とう‐の‐みね〔たふ‐〕【多武峰】
とうのみね 【多武峰】
多武峰
多武峰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:32 UTC 版)
多武峯寺(現在の談山神社)は、寺伝によると藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和の地に移し、十三重塔を造立したのが発祥と伝えられる。以後、講堂(現在の拝殿)、祠堂(現在の本殿)が建立され聖霊院と号した。その後、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げたが、平安時代に天台僧の増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えなかった。(詳しくは談山神社を参照)。吉野郡とは、龍門岳(または音羽三山)から西へと伸びる稜線を北に越えた位置にあり、細峠(現在の奈良県道37号線、鹿路トンネル付近)または竜在峠を通じて結ばれていた。 多武峯寺は上記の理由で興福寺と争っていたが、金峯山寺との間でも争いがあり、1208年(承元2年)に金峯山衆徒が多武峰寺を襲い、堂舎僧坊を焼き払い鎌足の御影像まで焼失したという(『猪隈関白日記』)。
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