地震之刻国内作田千余町皆以成海底」の記録白鳳地震『日本書紀』による記述土左国田五十万頃 没為海」と類似し宝永地震安政南海地震および昭和南海地震でも見られた南上り地殻変動による高知平野付近沈降考えられた。また康和年正月X四日相当する地震の記録が見当たらない事から、これは康和元年承徳3年)の誤記可能性が高いとされた。 賀茂御祖神社寛治4年1090年)に荘園として潮江荘(高知市)を設置したが、この地震田園1000余町(約10km2)が海没した際、潮江荘も被害を受け、翌年康和2年1100年)に国司申請し、国衛領の高岡郡吾井郷津野保を代替地譲り受け津野荘展開することとなった。 『広橋本兼仲卿記』の紙背左弁官下土左国 応以能米参拾石、毎年進納御祖禰宜県主令子々孫々知行社領当国津野内 (欠損)] 野保一処四至 東限本庄堺 西限津野河西山 北限冤杠寺山 南隈海 (欠損)] 右得祐季今月五日解状称、謹検案内、募彼賞、或祐季申 [(欠損) (欠損)] 階、或祐忠望社司之処、上階者未有先例社司者可期来 [(欠損) (欠損)] 者於今度賞者、可直立牢籠社領等之由、被仰下 [(欠損) (欠損)] 仍募彼祐季、給預件保、欲令相伝子々孫々云々而巳、 (欠損)] 件保者元是寛治立券土左潮江康和年正月 [(欠損) (欠損)] 四日地震之刻、国内作田千余町皆以成海底畢、社領 [(欠損) (欠損)] 江御庄近海浜又以同前、其後同年二月廿七日国司藤原欠損)] 臣有佐、改立高岡郡吾井郷津野村、号津野庄、所 [(欠損) (欠損)] 領也。爰経卅九箇年之後、保延四年国司藤原顕保任 [(欠損) 有利田忽縮四至、早寄傍示割取畢、号津野一色 [(欠損マグニチュード南海道沖の巨大地震仮定するならばM8.2あるいはM8.0-8.3などと推定されているが、断片的な記録し有しない歴史地震であるため数値精度高くない畿内内陸地震ならば、河角(1951)によればM6.4程度となる。 東大阪市瓜生遺跡11世紀末から12世紀にかけての小規模な液状化跡が発見され、この時期南海道沖の地震発生した証拠とされる

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大宝地震」の記事における「地震の記録」の解説

大宝元年3月26日ユリウス暦701年5月8日グレゴリオ暦5月12日)、丹波国(後に丹後国分国、現:京都府北部)で大地震発生し三日渡って揺れがあったという。 『続日本紀』巻二 大寳元年三月甲戌朔、己亥26日丹波國地震三日 また『丹後風土記残欠』の記述から、この地震により若狭湾内の凡海郷(おふしあまのさと、東西2.4km、南北6.4km)が一夜にして山頂残して没し、これが現:舞鶴市沖の冠島および沓島であると考えられた。 『丹後風土記残欠』 凡海郷者、往昔去此田造郷萬代四十三里□□□三拾五里二歩四面皆属レ海、壹之大島也、所三以稱二其凡海一、□□□往昔二天下一、當下大穴□□□□□□□到二坐于此地一之時上、引二集海中□□□小島□□□以成壹島、故云凡海矣、□□□元年三月己亥地震三日不レ已此郷一夜□□□海漸纔郷中高山ニ峯與二立神岩一出二海上一、今號二常世島一、亦俗称二男女島一、毎島有二神祠一、所レ祭者天火明神二日郎女神一也、是海部直竝凡海連等所三以齋二祖神一也 (以下八行虫食) しかし、この『丹後風土記残欠』は江戸時代作成され偽書である可能性指摘され、60m以上の地殻変動を必要とする冠島沈降地学的にも疑問視されている。 一方でこの凡海郷は冠島ではなく丹後国加佐郡の郷の一つであり、由良川河口付近神崎村および由良村などに相当するとされ、また大浦半島含めた加佐郡沿岸部集落指していたもの推定されている。 『縁城寺年代記辛丑大寳元年三月廿一日紀年 此月大地三日不熄、加佐郡大半滄海トナル 本地震の震源断層や、その被害状況はっきりしないが、若狭湾襲った歴史津波検討候補ともされている。 河角廣規模 MK = 4.3与えマグニチュードは M = 7.0 (M = 4.85 + 0.5 MK)に換算されていたが、宇津(2001)や宇佐美(2003)はマグニチュードの値を示していない。

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畿内七道地震」の記事における「地震の記録」の解説

『続日本紀』天平6年4月7日ユリウス暦734年5月14日グレゴリオ暦5月18日)の条項に、大地大い震い天下民衆の家が倒壊し圧死者が多数出、山崩れ、川の閉塞地割れ数えきれないほど発生したとある。 また、地震5日後の4月12日に、畿内七道諸国遣い出して神社被災状況調べさせ、4月17日には天皇陵8か所と功のあった王の墓被害状況調査させた。さらに同日の招書では政事に欠くることなきよう注意し4月21日には天皇の徳と政治欠失省みる詔が出され7月12日には天変地異による大赦の詔が発せられたが、「天頻見異、地数震動」とあり、余震活動続いたものとみられるこのように天変地異発生責任天皇が自ら負い大赦などの詔が発せられた例は奈良時代から平安時代までいくつか見られる『続日本紀』十一 天平六年夏四月 戊戌7日)、地大震、壊天下百姓廬舍圧死者多。山崩川擁、地往々折裂、不可勝数。 癸卯12日)、遣使畿内七道諸国、検看被地震神社戊申17日)、詔曰、今月七日地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓。又詔曰、地震之災、恐由政事有關。凡厥庶寮勉理職理事自今以後、若不改励、随其状迹、必将貶黜焉。 壬子21日)、遣使於京及畿内、問百姓疾苦。詔曰、比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。今故、発遣使者、問其疾苦。宜知朕意焉。諸道節度使事既訖。於是、令国司主典已上掌知其事。 秋七月 辛未12日)、詔曰、朕、撫育黎元、稍歴年歳。風化尚擁、囹圄未空。通旦忘寐、憂労在茲。頃者、天頻見異、地数震動。良由朕訓導不明、民多入罪。責在予一人。非関兆庶、宜令存寛宥而登仁寿、蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。其犯八虐故殺人、謀殺々訖、別勅長禁、劫賊傷人、官人史生枉法受財、盜所監臨、造偽至死、掠良人奴婢強盜窃盜、及常赦所不免、並不在赦例。 伯耆国から出雲国本地に関する太政官符送られ、これは『続日本紀』にある畿内七道諸国神社調査命じた件を指している可能性があるとされる。 『出雲国計会帳天平六年四月 十六日太政官下符壹道、地震状 『熊野年代記』にも本地震記載があり、熊野神倉崩れて火の玉が峰から東の海飛んだという記述見られるが、信憑性は劣るとされる。 『熊野年代記天平甲戌熊野五月大地震神ノ倉崩ス嶺ヨリ火ノ玉東海飛、西金堂ヲ興福寺四月諸国大地震丙子八 神倉成、今神倉成 『八木町神社誌』にも『住吉神社記録』にこの地震社殿破損したとの記述見られる。 『八木町神社誌』 聖武天皇御宇天平六甲戌年四月 地大いに震う。この時住吉神社社殿大に傾斜し、既に大廃に至らんとす。 誰か造営するものなかりしが、同九年八月疱瘡四方起り死者多かりしとき、村老曰く前年地震にて我産土神御屋破損し雨露落下す。此れ神明病疫を以て村民に論すものならん。と、村民驚愕し戊寅の年従来社殿よりも規模広大にして造営し神明奉謝すと。

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文治地震」の記事における「地震の記録」の解説

文治地震壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し『平家物語』や『方丈記』にその記述見られ『平家物語』には「この度地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、」と記されている。また『玉葉』、『醍醐雑事記』、『歴代皇紀』、『吉記』、『山槐記』、『百錬抄』、『園太暦』、『康富記』、『一代要記』、『愚管抄』など京都記され記録多く『吾妻鏡』のように鎌倉記され記録存在するが、これも京都状況記載したものであった京都震害著しく、『醍醐雑事記』には白河辺りの諸御願寺京中の殿屋などで九重塔九輪などが大破した様子記される。『吉記』には白河法勝寺金堂廻廓、鐘楼阿弥陀堂および九重塔などが破損した被害記述されている。その他、東寺では破損した鐘楼文治3年1187年)に修理した記録や『仁和寺御伝』による六条殿、一字金輪、於院御所修理記録がある。 『山槐記によれば閑院皇居破損近江湖(琵琶湖)の湖水北流して湖岸干上がり後日旧に復し宇治橋落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人溺死、また民家倒壊多く、門や築垣東西面のものが特に倒壊し南北面のものは頗る残ったという。法勝寺九重塔倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった同書その後余震続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位下がったことなどを記す。 唐招提寺では千手観音足柄墨書修理銘に文治元年7月地動によって転倒したものを9月20日修理したとあり、大和における被害とされる。『興福寺略年代記』にも「元暦二年七月九日大地震処々顛倒」の記述がある。 比叡山では延暦寺根本中堂輪灯悉く消滅し戒壇八足門、看衣堂、四面廻廊中堂廻廊など諸建物転倒するなどの被害出た(『園太暦』)。 近江では大津三井寺において金堂廻廊転倒したことが『山槐記』に記され、田3町が地裂けになったという。遠国においても被害発生し津波があったともいう。 この地震美濃伯耆三河でも有感であったとされる。『山槐記』には「又自美濃伯耆等國來之輩曰、非殊之大動、」とある。

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安政八戸沖地震」の記事における「地震の記録」の解説

安政三年七月二十三日午刻(1856年8月23日12時頃)八戸中心に東北地方北部太平洋側から北海道にかけて強震見舞われた。陸奥では『蝦名日記』、『津軽藩日記』、および『柿崎日記』には12月頃まで余震記録され7月26日朝の余震はかなり強いものであったという。『維新前北海道変災年表』には7月19日頃から数回地震感じたとある。 『八戸藩史稿』によれば希有な強震八戸城所々破損し湊村海嘯によって浸水し流家があったという。『津軽藩日記』には青森において強震酒蔵など土蔵潰れたとあり、また襟裳岬付近山崩れ生じたが、全体として震害少ない。 地域推定震度蝦夷 浦河(E), 苫小牧(S), 長万部(E), 八雲(S), 函館(4), 松前(E) 陸奥 下北(4-5), 田名部(5), 青森(5), 黒石(4), 弘前(4), 蟹田(4), 市浦(4), 木造(5), 鯵ヶ沢(4), 野辺地(5), 七戸(5), 十和田(5), 五戸(5), 三戸(5), 八戸(5-6), 久慈(4), 岩泉(E), 安代(5), 雫石(5), 盛岡(4-5), 紫波(4-5), 花巻(E), 遠野(4-5), 宮古(5), 大槌(4-5), 大船渡(E), 陸前高田(4), 藤沢(E), 一関(E), 唐桑(E), 気仙沼(E), 松島(e), 仙台(4), 相馬(S), 郡山(e) 羽後 鹿角(5), 秋田(e), 湯沢(E) 羽前 余目(e), 鶴岡(e), 米沢(e) 東山道 黒羽(E), 宇都宮(e), 今市(e), 南河内(e), 大田(E) 東海道 那珂湊(e), 水戸(e), 銚子(e), 滝山(E), 江戸(4), 大滝(e), 甲府(e) 北陸道 白根(e), 分水(e), 見附(e), 中条(e), 柏崎(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)

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信濃小谷地震」の記事における「地震の記録」の解説

正徳年三十五日戌刻過(夜五ツ半)(1714年4月28日21時頃)に小谷村中心とする地震発生した尾張藩奉行朝日文左衛門重章の日記鸚鵡籠中記』、および『江戸幕府日記』には、水野出羽守領分信州松本大町組大地震102石余の田畑損亡、潰家194軒、半潰141軒、怪我人37人、死人56人、牛馬怪我20疋と記されている。 『月堂見聞集』では死人は男32人、女25人、潰家33ヶ所となっている。白馬村大出発見され古文書には15日戌亥刻から翌16日四ツ時(10時頃)まで33震い、四ヶ条小谷まで皆々震い崩れ54人が死に350軒潰れ、坪の沢では大山抜け崩れ大堤になり塩島新田まで2里(約8km)が水没したとある。 『新編信濃史料叢書 第五巻』、『中土村誌』には、千国山崩れがあり、人家田畑残らず亡所となり、人30人牛馬8疋が死亡し、家9件が倒壊堀ノ内(四ヶ庄:神城北城小谷中土)では人14人、牛馬36疋が死亡し、家48件が倒壊中谷村上谷では合計18軒が押し崩され姫川天然ダム決壊流失したとある。 役所への被害届である『中谷村地震満水に付田畑指出帳控』には、地震による山崩れ天然ダム形成し水没した田畑面積合計壱丁九反七畝廿九歩(約19,633m2)、その見積もり拾壱石九升四合弐勺と記されている。 『松代町史』によれば宝永4年地震比すれば震動少なく家屋被害軽微であったが、半時(約1時間)ばかりの間に4度震動があったという。『江戸幕府日記によれば松代領では、潰家48軒、寺社潰3、田畑の損が420石余、道路破損38ヶ所に上った善光寺では本堂破損し二天東西石垣悉く崩れ石塔がほとんど転倒した。 『菖蒲年代記によれば出羽余目、『津軽藩御日記によれば江戸においても有感であった資料調査をまとめた地震調査研究推進本部プロジェクトによれば小谷村の坪ノ沢では全戸壊滅する被害だったほか、小谷村中小谷や白馬村堀之内でも過半数家屋倒壊したまた、姫川右岸にある岩戸山斜面崩壊により姫川天然ダム形成された。結果、5570m3規模湛水生じ3日後に決壊し下流被害地域推定震度出羽 余目(e) 信濃 善光寺(5-6), 小谷(6), 白馬(6), 大町(6), 駒ヶ根(e) その他 江戸(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)

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永長地震」の記事における「地震の記録」の解説

嘉保3年11月24日辰刻ユリウス暦1096年12月11日8時頃、グレゴリオ暦1096年12月17日)、東海道沖大地震発生した東海地方津波記録、および畿内付近震害記録みられる藤原宗忠日記である『中右記』には、この地震に関する詳細な記録があり、地震動一時(約2時間)程続き東大寺の巨鐘が落下薬師寺回廊倒壊東寺九輪落下法成寺東西塔が破損法勝寺御仏等光が破損した記されている。東大寺の巨鐘の落下延久2年10月20日ユリウス暦1070年11月25日)の地震以来のことであった閑院御所では堀河天皇が庭の池に浮かべた舟に避難したという。 『中右記』にはまた、近江勢多橋落下し伊勢阿乃津(安濃津、現・三重県津市)で津波によって多く人家破壊されその他諸国でも同様であったなど伝聞から京都以外でも大きな被害があったことが記されている。 藤原師通著した後二条師通記』には辰時に6度震い、また駿河からの報告書に「去月廿四日大地震があり、津波により社寺民家400余流失し国家大事なり」と記されていたとある。この時代地震古記録京都・奈良など畿内書かれたものが殆どであり、駿河伊勢津波被害など地方被害伝聞として京都伝えられ記録されたものである。 『近衛家文書』には「而去嘉保年中大地震之時□□々空変海塵、経数十年、爰此七八ケ年、漸為陸地、令開作之間、件両嶋、鹿取野代両庄住人、」とあって本地震で木曽川下流域鹿取野代の地が「空変海塵」の状態となり、年月経て陸地戻った様子記述される木曾三川河口デルタ低地強震動液状化地盤沈降津波複合作用崩壊、海没したものと考えられる。 『中右記』には、この地震前後から約2年後康和地震頃まで多くの地震の記録が見られ活発な余震活動続いたことが窺われる。この相次ぐ地震などのため、永長2年11月21日ユリウス暦1097年12月27日)には再び改元され、元号承徳改められた。 阿波国太龍寺に関する古記録集成した『太龍寺縁起』にも、本地震の記述登場する。しかし、この『太龍寺縁起』には土佐沈降伴ったとされてきた康和地震記録はない。 嘉保二年乙亥ママ十一月廿四日辰時、天下大震動、海内驚怖、祈之佛神、占之陰陽云々是則異國蜂起難、須有本朝不預之憤、故課處々道場、令修種々秘法、専依爲密教根本聖跡、即止阿波國太龍之靈地、令修瑜伽上乘秘教、欲致祈祷精誠、於是佛子長範忝承綸旨、方勤勅願天下安穏海内無爲也、因茲同三年八月廿三日大師本願先蹤、抽一條御宇之中誠、寄進那賀五箇之庄國〔ママ〕、興隆大龍寺滿山之伽鹽、擺兮顯礎石、摧磐石兮方研基跡、非人力所難及、佛神能助者歟、龍神降兮闢寺地天子肄兮建佛閣、遥送教廻之星霜、方説一寺成就而己長治元年甲申八月廿五日記之

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地震の記録

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正平地震」の記事における「地震の記録」の解説

信頼度の高い史料とされる当時日記である『後愚昧記』、『忠光卿記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、および『斑鳩嘉元記』、また信頼度は低いとされる文芸作品後世編纂物であるが『和漢合運』、『南方紀伝』、『太平記』、および『阿波志』などに地震被害記録がある。 正平16年康安元年6月24日寅刻(ユリウス暦[J]1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦[G]1361年8月3日)、畿内熊野などで被害記録が残るような大地震発生した。 『後愚昧記』などには摂津四天王寺金堂奈良唐招提寺薬師寺山城東寺など堂塔破損倒壊した記録される。『斑鳩嘉元記』によれば法隆寺金堂仏壇崩れ東大門築地破損東院伝法堂の壁が落下し、塔の九輪の上部の火炎水煙)が折損した。なお、この塔の九輪の上火災生じたとする解釈があるが、それは『斑鳩嘉元記』の「當寺ニハ御塔九輪上火炎、一折懸ニテ下モヘハヲチス、(折れ懸けにて下へは落ちず)」を、「當寺ニハ御塔九輪上火災、一折燃テ下モヘハヲチス、」と誤読した翻刻文掲載した大日本地震史料』によるもの思われる。 また『斑鳩嘉元記』には、薬師寺金堂二階の傾損、2基の塔の内、1基の塔の九輪落下唐招提寺でも九輪大破回廊転倒諸堂破損したとある。さらに紀伊では湯の峯温泉湧出停止し熊野山山路山河破損多く、『愚管記』には熊野神社社頭仮殿尽く破損したとある。 『太平記』巻第三十六地震と夏記録軍記物語ゆえに文学的誇張的表現、あるいは創作による不正確な記述見られるが、阿波湊(由岐)の津波存在事実であろうとされる大地震並夏同年六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地成しかば、神社仏閣倒れ破れ牛馬人民死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川江河林野村落此災に不合所なし中にも阿波の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々所有僧俗男女牛馬鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇降て、氷寒の甚き冬至前後如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路樵夫野径旅人牧馬鹿悉氷に被閉に臥て、凍へ死る者数を不知七月ママ二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に大山なる潮満来て漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付三四日を経て後、近き傍の浦人数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。 又八月〔ママ二十四日大地震に、荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て天王寺金堂の中へ入ると見けるが、中に鏑矢鳴響て、戈の光四方ひらめきて、大龍四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。 鳴戸では三四日前に海が干上がり地震前後数時間亘って地鳴り響き渡り地震による地殻変動思われる現象で再び没して海に戻った様子比喩的に表現されている。また6月22日地震前震?)の日は盛夏にも関わらず冬至前後の様な寒さ降りしたことが記録されている。この夏記事当時公卿日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる三河記録として渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日大地震地破」とある。 『皇年代略記』には「貞治元年壬寅九月廿三日改元、依兵革流病天変地震也。」とあって翌年貞治元年9月23日ユリウス暦1362年10月11日)に兵革疫病天変地異によって「貞治」に改元された。

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地震の記録

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宝永富士宮地震」の記事における「地震の記録」の解説

五畿七道諸国亘って揺れとなった南海トラフ巨大地震である宝永地震翌朝宝永四年十月五日卯刻(1707年10月29日6時頃)、駿河から甲斐附近は再び激し揺れ見舞われた。内陸地震としては宝永地震最大余震とされる柳沢吉保公用日記『楽只堂年録』には、宝永地震本震加えて本地震による被害記録記されている。 村山浅間神社による報告では、4日本震は「夥しき地震」と記述されているのみであるが、5日本地震による被害が特に著しく辻之坊大鏡坊池西坊中門前および村山社領の家が残らず潰れ、死人4人を出し怪我人多数であった。 駿刕村山今月四日未刻夥鋪地震ニ而御座候五日卯之刻より大地震ニ而浅間御本地鎮守大棟権現并諸末社室中辻之坊大鏡坊池西坊右三寺中門前社領之家不残潰申候、村山社領ニ而相果候者男女四人怪我仕候者数多御座候間為御注進辻之坊出府仕候 已上十月 駿刕富士山村辻之坊 大鏡坊 池西坊 また富士山本宮浅間大社による被害報告同書記されるが、4日本震被害との区別出来ない駿州富士本浅間社頭当四日之未刻五日之卯刻両度之就大地震破壊仕候目録 御本社二階三軒社宝殿造り屋禰檜皮葺中略大破内容) 右浅間社頭目録之通今度大地震大破之上ニ弥破壊仕候付乍恐書付を以御注進申上候 已上 富士大宮別当 宝幢院同案富士大学公文 富士長門同大宮司 富士山富士山本宮浅間大社による文書大地震富士山焼出之事』には、「□□□分に夥敷大地震昨夜三双倍」とあって神社仏閣傾き村家数多く潰れたとある。 さらに『楽只堂年録』記された、油井岡部袋井報告でも「両度地震ニ而」とあって本震による被害区別できない神原でも「同五日之朝五つ時又大地震、大分山崩も仕候付潰家或半潰大破仕候」とある。 『日本被害地震総覧』では「甲斐などでは本震より強く感じ大きな被害(潰家7,397, 同寺254, 死24となった。」と記述されているが、甲斐被害『楽只堂年録』や『山田町御用留帳』の内容から被害大部分4日本震によると判断される。『甲西町誌』所収の『新津容策家の往年災異記』によれば4日地震荊沢十五(現・南アルプス市)は家が残らず潰れ、5日の朝も家が潰れる程の揺れであったという。久能山では、『楽只堂年録』4日に八坊の内4ヶ寺潰れ、5日番所ならびに坊中1ヶ寺潰れ、前方小破所々5日地震大破及んだとある。 『楽只堂年録』記載され被害報告地域知行主潰家半潰家大破その他被害死者主に被害もたらした地震谷村 松平美濃守 在家284日 甲斐国 町屋149軒, 在家5,621軒, 寺社217 甲府城多門瓦壁落, 石垣損 9人 甲斐西東河内在家1,599軒, 寺社37 15人 駿刕府中 能勢権兵衛 221545駿府城米蔵大破, 多門4日過半大破 駿刕村山 村山三坊 社領不残 4人 5日 駿州富士本浅間社 富士大宮別当 檜皮葺屋根大破 4日および5日 久能伝右衛門 坊中5ヶ寺, 神領58軒 3ヶ寺 大谷村浜波打上 1人 4日および5日 駿刕神原宿 安藤筑後守 石尾阿波守 有 有 有 山崩れ 4日および5日 駿刕油井宿 831574日および5日 駿刕丸子宿 百姓家5軒 宿ならび役家少々破損 宇津野坂山崩れ 4日 駿刕岡部宿 1691214日および5日 駿刕藤枝宿 2359町中 4日 駿刕嶋田宿 裏々小家 4日 遠刕金谷宿 5軒 町中 4日 遠刕袋井宿 不残 大地354日および5日 駿刕田中 内藤紀伊守 長18ヶ所, 足軽屋敷110軒 田中城石垣4日および5日 駿刕藤枝町 町屋13軒, 2359軒 其外数多 駿刕内谷 町屋12軒, 其外 駿刕岡部町 169121軒 駿刕志太郡10 1,409軒 1,213軒 駿刕益津郡内4ヶ 345137軒 地舟高波行方不知 駿刕有渡郡内5ヶ 12軒 6軒 猟船8艘高波破船 1人 遠刕榛原郡19 243軒 5軒 塩浜高波で損 5人 遠刕城東郡内7ヶ 2,142軒 1,511軒 6人 駿刕富士郡内5ヶ 久世三四郎 百姓家所々 4日および5日 江戸で地震後御機嫌伺い登城しているため震度4程度推定される。『出火洪水大風地震』には「十月四日之昼同五日朝地震有之、天水こほれ余程之地震ニ而御座候得共、上々様方御機嫌被成御座候御到来有之」とあって当時天水桶がこぼれる程の地震起った場合君主御機嫌伺い参上するのが慣習であった。 その他、日光でも「卯刻過地震」(『御番所日記』)、松代で「明六時過余程強致地震」(『『家老日記』』)、富山で「卯刻地震強動」(『吉川随筆』)、大聖寺で「卯之刻地震」(『大聖寺藩史』)、名古屋で「卯の刻よ程強き地震」(『鸚鵡籠中記』)など広い範囲強く揺れた記録がある。 この後富士山周辺では余震続き11月10日1707年12月3日)頃からは鳴動始まり11月23日1707年12月16日)には宝永大噴火となり、宝永山出現した

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地震の記録

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白鳳地震」の記事における「地震の記録」の解説

天武天皇13年10月14日人定(亥時)(ユリウス暦684年11月26日20 - 22時頃、グレゴリオ暦684年11月29日)、西日本太平洋沿岸大地震発生した山崩れ、河涌くとする液状化現象思わせる記録があり、諸国の郡の官舎百姓の倉屋、寺塔神社多く倒壊した伊予湯泉(いよのゆ、道後温泉)や紀伊牟婁温泉(むろのゆ、南紀白浜温泉)が埋もれて湧出止まり土佐では田畑50万頃(約12km2)が海中没した加えて津波襲来し土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失したこの様相は昭和南海地震安政南海地震および宝永地震にも見られ現象であり、田畑水没南東上がり地盤変動によると思われる土佐沈降して海となった地は、江原真伍による土佐市高岡付近とする説および、今村明恒高知市東部とする説などがあり、昭和南海地震による類推から高知市東部可能性が高いが、高岡方面沈降否定できない推定される田畑の海没面積安政南海地震同程度とされ、宝永地震半分程度とされるが、江戸時代山内氏入国以降浦戸湾周辺など各地新田開発行ったことを考慮すれば田畑の海没面積を以て地震による変動量を比較することは困難である。 マグニチュードはM8.4ないしM8.3、あるいはM8 - 9などと推定されているが、その根拠畿内から土佐と広い範囲被害及んだ南海トラフ沿いの巨大地震との推定のみであり、断片的な記録し有しない歴史地震であるため数値不確定性を含む。紀伊半島沿岸発見され津波堆積物から本地震の規模が超巨大であった可能性推定されている。 震央北緯3248東経13418分 / 北緯32.8度 東経134.3度 / 32.8; 134.3座標: 北緯3248東経13418分 / 北緯32.8度 東経134.3度 / 32.8; 134.3と一応は推定されている。 『日本書紀』巻第二十九天武13年10月14日684年11月26日[J]、11月29日[G])、地震および伊豆諸島噴火記録東方から聞えた鼓音『日本書紀』の記述にある噴火の音に囚われる要はなく、熊野灘方面発生した津波の音である可能性指摘されている。 天武天皇十三年冬十月 壬辰。逮于人定大地震挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国官舍百姓倉屋。寺塔神社。破壌之類、不可勝数。由是人民六畜死傷之。時伊予湯泉没而不出土左国田五十万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方有人曰。伊豆西北二面自然増三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。 天武13年11月3日684年12月14日[J]、12月17日[G])、土佐国司による津波状況報告地震18日後津波襲来したではなく津波10月14日地震よるもので、11月3日被害報告した日付解釈され上京する道中古代における交通不便状況証左であると解釈される十一月 庚戌土左国司言。大潮高騰海水飄蕩。由是運調船多放失焉。 天武14年3月685年4月頃)、信濃における火山灰によると見られる被害浅間山噴火とされるが、現代の再研究では風向きから推定して長野県西方火山例え焼岳であろうとする説がある。 天武天皇十四年三月 是月。灰信濃国草木焉。 天武14年4月4日685年5月12日[J]、5月15日[G])、紀伊国司による白浜温泉湧出停止報告。 夏四月丙子己卯紀伊国司言。牟婁湯泉没而不出也。 本地に関して発生当時に近い時期編纂され信頼性の高い史料上記『日本書紀』記事のみである。以下は地震発生より遥か降る時期編纂された史料であり、信頼性は劣る。 『熊野年代記』にも熊野浦々に津波入り翌年には大破した熊野三山の造修料として黄金下ったとされる記録がある。ただし、『熊野年代記』は地震より遥か後世近世書かれ書物であり当時のものではなく信憑性の高い史料とは言えない。 甲申十三684年去年御幸式定大辺路通路中辺路ニ定給ウ新進ツリ弓矢納金佛各神宝ヲ一熊野浦々ニ津浪入 詔男女衣服神造二伊豆島一十ノ十四大地震 乙酉十四685年熊野三山大破造修料黄金下ル御輿ヲ錺ル 『邇幣姫神社由緒記』には本地震で三瓶山の親三瓶と子三瓶の間の層雲越で激しく鳴動し夥しい土砂崩れ転石があり浮布池出来た記される白鳳十三甲寅四月十四日ママ当地大地震のとき、佐比売山西側崩れ水源下流埋めたため、この池、たたえて霊池となる。 『朝倉村誌』には、越智郡現・今治市)に、かつて天然良港ある朝倉港があり、畿内九州を結ぶ中間碇泊地として栄えていたが、本地震によって遠浅であった海が陸化して府中平野出現し碇泊地は朝倉郷から桜井郷の湊にとって代わられたとある。

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地震の記録

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慶長十九年十月二十五日の地震」の記事における「地震の記録」の解説

慶長19年10月25日1614年11月26日)には越後高田のみならず会津銚子江戸八王子小田原伊豆伊那駿府三河田原桑名伊勢・津・京都・奈良大坂紀伊田辺伊予松山など広い範囲大地震記録があり、発生時刻は午-未刻(12-14時頃)との記録がある。 越後高田 『続年日記』:越後国高田大震、人死多、津波も揚打。 銚子 『玄番先代集』:十月廿五日津波入る、浜通観音裏門まで上る、岡は松平外記御家中山口喜左衛門殿と申衆入孫右衛門屋敷に其時代居住被成洗足之砌波上ヶ盤浮き申程波参候由咄伝也。 江戸新編武蔵風土記稿』:池上本門寺五重塔は「慶長十九年の大地震傾きしを台徳院殿御遊獵の時御覧ありて御修造のことを命ぜられしとぞ」。 八王子正続桑都日記』:地震小田原慶長見聞書』:小田原宿御泊此日大地震伊那赤須上続旧記録抄』:十月廿五日大地震三河田原田原城主考付録』:大坂御出陣の前年大地震有之、其の時右の矢倉ゆり崩れ申候。 桑名慶長自記』:廿五日未の刻大地震家蔵なと少々損くすれ程にはなし。 伊勢 『神朝遺文』:廿五日甲辰未刻大震海溢死者衆。 津 『西島八兵衛寛文書上』:廿五日大地震京都当代記』:午下刻に震動頗る強かったが、顛倒被害無く二条城五山出仕して広間在り、庭に走り出したところ天水桶落下して浴びた。 『徳川実紀』:京洛死者2、負傷370余、二条城破損せず奈良南都年代記』:廿五日未刻大地震大坂難波戦記』:申の刻、天曇、大地震山崩れ騎馬死す民家多く顛倒し、堂社仏閣破壌に及ぶ。 紀伊田辺万代記』:十月廿五日大地震。『田辺万代記』:十月二十五日大地震伊予松山温泉伝記』:大地震にて山崩れて泉脈塞がる(道後温泉?)。 『松山叢談』:十月二十五日地震して湯出でず、その後月を越て又出で初の如し。 『田原城主考付録』の記録については「大坂御出陣(1615年)の前年」とあるが、この「前年」を大坂御出以前の年と解釈し津波地震考えられている1609年慶長地震震害一つとする見方もある。

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推古地震」の記事における「地震の記録」の解説

『日本書紀』推古天皇7年4月27日ユリウス暦599年5月26日グレゴリオ暦5月28日)の条項被害地震記述登場する地震発生し建造物悉く倒壊した四方命じて地震の神を祭らせたという。聖徳太子伝記によれば太子地震予測して建物補強促し地震後は税の免除建言したと伝わる。 『日本書紀』巻第二十二 推古天皇七年四月乙未辛酉地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。 『聖徳太子伝暦』 春三月太子候望天気。奏曰。応致地震。即命天下令堅屋舎。夏四月大地震屋舎悉破。太子密奏曰。天為男為陽。地為女為陰。陰理不足。即陽迫不能通。陽道不填即陰塞而不得達。故有地震。陛下女主居男位。唯御陰理。不施陽徳。故有此譴。伏願徳沢潤物。仁化被民。天皇大悦。下勅天下今年調庸租税竝免。 『熊野年代記』(古写・歳代記)にも『日本書紀』類似の記録があり、『豊浜町誌』にも讃岐国微震であったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世記されたものであり詳細不明である。 『熊野年代記乙未七 四ノ廿七、地動屋破ル祭神。 『豊浜町誌』 讃岐地方にも微震(四・二七)。

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允恭地震」の記事における「地震の記録」の解説

『日本書紀』允恭天皇5年7月14日ユリウス暦416年8月22日グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述登場する允恭天皇先に玉田宿禰反正天皇の殯を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。玉田宿禰はこの時酒宴開いており、尾張連吾襲を殺して武内宿禰墓地隠れた允恭天皇玉田宿禰呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため捕えて殺したという。このようにこの地震記事政治的事件発端として記されており、地震そのもの状況被害の様子記されていない。また武烈天皇8年西暦506年以前日本暦明らかでないため厳密に西暦には換算できず、西暦換算416年であるかも疑わしいとの見方もある。 『日本書紀』第十允恭天皇五年秋七月丙子己丑地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞歯天皇之殯。則当地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女酒宴焉。吾襲挙状、具告玉田宿禰宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲為礼幣。乃密遮吾襲、而殺于道路。因以逃隠武内宿禰墓域天皇聞之喚玉田宿禰玉田宿禰疑之。甲服襖中而参赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女、賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇天皇設兵将殺。玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更発卒囲玉田家。而捕之乃誅。 『熊野年代記』にも諸国大地震であった記され、『豊浜町誌』にも讃岐国地震があったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世記されたものであり出典詳細不明である。 『熊野年代記丙辰五 七十四諸国大地震是始。 『豊浜町誌』 讃岐の国地震(七・一四)。

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地震の記録

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寛文近江・若狭地震」の記事における「地震の記録」の解説

寛文二年五月一日下刻から午上刻1662年6月16日10 - 12時ごろ)、近江若狭中心に2回の激し揺れ襲われた。この日は大雨で、京都地震動強く『基煕公記』の宝永地震記録において「昔卅六年己前(数え年五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震五分ノ一也」とあり、宝永地震京都における揺れ振動長くとも破損生じる程で建物倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ寛文地震揺れの1⁄5程度強さであったことになる。 『殿中日記』には京都において二条城御番衆小屋などが悉く破損町屋千軒余潰れ、死人200人余、伏見城各所破損したとある。 また同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)で城がゆがみ石垣5、6百間崩れ、家千軒余潰れ、死人30人あまり、大溝現・高島市)では家1,022軒潰れ、死人38人、牛馬多く死に朽木谷現・高島市)は特に激し地震動見舞われ家が潰れ出火により辺りが残らず焼失した記されている。膳所大津(現・大津市)も被害多く水口城でも門、塀、御殿破損した。 『落穂雑談一言集』には伏見町屋320軒余倒壊死人4人、近江志賀辛崎(現・大津市)では田畑85町余がゆり込み、並家1,570軒が倒壊したとある。 『元延実録』には愛宕神社岩清水八幡宮大い破損知恩院祇園大方破損したとある。『厳有院実紀によれば二条城各所破損した禁裡院は無事である旨、また丹波亀山城、篠山城摂津尼崎城近江膳所城若狭小浜城崩れ近江国朽木谷では朽木陣屋倒壊し多く家臣と共に隠居していた先代領主朽木宣綱圧死したとある。 当時被害の様子余震恐れ人々など当時の状況詳しく記録した読み物として売り出され浅井了意の『かなめいし』(寛文2年8月から同年末までに成立)が、災害社会像を伝え最初資料地震誌である。上巻京都での実況見分的に描写中巻京都以外の地震災害概要下巻日本地震先例をあげる。。 京の方広寺大仏1596年慶長伏見地震でも倒壊するなど度々災難見舞われていたが、本地震でも1612年再建され大仏破損した大仏木造再建されることとなり、破損した大仏解体された。解体され大仏地金寛文8年5月1668年6月頃)から鋳造始まった寛永通宝文銭材料一部にもなったという説があるが、これは当時流布されデマである(新寛永文銭)項目参照)。 強震近江若狭加えて山城大和河内和泉摂津丹波美濃伊勢駿河三河信濃広範囲におよび、比良岳付近顕著であった。『慶延略紀』によれば二条城大坂城破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったとされ、福山でも有感、『殿中日記』には「長崎表も地震之由」とある。被害全体では死者880あまり、潰家約4,500とされる地域推定震度畿内 京都 (5 - 6), 伏見 (6), 宇治 (5 - 6), 八幡 (5 - 6), 高槻 (5 - 6), 大坂 (5 - 6), 布施 (5), 八尾 (5), 岸和田 (5 - 6), 尼崎 (5 - 6), 加茂 (5), 奈良 (5), 大和郡山 (5), 天理 (E), 桜井 (5) 東海道 豊橋 (S), 岡崎 (4), 豊田 (5), 犬山 (4), 名古屋 (5), 桑名 (5 - 6), 亀山 (5-6), 鈴鹿 (E), 津 (5), 伊勢 (4), 上野 (5) 東山道 美麻 (E), 白鳥 (4), 海津 (5), 今津 (5 - 6), 朽木 (7), 高島 (7), 葛川 (6), 坂本 (6), 比叡山 (5), 彦根 (7), 近江八幡 (5), 野洲 (5 - 6), 水口 (5 - 6), 富川 (6), 膳所 (6), 大津 (6) 北陸道 富山 (5), 福野 (5), 門前 (E), 福井 (5), 敦賀 (6), 美浜 (6), 三方 (5), 上中 (5 - 6), 小浜 (5 - 6) 山陰道 亀岡 (5 - 6), 篠山 (5), 福知山 (5), 舞鶴 (E), 国府 (4), 伯耆 (E) 山陽道 岡山 (E) 南海道 和歌山 (5) S: 強地震 (≧4), E: 大地震 (≧4), M: 中地震 (2 - 3), e: 地震 (≦3) マグニチュード河角廣によりMK = 5.5として M = 7.6 (M = 4.85 + 0.5 MK)と推定され、7 1/4 - 7.6、あるいは7.4、M 7.5あるいはそれより上とも推定されているが、地震計記録のない歴史地震であるためその数値不確定性を含む。 『続史愚抄』には「此後連々昼夜揺動、至七月云」とあり、また余震思われる地震12月まで記録されているという。

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地震の記録

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豊予海峡地震」の記事における「地震の記録」の解説

本地に関する古記録東海地震および南海地震と共に記されている。 伊予吉田(『赤松家文書』)、宇和島(『地震海溢記』)、豊後佐伯(『御用日記』)、延岡『日記』)、および豊前小倉(『鈴木大雑集』)では、五日地震よりも一層烈しいものであった記録されている。 南海地震中国の上郊外嘉定付近でも有感であったとされるが、これを記述した史料である『中国地震歴史資料彙編』には、12月26日上海において「辰刻地大震」とも記録され震央距離約1000kmにおいて本地震の揺れ南海地震より強く感じられたことが示唆される。 この地震では津波無かったとされており、宇和島では潮は平常相変らず記録されているが(『大控』)、佐伯では「浦々高浪之趣」と記録されている(『御用日記』)。 街道推定震度畿内 大坂(e) 東海道 津(M), 伊勢(M) 東山道 馬籠(M) 北陸道 金沢(e) 山陰道 松江(M), 邑智(e), (E) 山陽道 津山(e), 勝山(e), 岡山(e), 児島(E), 福山(e), 鞆(M),広島(4), 岩国(e), 徳山(5-6) 南海道 松茂(E), 徳島(e), 多度津(E), 琴平(E), 小松(S), 今治(E), 松山(E), 大洲(5-6), 八幡浜(6), 吉田(5-6), 宇和島(E), 野村(E), 一本松(E), 高知(E), 土佐清水(5-6), 宿毛(5) 西海道 小倉(5), 芦屋(5-6), 木屋瀬(5), 久留米(E), 多久(e), 小城(e), 白石(E), 佐賀(E), 諫早(S), 柳川(e), 熊本(E), 仏原(5), 牛ヶ瀬(5), 豊野(E), 坂本(E), 人吉(E), 中津(5-6), 宇佐(5), 杵築(5-6), 日出(5), 別府(6), 大分(6), 臼杵(6), 佐伯(5-6), 高千穂(E), 椎葉(5-6), 米良(5-6), 延岡(5-6), 高鍋(E) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)

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地震の記録

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筑紫地震」の記事における「地震の記録」の解説

天武天皇7年12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国中心に大地震発生した地震の発生日は不明である。 巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れ生成し々の民家多数破壊され、また丘が崩れその上にあった家は移動した破壊されることなく家人は丘の崩壊気付かず夜明後に知り驚いたという。 『日本書紀』巻第二十九 天武天皇七年十二月是月 筑紫国大地動之。地裂広二丈。長三千余丈。百姓舍屋。毎多仆壌。是時百姓一家有岡上。当于地動夕。以岡崩処遷。然家既全、而無破壌。家人不知岡崩家避。但会明後。知以大驚焉。 また『豊後国風土記によれば馬山崩れて温泉所々噴出しそのうち1つ間欠泉であったという。戊寅年は天武天皇7年である。 五馬山(在二郡南一昔者比山有二土蜘蛛一名曰二五馬媛一。因曰二五馬山一。飛鳥浄御原宮御宇天皇御世戊寅大有地震一山崗裂崩、此山一峡崩落、温之泉処処而出。湯気熾熱炊レ飯早熟。但一処之湯其穴似レ井臼丈余無レ知二浅深一。水色如レ紺。常不レ流。聞二人之声一驚慍騰レ埿一丈余許。今謂二慍湯一是也 この地震条項十二月是月」の直前にある『日本書紀』12月27日条項には、臘子鳥(あとり)が天を覆って西から東北方向移動したとあり、宏観異常現象1つ考える説もある。 十二月癸丑己卯臘子鳥蔽天。自西南東北河角廣本地震に対し規模MK = 3.6与えマグニチュード M = 6.7に換算されている。宇佐美(2003)は M = 6.5 - 7.5 と巾を広く取っている。

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地震の記録

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寛政地震」の記事における「地震の記録」の解説

寛政年正七日午刻(昼九ツ時過)(1793年2月17日正午過頃)牡鹿半島沖に大地震発生した。 『古廟山主記録』には、大津波発生し須賀浦にて家17軒が流れ12-13人が流死したとある。『東藩史稿』には仙台藩領内で圧死12人、馬13頭、潰家1060余とある。 全体で潰家および流失家1730軒余、船の流失破損33死者44人以上とされ、相馬では余震10ヶ月上続いた記録がある。 この地震に関する古記録1904年刊行の『大日本地震史料』では『武江年表』の「寛政年正月、関東地震」1件しか収録されていなかった が、その後次第多く史料集積されるようになり、震度分布などこの地震全体像明らかになりつつある。 地域推定震度陸奥 弘前(5), 八戸(E), 雫石(5), 盛岡(4), 花巻(5-6), 宮古(E), 釜石(E), 藤沢(E), 北方早稲田(6), 登米(6), 古川(4-5), 塩釜(E), 仙台(5), 名取(5), 福島(4-5), 相馬(5), 田島(e), 矢祭(E) 羽後 鷹巣(E), 本荘(e) 羽前 鶴岡(E), 羽黒(4-5), 新庄(4) 東山道 日光(E), 諏訪(e), 東海道 笠間(4), 関城(e), 九十九里(E), 川越(S), (E), 江戸(E), 八王子(e), 生麦(e), 甲府(e), 御殿場(e) 北陸道 長岡(E), 糸魚川(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)

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