城郭都市
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城郭都市(じょうかくとし)[1][2]とは、城壁[3]で周囲を囲み堅固に防御した都市を指す 。土塁、堀なども防御施設として用いられる。
- ^ 城壁都市(じょうへきとし)、囲郭都市(いかくとし)とも呼ばれる。フランス語でville fortifiée、Cité fortifiée、ville avec rempart、英語ではwalled city、fortified city、ドイツ語でbefestigte Stadt 。
- ^ 城塞都市(じょうさいとし)と呼ぶ場合もある。ただしこの場合の城塞はcitadelの意味ではない。
- ^ 城壁は仏:fr:muraille、rempart、英:city wall、独:Stadtmauer という。
- ^ なお、ラテン語で「tra」、フランス語で「tre」と記述されているものを英語に移入する場合は、「ter」とするのが典型的なパターンである。なお、イギリスはというのはノルマン人(=フランス西岸の民族)が支配し王となっていた歴史があるので、英語はフランス語起源の語彙が非常に多い。
- ^ 東ヨーロッパの境界あたりを移動していた遊牧民・狩猟民なども攻め入ってくる可能性があり、実際ヨーロッパはそうしたことを歴史上何度も経験しており、ヨーロッパ人にとっては常に心配の種で、おまけに13世紀には遥か彼方のモンゴルのチンギス・ハンやその子らの軍が地球を半周ほどもして怒涛の勢いでヨーロッパに迫った出来事があり、攻め入った村々の住民を大人だけでなく幼児・赤子まで情け容赦なく皆殺しにしてしまう この東アジアの民族の到来にヨーロッパの人々は心底震えあがり、その恐怖は彼らの心・文化に深く刻み込まれた。
- ^ ヨーロッパの城郭都市では、門限が定められていて、その時刻になると門扉が閉じられ、翌朝までは入ることができないとりきめになっていることが一般的であった。うっかり知り合いだからと扉を開けて、それが悪人にそそのかされたりして手先となった人で、悪人たちが複数名飛び込んできたりすると、もう都市を守ることができなくなってしまうからである。商人など離れた都市に仕事で出向く生活をする者、日中に外に遊びにゆく者たちもいたが、門限には注意を払う必要があり、遅刻してしまうと内側に入れてもらうことはできず、遅刻してしまった者は、門扉の近くの城壁ぎわなどでたき火などをしつつ、(それなりの金額のお金を持っている商人などは特に心細い想いをしながら)夜をすごす必要があった。17世紀や18世紀の作家が書いた文章などには、そうした状況の描写などが盛り込まれているものも結構あり、どうやら遅刻する者は日常的にいたようで、遅刻した者同士が夜通し語りあうことでひょんな縁が生まれる様子が描かれているものもある。
- ^ クヘンディズ コトバンク
- ^ “IV. Türkiye Lisans Üstü Çalışmalar Kongresi: Bildiriler Kitabı - III”. Türkiye Lisansüstü Çalışmalar Kongresi(トルコ大学院研究会議?). 20220907閲覧。:145-153
- ^ 日本の「城」を意味する用語(英:castle、仏:château、独:Burg / Schloss など)は封建領主の居館を兼ねた軍事施設のことである。
- ^ 日本では、「城」という言葉は、城塞(citadel)に近い建築(城館)を指すことが多い。しかし、防衛施設の堀や柵や土塁を指して「城」と呼ぶ例もある。
- ^ a b 布野修司 traverse編集委員会(編)「作品としての都市:都市組織と建築」『建築学のすすめ』昭和堂 2015 ISBN 9784812215135 pp.197-198.
- ^ 赤星 1959
- ^ 赤星 1972
- ^ 「国指定史跡 名越切通」逗子市公式HP
- ^ a b 岡 2004 pp.41-64
- ^ 齋藤 2006 pp.184-185
城塞都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:34 UTC 版)
1512年のカスティーリャ王国による軍事侵攻の際、敗北したナバーラ王フアン3世はフランスへ逃亡、その後奪回はことごとく失敗してしまった。ナバーラで開催されたコルテスは、ナバーラの自治権と独自性の維持を条件に、併合を受け入れた。以後、パンプローナは名目上のナバーラ王国の首都であり続けた。パンプローナは、ピレネーの軍事防衛における鍵の役割を得たのである。市の南側は弱く、ナバーラ王ルイス1世(フランス王ルイ10世)は14世紀初頭にこの地に城を建設した。これが現在知られているカスティーリョ広場である。カスティーリャによる併合後、フェルナンド5世は1513年に、中世の城と非常に近接した場所にある新しい城の廃棄を命じた。しかし、大砲の進化が要塞化システムの完全な刷新を要求した。フェリペ2世は市南側に星型要塞の建物建設と、全ての城壁の現代化を命じた。16世紀終わりから18世紀にかけて建てられた城壁は現在も残っている。 18世紀の間、パンプローナは相当に美化され都市サービスが改善された。途切れのない上水道が完備され、その他の強化に混じって通りが舗装された。裕福な貴族と商人も自分たちの邸宅を建てた。19世紀、この要塞化都市はスペインが巻き込まれた幾多の戦争で重要な役割を担った。スペイン独立戦争では、フランス軍が1808年にパンプローナを占領し、1813年まで駐留していた。カルリスタ戦争(1833年-1839年、1872年-1876年)では、パンプローナはそのたびごとに自由主義者らに管理された。一部のナバーラの自由主義者が主にパンプローナに住んでいたからではなく、政府が支配する要塞都市だったからである。カルリスタが田舎ほどたやすく支配したけれども、政府軍はナバーラの城壁に囲まれた都市を支配するのに何の問題もなかった。それにもかかわらず、カルリスタ戦争の末期には、現代的な大砲は、古い城壁がより強い敵と対峙するのに十分でなかったことを示す、周囲の山地からカルリスタによって操作された。そして、政府はパンプローナ北3kmのサン・クリストバル山の頂上に、サン・クリストバル砦の建設を決めた。 軍事的な役割のため、市はベルトのように取り巻く城壁の外へ拡張することはできなかった。さらに、城壁に近接する一帯の建物は、攻囲軍のためどんな利益も避けるよう禁じられた。市は住宅密集地の増加によってのみ成長したのだった。高く狭い住宅が建てられ、田園地帯は次第に失われた。19世紀、道路輸送が改善され、1860年には鉄道がつながった。それにもかかわらず、パンプローナの産業はナバーラ全体と同様に産業革命の間弱々しかった。いずれにせよ、閉じこめられた要塞都市ではなんの産業の発展も実行しそうもなかった。 星型要塞のわずかな修正が1888年に6区画拡張するのが許可された後、第一次世界大戦はパンプローナの強化システムが既に廃れていたことを論証した。1915年、軍は城壁の破壊を許可し、市周囲の建物制限を廃止した。壁の南側は破壊され、その他の三方は都市の成長を妨げないよう残された。星型要塞は1964年まで軍事設備として使用され続けたが、それは兵舎としてだった。
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城塞都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:15 UTC 版)
1392年、ニジニ・ノヴゴロド公国はモスクワ大公国に屈してその一部に編入された。ニジニ・ノヴゴロド公はシュイスキーの名を得てモスクワの大貴族となり、後には全ロシアのツァーリになる者も現れた(ヴァシーリー・シュイスキー)。ヴォルガ・ブルガールを屈服させヴォルガ中流にまで勢力を伸ばしたジョチ・ウルスの将軍エディゲは、1408年にはニジニ・ノヴゴロドを攻略し焼き払った。その後再建されたニジニ・ノヴゴロドの難攻不落のクレムリン(城砦)は、カザン・ハン国の侵入に対する最強の砦となった。現在見ることのできる巨大な赤レンガのクレムリンは、1508年から1511年にかけてイタリア人ピョートルの監督により建設された。1520年と1536年にはカザン・ハン国に攻められたがこれを撃退した。ニジニ・ノヴゴロドはまた、東西交易やヴォルガ川交易でも栄えた。
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