がい‐しょう〔グワイシヤウ〕【外相】
がい‐そう〔グワイサウ〕【外相】
げ‐そう〔‐サウ〕【外相】
外務大臣
外相
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2007年5月15日、イェレミッチはセルビアの外相に就任した。政治評論家のシャシャ・ドラゴイロは、タディッチ政権における外務省の唯一の任務は、コソボをセルビアの一部として留め置き、かりにコソボが独立を宣言したとしても、ごく一部の国家承認しか取り付けることができない状況を確保することであったと述べている。国内外のセルビア人は当初、32歳のイェレミッチが有能な外相となれるのか懐疑的であった。「あなたが若く、みなあなたのことを初めてみたときには、そのほとんどはただ驚くばかりだろう。これは実際、彼らの心を開かせるという点ではよいことだ。・・・彼らはあなたの発言を聞きたいと思うだろう。あなたは変わり者なのだから」とイェレミッチは述べている。 2008年2月にコソボが一方的に独立を宣言すると、イェレミッチはその自称国家の国際共同体への統合に反対する運動を開始した。5年間の外相在任中、イェレミッチは1000回航空機を利用し、100か国以上を訪問した。イェレミッチは「世界の外相のうち、90%のことはとてもよく知っている」と述べている。2009年の1年間には、700時間(およそ29日間)以上を機内で過ごした。エコノミストは、イェレミッチ外相下のセルビア外交を「極端に強化されている」と表現している。「彼の不屈の旅は、ほとんどの国の外相を─セルビアのような小国の外相はとりわけそうだが─眠たげなのろまのようにみせる」と、同紙のレポーターは述べている。イェレミッチは、セルビアはコソボを取り返すために武力を行使するつもりはないと繰り返し言明し、セルビアはその主権と領土一体性を防衛するため、対話と外交に訴えると強調した。コソボは広範な自治のためのあらゆる権利を有するが、セルビア政府は本格的な独立はけっして認めないとも主張した。イスラエルのラウダー政治・外交・戦略学院前における演説で、イェレミッチは次のように説明した。 私たちは、コソボのアルバニア系コミュニティの支配に利害を持たない。私たちは彼らに税を課そうとも、彼らの地の治安を維持しようとも、司法や教育システムによって彼らをセルビアに再統合しようとも思わない。私たちの通貨がコソボに存在しなくとも、それでかまわない。私たちの軍隊もまた、彼らの地に駐屯していなくともよい。そして彼らは国際的な金融機関と関係を持ち、国際競技連盟に別個の会員資格を有し、海外にある種の代表を送り出しているが、私たちはそうした関係には干渉しない。 2009年、イェレミッチは国際司法裁判所 (ICJ) に対して、コソボの独立宣言に関する拘束力のない勧告的意見を求めた。2010年7月、ICJは独立宣言は合法であったと判示した。イェレミッチはこれに対して、領土紛争を解決する手段としての一方的な分離を自制するよう呼びかける決議を行うよう、国連で求めた。2010年7月末、イェレミッチはこの問題について、国連の潘基文事務総長と会談した。2010年9月、国連総会は紛争を双方の当事者で解決することを求める決議を採択し、イェレミッチはこれを歓迎した。イェレミッチは、この決議が「誠実な対話を通して達成される、セルビア人とアルバニア人の間の包括的和平協定の締結に向けた建設的な雰囲気を醸成する手がかりとなる」ことを望むと述べた。 イェレミッチの外相在任中、セルビアと近隣諸国との関係は劇的に改善した。欧州連合と米国との関係も、コソボをめぐる紛争は存在するものの改善した。2009年12月、EUはセルビアに課していたビザの制限を解除した。イェレミッチは12月19日にハンガリーに入国し、ビザなしでEUに入った初めてのセルビア市民となった。そのとき、イェレミッチのパスポートにスタンプを押したのはハンガリーのペーテル・バラージュ外相であった。イェレミッチの在任中、セルビアは旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 (ICTY) に関する義務も果たした。2008年7月、セルビア当局はボスニアのセルビア人指導者であるラドヴァン・カラジッチを逮捕した。カラジッチはICTYから戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドの容疑で起訴され、11年間にわたり潜伏を続けていた。裁判のため、カラジッチの身柄は速やかにICTYに引き渡された。イェレミッチは、カラジッチの逮捕はセルビアがEU加盟国となるために全力で取り組んでいるあらわれであると述べた。この3年後にはカラジッチの参謀総長であったラトコ・ムラディッチと、クロアチアにおけるセルビア人指導者であったゴラン・ハジッチも逮捕された。 2012年3月1日、セルビアはEUから加盟候補国の地位を与えられた。セルビアは2009年にEU加盟を申請していた。2012年5月のセルビア大統領選挙で民主党が政権から転落すると、イェレミッチも外相の職を失い、7月27日に退任した。イェレミッチの外相としての最後の訪問国はロシアで、彼はそこでロシアのセルゲイ・ラブロフ外相と会談した。
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外相
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「パオロ・ジェンティローニ」の記事における「外相」の解説
2014年10月31日、ジェンティローニは首相のレンツィから、フェデリカ・モゲリーニ(欧州連合外務・安全保障政策上級代表に転出)の後任の外相に任命された。当時、イタリアは欧州連合理事会の議長国であったため、同年12月の期間満了まで、ジェンティローニはその議長国の外相の地位にあった。 当初、ジェンティローニは政界関係者から後継候補とみられていなかった。レンツィは男女の閣僚数の均衡を保つため、女性を後任にあてようとしたとの報道もある。ジェンティローニもまた、外交の専門家として有名ではなかった。 2015年2月13日、ジェンティローニはニュース専門チャンネル Sky TG24 とのインタビューで「要請があれば、イタリアはリビアでISIL(「イスラム国」)に対して空爆を行う用意がある。イタリアから船でたった数時間のところに、活発なテロリストの脅威があることを、イタリア政府は容認できないからだ」と述べた。その翌日、ジェンティローニはイスラム国から名指しで十字軍や敵国の大臣などと非難され、脅迫を受けた。 2015年3月にはメキシコとキューバを訪問した。キューバではラウル・カストロ国家評議会議長と会談し、キューバとアメリカ合衆国の関係正常化に対するイタリアの支持を改めて表明した。 2015年7月11日には、エジプトのカイロで発生したテロ事件に関連して「イタリアは怯まない」と述べ、テロとの戦いを続ける意思を明らかにした。同日のテロ事件ではカイロのイタリア総領事館の外で自動車爆弾が爆発し、少なくとも1人が死亡、4人が負傷した。 2015年12月、ジェンティローニは内戦が続くリビアの2つの政府と国際連合、アメリカ合衆国、ロシアの代表者からなる和平会議をローマで主催した。 外相在任中、ジェンティローニは数多くのイタリア市民の拉致事件に対処した。2015年1月には、シリアのテロリストに168日間拘束されていた2名のイタリア人の解放交渉にあたった。しかし、2016年1月25日には、ケンブリッジ大学に在籍していたイタリア人学生がエジプトのカイロで拉致され、殺害された。 2016年に国際連合総会で行われた、2017年から翌年の国際連合安全保障理事会非常任理事国をめぐる選挙では、イタリアとオランダが最後の枠をめぐって争い、5回の投票を経ても決まらなかった。そのため、ジェンティローニはオランダのベルト・クンデルス外相と会談し、2年の任期を両国が折半することで合意した。
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外相
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1964年(昭和39年)の自民党総裁選は池田と佐藤栄作によって争われ、川島派は池田を支持した。総裁選は激戦となったが池田が制して3選された。池田は川島を副総裁に据え、椎名は第3次池田改造内閣の外務大臣に就任した。外相に就任した際はマスコミからは奇想天外人事と評され、本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と外相就任に難色を示していた。この人事は前尾繁三郎の強い推薦によるものであったとされる。同年9月、池田首相が喉頭がんにより入院し、10月25日に退陣が発表された。 続いて組閣された第1次佐藤内閣でも外相に留任、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉した。日韓交渉は椎名が政界に入る前の1951年(昭和26年)から断続的に行われており、請求権問題や漁業問題では大筋で合意していた。しかし、韓国内ではこのような合意に対して野党や学生により「対日屈辱外交反対」が叫ばれており、韓国の政情不安も有って交渉は度々中断された。この頃に残された両国の問題は、日韓併合条約の有効性と韓国政府の管轄権であった。日韓併合条約については日本は昭和20年の無効を主張し、韓国は当初から違法であり無効であると主張した。また、管轄権については、日本は韓国の支配領域は北緯38度以南と主張し、韓国は朝鮮半島全域を管轄する唯一の合法正当政府であると主張した。これらについて椎名は交渉相手の李東元外務部長官へ玉虫色の合意を促すことで決着を図った。また、竹島領有権問題も議題に挙げなかった。李東元は朴正煕大統領の承諾を得たうえで椎名の提案を受け入れ、これらの問題は棚上げされた。 1965年(昭和40年)2月、韓国の金浦国際空港に降り立った際に、日本の過去を「深く反省する」と声明を述べ、また当意即妙な応答でマスメディアを通じて韓国世論の沈静化に寄与し、日韓基本条約の仮調印に漕ぎ着けた。日本では椎名の訪韓に先立って、椎名に対する不信任決議案が日本社会党や民主社会党の議員から提出されていた。提出理由はこの訪韓は佐藤内閣が言明していた懸案の一括解決に反し、また、出発前の国会審議において訪韓の目的を説明せず、日本国憲法第73条違反にあたるなどとするものであったが、椎名の帰国後に決議案は否決された。椎名は請求権問題で未決定だった1億ドル以上とされた民間協力の規模を3億ドル、また漁業協力について4000万ドルと金額を定めた。4月3日、日韓両国外相は東京で請求権、漁業、在日韓国人の法的地位についての協定に仮調印した。3協定の仮調印後、日韓両国では野党や学生による反対が相次いだが、6月22日に東京で日韓基本条約及び関連協定が両国外相により正式に調印された。日韓の新聞各社は妥結内容に対する不満をそれぞれ社説に掲載した。 条約の批准を巡る、いわゆる「日韓国会」では日本社会党や日本共産党などの左派政党が「朴政権は米国の傀儡」として強硬に反対していた。椎名は締結の責任者として答弁に立ったが、椎名の曖昧な答弁姿勢は批判された。11月9日、椎名に対する不信任決議案が再び提出された。提出理由は日韓両国で全く意見の一致をみない重要事項について国民に秘匿して調印を行い、アメリカ追従の外交に終始することで日本の国民的利益とアジアの平和に対して重大な障害を与え、無責任で不真面目な国会答弁をしたとされた。この不信任決議案の採決に先立って中野四郎らから答弁時間の制限を設ける動議が提出され可決された。議長の船田中は不信任決議案提出者の楢崎弥之助、西村関一、帆足計、穂積七郎、松本七郎の趣旨弁明や通告されていた質疑を制限時間超過を理由として再三中止させ、投票は翌日に延会された。翌10日、椎名に対する決議案は25票差で否決され、12日に与党による強行採決によって日韓基本条約と諸協定は衆議院で可決された。続いて参議院でも与党の強行採決により12月11日に可決され、波乱の国会は幕を閉じた。12月18日にソウルで日韓条約批准書交換式が椎名と李によって執り行われ、日韓の国交が正式に結ばれた。 外相時代は、過去の日韓関係に関して社会党の戸叶里子議員から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「しみじみと反省している、という意味でございます」と答弁したり、日米安保条約についての見解を問われた際に、「アメリカは日本の番犬であります」と発言し、野党議員から「大臣、そんなことを言っていいのか」と発言の訂正を促されると「番犬さまでございます」と表現した。こうしたおとぼけ・ユーモアは、本人の落語好きに由縁している。また吉田書簡問題では、この外交政策に関わった書簡を私信と位置付けて公表に反対し続けた。この様な椎名の所作により、椎名を名外相と評価する立場からも、「ものぐさ椎名」と揶揄されている。1966年(昭和41年)1月には外相としては戦後初となるソ連へ訪問し、アレクセイ・コスイギン首相やアンドレイ・グロムイコ外相と会談の末、日ソ航空協定、日ソ貿易協定に調印した。
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外相
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「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「外相」の解説
1856年4月27日、皇帝アレクサンドル2世により外務大臣に任じられた。以降25年にわたってロシア外相としてロシア外交を主導した。
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「モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ」の記事における「外相」の解説
2013年7月23日、ハサン・ロウハーニー次期大統領(当時)が外相にザリーフを選任したとの報道が流れた。その後、8月4日にロウハーニーが国会にザリーフを正式に推薦したことで、初めてこの報道が裏付けられた。この人事は国会で承認され、ザリーフはアリー・アクバル・サーレヒーの後任の外相となった。 外相としてザリーフは、イランの核開発問題に関する6か国協議(P5プラス1)を主導した。その結果、2015年7月14日に包括的共同作業計画が採択され、2016年1月16日にはイランへの経済制裁が解除された。 2016年、イランがアメリカ兵10人を拘束した際には、アメリカのケリー国務長官と解放に向けホットラインで会談を行い、短時間で問題を終結させた。 2017年8月5日に発足した第2次ロウハーニー政権でも引き続き外相を務める人事案が国会に提示され留任した。 2018年5月、アメリカのイラン核合意離脱を受け、中華人民共和国に始まる核合意当事国を歴訪するなど対応に追われた。アメリカによる経済制裁が再開されたことでイラン経済は苦境に陥り、核合意は失敗であったとして合意を主導したザリーフの外相辞任要求が議会から噴出し、2019年2月25日、外相を辞任する意向を表明したが、翌26日にロウハーニー大統領が辞任を却下。27日にザリーフも辞意を撤回した。 2019年5月15日-17日、日本を訪問。安倍晋三首相、河野太郎外相らと会談を行った。 2019年6月13日、イランの最高指導者アリー・ハーメネイー師と安倍首相が会談してるさなかで起きたホルムズ海峡近くでの日本のタンカーへの攻撃に懸念を表明して対話を訴えた。14日、アメリカがイランの犯行として非難していることに対しては自らが度々主張している「Bチーム」(イランに敵対的なアメリカのジョン・ボルトン補佐官、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相、サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子のこと)によるものと述べた。20日、イスラム革命防衛隊が米軍の無人偵察機を撃墜した際はアメリカによる領空侵犯を主張した。 2019年8月、アメリカの経済制裁対象に指定され、ホワイトハウスからの招待を自らが断ったことを明かした。
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外相
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2009年3月4日、アブドゥル・ラフマン・シャルガムの後任として全国人民会議(議会に相当)によって、外相に当たる対外連絡・国際協力書記に指名された。 2009年4月、リビアの首都トリポリで開催されたアラブ・マグレブ連合(リビア、アルジェリア、モロッコ、 モーリタニア、チュニジアが加盟)理事会を主催した。 2009年11月10日、アッ・シャルク・アル・アウサト紙のインタビューで、中国のアフリカ投資に対して激しく批判した。中国がアフリカに多数の労働者を送り込むなど、「アフリカを半分占領しているようなものだ」と強い警戒感を表明し、中国の振る舞いについて「アフリカ大陸における過去の植民地主義を想起させる」と指摘した。また、対アフリカ支援は、リビアが議長国を務めるアフリカ連合(AU)を通じて行うべきだと強調した。
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外相
「外相」の例文・使い方・用例・文例
- 外相はベトナムを公式訪問する予定だ
- 田中前外相の更迭に続く政治混乱がその象徴である。
- 日本の外相のためにレセプションが開かれた。
- 外相は、戦争は避けられないと言った。
- 外相は首相が兼任する.
- 宮沢外相は国連総会に出席するため昨日成田を飛び立った.
- 外相主催の舞踏会がある
- 外相は本日仏国大使を引見せり
- 内外相応じて事を謀った
- 天長節の当夜は外相主催の舞踏会がある
- イギリスにおける,閣外相という立場
- イギリスにおける,閣外相という立場の人
- 日ソ外相定期協議という,2国間の協議会
- 台風シーズンの前に引き揚げ作業を始めるために,小泉純一郎首相が川口順(より)子(こ)外相に対して,できるだけはやく中国との合意に達するよう指示していた。
- 田中前外相が議員辞職
- 8月9日,田中真紀子前外相が国会議員を辞職した。
- 会合の中で町(まち)村(むら)信(のぶ)孝(たか)外相は,国連安全保障理事会(安保理)は21世紀の現実を反映するように改革されるべきだと力説した。
- 安倍官房長官,谷(たに)垣(がき)禎(さだ)一(かず)財務相,麻生(あそう)太郎外相がその職に立候補していた。
- パン氏(62)は現在,韓国の外相だ。
- 3日間の日本滞在中,クリントン長官は麻生(あそう)太郎首相や中(なか)曽(そ)根(ね)弘(ひろ)文(ふみ)外相,小沢一郎民主党代表と会談した。
外相と同じ種類の言葉
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