天草架橋の実現のための道のり
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「森国久」の記事における「天草架橋の実現のための道のり」の解説
天草と九州本土の間に橋を架けるという構想は戦前、何度も持ち上がっていた。井上重利『略史 天草の歴史五十年』(みくに社)によると「大正年間」であるが「これは全くの夢に終わった」とある。 この天草島のおくれをとりもどす根本的な方法は、本土と陸つなぎにして、離島でなくすることが必要で、昭和の初期にいだかれた『天草島と本土を橋で結び、本土なみに発展させたい』という先覚者の夢は、時を追って現実化し、昭和29年から『天草架橋』として具体的に調査が進められ、31年には日本道路公団が発足したので、公団にお願いしてさらに調査を進めた結果、ここに地元島民の熱意が実を結び、今年から着工することになったのである。天草上島と下島の間の本渡瀬戸に橋が架り、この二つの島が一つになったのは大正末期であるが、そのころからいっそのこと天草島を宇土半島に結びつけたらと考えられていた。 さらに、昭和7年、たまたま県議会で各地の雄大な開発着想が話題になったとき、『本土ー天草問の架橋』が提唱されて架橋の端緒となったのである。 その後、当時の関門鉄道トンネルエ事に刺激されて、昭和11年11月の県会で、一議員が『三角から大矢野島に橋を架け、大矢野島と天草上島を優秀な連絡船で結び、天草を九州本土に直結し、島内幹線道路を整備して、交通の開発をはかれば、20万郡民が他の地方と同じ文化の恵沢に浴することができる。』という発言もされたが、その頃としては、技術的にも資金的にも問題が大きく、まだまだ“夢のかけ橋”の域を出なかった — 「天草架橋:3.これまでのいきさつ 端緒」『熊本県広報』1962年2月,p.15 しかし離島振興法の指定を受ける動きの中で天草架橋実現の機運が高まる。1954年(昭和29年)12月「天草架橋期成会設立総会」が開かれる。会長は熊本県知事の桜井三郎で、森は市町村代表の一人として加わる。 「瀬戸開鑿」と「天草架橋」の問題は離島天草が初まって以来の最大且根本的な課題として二十四万郡市民の心を揺り動かしている。離島振興は天草が離島でなくなることが最終目的であるとすれば天草架橋の解決はその最終目的をー挙に解決せんとすることになる。従来天草の諸問題はややともすればいわゆる政治家達が或いは行政官庁など一部の者の問題として郡市民の関知せざるところであったが、こんどこそ24万郡市民のものとして解決しなくてはならない。事業費15億という金は並み大抵のものではないけれども国の予算1兆円に比ぶれば1厘5毛にすぎない」 — 森国久、「島民のものとして」天草民報1955年1月1日 1955年(昭和30年)3月、天草全島民との一体的運動として「島民一人一円献金」の運動を提案し実行した。全国離島振興協議会の事務局長を務めた、民俗学者の宮本常一はかつて天草へより多くの国の補助を求める森と論争したが、その際に宮本が出した意見をヒントにしたこの運動を評価し、森の没後の1962年におこなった講演で以下のように述べた。 私は天草架橋には大きな関心を持っている。昭和二九年(一九五四)の理事会で天草の森副会長さんが、天草は貧しいから特に多くの国の補助を仰がねばならないといった。私はそのいい方が納得できなかったので二人で大論戦したことがある。その時、私は恩師の渋沢敬三先生が南方同胞援護会の会長をしていた関係から、沖縄における戦災の復旧資金を全国小中学校の生徒の寄付にまち、それが動機で、進駐軍が立派な校舎を建てた話をした。森さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋を計画した。その金が起工式の時に1200万円集まったと聞いた。献金するとき、島民はこの金は橋を架けるための金だというはっきりした目的を持って出す。一人一人頭の中に橋をかけなければならぬという意識を植え付けることになる。この熱意が政府を動かした原動力であったと思う。これがほんとうの島の自主性だ。今や離島は全国的に手を結び、もっともっと団結を強固にしなくてはいけない時だ」 — 宮本常一、第8回全国離島青年会議講演「青年推進員の役割と使命について」(1962年11月2日) 同時に、平地が少なく陸路に恵まれない天草の地では「架橋は道路網の拡充なくして袋小路となる」と、島内道路網整備の必要性を説いた。 「天草郡市民の皆様新年おめでとうございます。ここに一九六〇年の新春を迎え将来の天草発展の構想の一端を述べてみますと先ず何といいましても天草発展の基礎をなすものは天草架橋であると思います。架橋が三十六年度に着工し三十八年度に完成した暁には天草各地から中心の本渡に全部二時間で集まれます。また道路網(池の浦―本渡線、帯取線、富岡―崎津港線、蛤線等)は三七年度に全部開通します。天草に渡る本土の足も天草架橋、口ノ津―鬼池線、富岡―茂木線、牛深―長島線、龍ヶ岳―田ノ浦線、八代―姫戸線等にフェリーボートが通り、鹿児島、熊本、長崎各地との交通は大変便利になります。天草は正に一市となるわけであり、二十四万の人口を有する天草市の誕生も決して夢ではありますまい。産業も文化も一体にならぬと天草の発展は期せられず、各市町村一致して農業、文化、観光の発展に邁進せねばなりません。天草の経済は将来北九州の工業地帯と直結し大矢野の花卉、各地の抑制栽培農業等は直接北九州へ出荷され、牛深の魚も熊本発の一番機で北九州へ移出され、鮮度が高ければそれだけ価格も上昇します。結論として天草は一市であり、今後天草島民一丸となって島民所得の向上を目指すべきだと思います — 森国久、「交通第一」みくに新聞、1960年1月1日 「吉見教英先生お変わりありませんか。天草国立公園の産みの親である下村海南先生が逝かれて、満三ヶ年になります。又郷土天草が待望の国立公園に指定されてから早くも4年になります。真に感慨新たなものがあられましょう。吉見先生、先生を始め天草全島民が寝ても覚めても、その実現を待っている『天草架橋』の実現も、時の問題となりました。当初、五百万円の調査費でしたが、本年中に尚五百万円を追加し、一切の調査を35年度中に終わろうとしています。 一方、橋に関連する道路も、34年度から着手し、37年度に完了する事となりました。郡市民の夢はここに、その緒についたと云えましょう。 吉見先生、天草の観光も遅まきながら、この『天草架橋』実現によって、大きくしかも、着実に天下の天草となることも遠くはないでしょう。しかも天草の『池の浦―本渡線』『富岡―崎津線』、帯取線、西高根線、蛤線等これらの環状線道路もようやく36年度で完成しようとしておりますが、『観光』すなわち『道路』の目標にはまだまだ遠い現状でございます。 吉見先生、私はこの道路の整備に、今後、天草島民は元より、県も国も重点的にその整備を図り、天草の36年度以降の重要課題とせねばならないと思います。 ここに島民の幹線道路をあげますと、『本渡―大浦線25キロ』『本渡―牛深線48キロ』『本渡―富岡線32キロ』『富岡―下田線13キロ』『下田―本渡線28キロ』『池の浦―三角線47キロ』『本渡―栖本経由合津線65キロ』計278キロで、これを舗装する工事費は17億5400万円の費用が必要であります。17億の予算は莫大ではございますが、地元市町村、県、国が一体となり、道路舗装10ヶ年計画を立てまして、これを完成するのはそう至難ではないと思います。天草郡市はひとつになり、各市町村が共にその運動を展開する事が急務ではないかと思います。 吉見先生、国立公園ー天草架橋―舗装道路が出来ますと、天草の観光が名実共に世界的となる事でしょう。その時こそ天草は、観光、産業の大恩恵を受けるのでしょう。 私はここに道路舗装10ヶ年計画を、より早く計画するために、天草道路舗装公社と云う公社をつくり、10ヶ年計画を5ヶ年にして実現したいものであります — 森国久、「舗装道路10年計画」みくに新聞、1961年1月1日 天草振興協議会会長として、熊本県知事との連名で天草を代表し、建設省や日本道路公団への陳情を重ねた。年数回開催される全国離島振興協議会の会議及び離島振興対策審議会の中央における動きに併せ、天草架橋実現の陳情も兼ねて度々上京した。陳情書の一つには以下のように記されている。 天草架橋の計画は永年に亘る島民の念願でありましたが、幸にも関係各方面のご理解とご援助のもとに愈々本格的調査を実施していただく事になりましたことは、誠に感謝に耐えない所でありまして、茲に厚く御礼申上げる次第で御座います。この本格的調査は、やがて近々着工を約束されたものと確信し、今や二十四万島民の架橋実現への熱意は極めて大きなものがありますので、この際更に左記に関し関係御当局に於いてご検討をいただき早急に御解決賜りますよう重ねて御願い申し上げます。 記 一、昭和三十四年度調査費2000万円計上方を要望する。 二、昭和三十四年度調査を完了し、昭和三十五年度着工を要望する。 三、建設省の公共事業費は、離島振興事業費の枠外に於いて計上方を要望する。 四、連絡道路の一部を本年度救農土木事業として実施方を要望する。 五、昭和三十四年四月一日より、架橋調査事務所の設置方を要望する。 右の通りで御座いますので、何卒特別の御詮議をもって御採択の上宜しくお取計賜りますよう天草二十四万島民を代表して茲に陳情いたします。 昭和三十三年十一月二十一日 天草架橋期成会長 桜井三郎 天草振興協議会長 森国久 — 1958年11月21日建設省等への陳情書 内閣離島振興対策審議会における、各省の事務次官との交渉は天草架橋実現に力となった。その中には、鈴木俊一(のちに東京都知事)、小林与三次(のちに日本テレビ放送網社長)、平井富三郎(のちに新日本製鐵社長)、石破二朗(のちに鳥取県知事)、小野吉郎(のちに日本放送協会会長)、森永貞一郎(のちに日本銀行総裁)、荒木茂久二(のちに帝都高速度交通営団総裁)などがいた。 この間、島内の各種組織、協会等を統合して1956年(昭和31年)7月、「天草振興協議会」を設立し会長となる。天草郡町村会長、天草振興協議会会長、架橋期成会副会長、天草郡観光協会会長、その他離島振興関係の要職を兼務した。 1961年(昭和36年)5月、1959年から就任した知事の寺本広作とともに天草架橋の陳情で上京し、事業着手を確実なものとした。ひと月後の6月に出張中に倒れ、同月26日逝去。没年の1月に新聞に寄稿した挨拶文には以下のような内容が綴られている。 昭和36年も忙しい年になりそうです。六日、七日と本年度の離島予算の最後の折衝のため五日に上京、引き続き問題の「天草架橋」で滞在、九日には寺本知事を初め地元県議、中央世話人と合同会議を開き、公団の二億要求-本年度着エの旗の下に、その実現を期する”勝負”万潮時が来たと思います。そして十日、十一日は全国町村長大会です。選挙に臨むこと三回-二十六年から十年になります。一日も無駄なく懸命であったつもりですけれど、思い半ばです。私はいつも思います。「政治の心」は、その住民の生活がーより豊かに―より安全に―さらに―いついつまでも、変わらないで安心して暮らせることにあると、・・・・。 今日ほど差のひどい時代はない様な気がします。都会と田舎の差、なかなかおい追いつけない地域の差、所得の格差、そして暮らしの差。どうすれば「その差」を縮めることが出来るかが、身近に迫る今日の課題ではないでしょうか。 「天草架橋」を一日も早く実現することも大きな解決の一つ、と思います。 離島振興法は後二年で終ります。これを延長することは、もちろんですが、私たちはこの際、住民の血となり肉となる「産業振興計画」を急がねばならない気が致します。私たちの町でも、新春早々この問題と取り組み「五カ年計画」を実施するため各界人を集め、常置機関として、その計画を検討するように致しております。 中学の整備を急ぐのも大事ですが、その後に来る高校進学も大きな問題となります。実業高校を天草に実現したいのは天草人の願いでもあります。その場所が問題をはらむのでは、と今から心配されます。少なくども考えを統一して、大局につかねばなりますまい。 ー月一日から龍ヶ岳町は“福祉三法”(条例)を実施しました。産業、文化の振興を図れば図るほど・・・所得倍増計画の時代であればあるほど・・・脱落者を心配することをわすれてはならないと思います。暗い谷間を明るくする社会福祉。満足ではありませんが「底辺の線のささえ」になればと思う気持ちのあらわれです。元日に当たり“けいけん”な気持でー杯です。とまれ、現実を踏まえながら、理想を持ち、夢を追い、龍ヶ岳町を愛し、そして、郷土天草の発展を希うことの思いを深く致します — 森国久、「昭和36年ことしの展望 ことしの天草も多忙」天草民報1961年1月8日
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