多彩な活動と社会的影響
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「社会政策学会 (日本 1897年)」の記事における「多彩な活動と社会的影響」の解説
会は単なる学術研究団体の枠にとどまることなく、1898年10月の工場法制定をすすめる講演会を端緒として啓発活動を積極的に展開、社会政策の必要を求める世論の喚起を図った。これに加え時々の重要な社会・経済問題について特別委員会を設置して問題の解明にあたり、1907年には「工場法」を討議題目として第1回の大会を開催した。この大会では、従来実業界で工場法反対の急先鋒であった渋沢栄一を来賓として招き、工場法に賛成する演説を行っている。大会は以後毎年公開で開催され、工場法制定問題のみならず多くの社会問題を論題として設定し活発な討論を繰り広げた。既存の『国家学会雑誌』(1887年創刊)や、1906年、東京高商の教官を中心に創刊された『国民経済雑誌』は、大会記事や会員による研究論文などを掲載するなど、この学会の事実上の機関誌としての役割を果たした。 学会はまた、さまざまな政策提言も行った。特に発足当初よりの課題として取り組んできた工場法の制定については、3回にわたり政府による法案の諮問に答申する形で、同法の制定(1911年)と実施(1916年)に大きく貢献した(1909年・1910年・1916年)。なかでも3回目の答申は、制定されたまま実施が見送られていた同法の実施令制定に先立ち、わが国最初の近代的な労働災害補償制度を提言したものである。工場法以外にもまた、学会は労働局設置問題・足尾鉱毒問題などに積極的な取り組みを見せ、1922年には貴族院に上程された「過激思想取締法案」(のち治安維持法へと発展した)に対し、学会として反対決議を声明している。 工場法制定の講演会開催のころから、学者・研究者のみならず社会問題に関心を持つ進歩的な実業家・官吏、さらに労働運動家など官民の枠を超えて入会が増加したこともあって、会の社会的影響力・名声は次第に高まり「教授議会」「学界登竜門」(住谷悦治)などと称されるようになった。当時の日本には全国的な政治学・経済学の学会が存在していなかった事情も手伝い、社会政策学会は全国から参加者を集めて、発足当初の1898年には約20名であった会員数も、1902年には68名、1909年には122名、1922年には236名に達し、社会科学諸分野を総合する一大学会の様相を呈するに至った。
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