大西洋横断
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「サヴァンナ (蒸気船)」の記事における「大西洋横断」の解説
5月22日、蒸気船サヴァンナはサバンナ港から出航し、数時間以内にタイビー灯台に寄港した。そして、5月24日午前5時、帆走と外輪航行を併用したサヴァンナはイングランドのリヴァプールを目指して出航した。同日午前8時には外輪を格納し、帆走のみに移行した。29日にはスクーナー船コントラクトがサヴァンナとすれ違った。サヴァンナから煙が上がっているのを見て船長は火事を疑い、様子を伺うために数時間追跡したが、結局見失ってしまった。その後、コントラクトの船長は煙を上げていた船が大西洋横断航海中の蒸気船であると結論づけ、「ヤンキーの技術と冒険心による誇らしい瞬間である」と称賛を表した。 6月2日に帆船プルートとすれ違った際、航行速度は9ノットから10ノットに達していた。船長ロジャースからサヴァンナの航海が順調であることを知らされ、プルートの乗員は万歳三唱をした。その後18日までは他の船とすれ違った記録はなく、19日にアイルランド沖で英国軍のカッター船カイトとすれ違った。カイトの乗員もまた3週間前のコントラクトと同様にサヴァンナが火事であると考えて数時間に渡って追跡した。しかし、サヴァンナに追い付けなかったため、カイトは警告砲撃まで実施し、船長ロジャースはサヴァンナを停止させた。その後、カイトが追いついて臨検の許可をロジャースに求め、その許可が下りた。イギリスの船員たちは臨検により、好奇心が満足したと述べた。 サヴァンナの燃料が尽きたために18日時点ではコークへの寄港が熱弁されていたが、結局6月20日にリヴァプールへ到着した。到着した際には数百隻の船がこの珍しい船を見ようと出てきた。その中には英軍のスループ型軍艦の姿もあり、ある士官が甲板に居合わせた航海長のスティーブン・ロジャースに呼びかけた。後日、コネチカット州のニューロンドン・ガゼット紙がその様子を以下のように伝えている。 士官がロジャースに「マスター(商船の船長)はどこにいますか?」と尋ねたのに対し、彼は「マスターはいません」と簡潔に答えた。「では、キャプテン(軍艦の船長)はどこにいますか?」「彼は下にいます。会いたいですか?」「ええ」。呼ばれて出てきた船長が用件を訊くと、士官は「なぜそのような旗を掲げているのですか?」と尋ねた。船長は「私の国が認めているからです」と答える。「我々の指揮官は、彼を侮辱するためになされたものだと考えています。もし旗を降ろさなければ、そうさせるための部隊を派遣するでしょう」。するとロジャース船長は機関士に向かって「温水機関の準備をしろ」と叫んだ。そのような機械は搭載されていなかったにもかかわらず、狙ったとおりの効果があり、ジョン・ブルはおのずからできるだけ速く漕ぎ去って行った。 リヴァプールに近づくにつれ、サヴァンナは埠頭や家の屋根の上に押し寄せた群衆から歓迎を受けた。午後6時にいかりを降ろし、29日と11時間の航海は終了した。なおこの航海の中で蒸気機関を使用したのは全体の11%にあたる合計80時間であった。
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大西洋横断(1969-1970)
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「トール・ヘイエルダール」の記事における「大西洋横断(1969-1970)」の解説
1969年、「アステカ文明はエジプト文明と類似しており、エジプトからの移民が作った文明ではないか」と考え、古代エジプトの葦船に大西洋を渡る能力があることを証明しようとした。このため、古代エジプトの図面と模型に基づいて設計され、エチオピアのタナ湖産のパピルス葦を使ってチャド湖から招請した船大工と建造した船「ラー号(ノルウェー語版)」で、ヘイエルダールを含めた7人の乗組員でモロッコのサフィからカリブ海を目指した。数週間の航海の末にラーは浸水しており、設計ミス(エジプトの技術の中の重要な要素を見落としていた)が判明した。ラー号は6000km以上を航海して残り数百kmまで来ていたが、最終的にはバラバラになった。乗組員は救出された。 翌年の1970年、今度はボリビアのチチカカ湖から招いた船大工の手によって「ラー2号(ノルウェー語版)」が建造された。ラー2号もパピルス製で、同年5月にモロッコから出発したが、今回はカリブ海のバルバドス島まで到達した。これによって、カナリア海流に乗って航海することで大西洋横断が可能なことを立証した。ラー2号は現在、ノルウェーのオスロにあるコンティキ号博物館にある。 なお、この時の航海には日本人カメラマンも同行した。実験航海の主要な側面とは別に、ヘイエルダールは、少なくとも自分たちの小さな浮島で人々が協力して平和に暮らせることを実証するために、人種、国籍、宗教、政治的視点の多様性を表す乗組員を慎重に選んだ。さらに、航海中に海洋汚染のサンプルを採取し、その報告を国連に提出した。
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