天草架橋の実現のための道のりとは? わかりやすく解説

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天草架橋の実現のための道のり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 16:01 UTC 版)

森国久」の記事における「天草架橋の実現のための道のり」の解説

天草九州本土の間に橋を架けるという構想戦前何度も持ち上がっていた。井上重利略史 天草歴史五十年』(みくに社)によると「大正年間」であるが「これは全くの夢に終わった」とある。 この天草島のおくれをとりもどす根本的な方法は、本土と陸つなぎにして、離島なくすることが必要で、昭和初期にいだかれた『天草島本土で結び、本土なみに発展させたい』という先覚者の夢は、時を追って現実化し昭和29年から『天草架橋』として具体的に調査進められ31年には日本道路公団発足したので、公団お願いしてさらに調査進めた結果、ここに地元島民熱意実を結び今年から着工することになったのである天草上島下島間の本渡瀬戸にり、この二つの島が一つになったのは大正末期であるが、そのころからいっそのこと天草島宇土半島に結びつけたらと考えられていた。 さらに、昭和7年、たまたま県議会各地雄大な開発着想話題になったとき、『本土天草問の架橋』が提唱され架橋端緒となったのであるその後当時関門鉄道トンネルエ事に刺激されて、昭和11年11月県会で、一議員が『三角から大矢野島け、大矢野島天草上島優秀な連絡船で結び、天草九州本土直結し島内幹線道路整備して交通開発をはかれば、20郡民他の地方と同じ文化恵沢浴することができる。』という発言もされたが、その頃としては、技術的に資金的に問題大きくまだまだ夢のかけ橋”の域を出なかった — 「天草架橋:3.これまでのいきさつ 端緒」『熊本県広報1962年2月,p.15 しかし離島振興法指定を受ける動きの中で天草架橋実現機運が高まる。1954年昭和29年12月天草架橋期成設立総会」が開かれる会長熊本県知事桜井三郎で、市町村代表の一人として加わる。 「瀬戸開鑿」と「天草架橋」の問題離島天草が初まって以来最大根本的な課題として二十四万郡市民の心を揺り動かしている。離島振興天草離島でなくなることが最終目的であるとすれば天草架橋解決はその最終目的をー挙に解決せんとすることになる。従来天草諸問題ややともすればいわゆる政治家達が或いは行政官庁など一部の者の問題として郡市民の関知せざるところであったが、こんどこそ24郡市民のものとして解決しなくてはならない事業費15億という金は並み大抵のものではないけれども国の予算1兆円に比ぶれば1厘5毛にすぎない」 — 森国久、「島民のものとして」天草民報1955年1月1日 1955年昭和30年3月天草全島民との一体的運動として「島民一人一円献金」の運動提案し実行した全国離島振興協議会事務局長務めた民俗学者宮本常一はかつて天草へより多くの国の補助求め論争したが、その際宮本出した意見ヒントにしたこの運動評価し没後1962年おこなった講演で以下のように述べた。 私は天草架橋には大きな関心持っている昭和二九年(一九五四)の理事会天草副会長さんが、天草貧しいから特に多くの国の補助を仰がねばならないといった。私はそのいい方が納得できなかったので二人で論戦したことがある。その時、私は恩師渋沢敬三先生南方同胞援護会会長をしていた関係から、沖縄における戦災復旧資金全国小中学校の生徒寄付にまち、それが動機で、進駐軍立派な校舎建てた話をした。森さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋計画した。その金が起工式時に1200万円集まった聞いた献金するとき、島民はこの金は橋を架けるための金だというはっきりした目的持って出す。一人一人頭の中にをかけなければならぬという意識植え付けることになる。この熱意政府動かした原動力であったと思う。これがほんとうの島の自主性だ。今や離島全国的に手を結びもっともっと団結強固になくてはいけない時だ」 — 宮本常一第8回全国離島青年会講演青年推進員の役割使命について」(1962年11月2日同時に平地少なく陸路恵まれない天草の地では「架橋道路網の拡充なくして袋小路となる」と、島内道路整備必要性説いた。 「天草郡市民皆様新年おめでとうございます。ここに一九六〇年の新春迎え将来天草発展構想一端述べてみますと先ず何といいましても天草発展基礎をなすものは天草架橋であると思います架橋三十六年度に着工し三十八年度に完成した暁には天草各地から中心本渡全部二時間で集まれます。また道路網(池の浦本渡線、帯取線、富岡―崎津港線、線等)は三七年度に全部開通します。天草に渡る本土の足も天草架橋、口ノ津―鬼池線、富岡茂木線、牛深長島線、龍ヶ岳田ノ浦線、八代―姫戸線等にフェリーボート通り鹿児島熊本長崎各地との交通は大変便利になります天草正に一市となるわけであり、二十四万人口有する天草市誕生決して夢ではありますまい。産業文化一体にならぬと天草発展期せられず、各市町村一致して農業文化観光発展邁進せねばなりません。天草経済将来北九州工業地帯直結し大矢野の花卉、各地抑制栽培農業等は直接北九州出荷され牛深熊本発の一番機で北九州移出され、鮮度高ければそれだけ価格上昇します結論として天草は一市であり、今後天草島一丸となって島民所得の向上を目指すべきだと思います — 森国久、「交通第一」みくに新聞1960年1月1日吉見教英先生お変わりありませんか天草国立公園産みの親である下村海南先生が逝かれて、満三ヶ年なります。又郷土天草待望国立公園指定されてから早くも4年なります真に感慨新たなものがあられましょう吉見先生先生始め天草全島民が寝ても覚めてもその実現を待っている天草架橋』の実現も、時の問題となりました当初五百万円の調査費でしたが、本年中に五百万円を追加し一切調査35年中に終わろうとしています。 一方関連する道路も、34年度から着手し37年度に完了する事となりました郡市民の夢はここに、その緒についたと云えましょう吉見先生天草観光遅まきながら、この『天草架橋実現によって、大きくしかも、着実に天下天草となることも遠くはないでしょう。しかも天草の『池の浦本渡線』『富岡―崎津線』、帯取線、西高根線線等これらの環状線道路もようやく36年度で完成しようとしておりますが、『観光』すなわち『道路』の目標にはまだまだ遠い現状でございます吉見先生、私はこの道路の整備に、今後天草島民は元より、県も国も重点的にその整備図り天草36年以降重要課題せねばならない思います。 ここに島民幹線道路あげますと、『本渡大浦25キロ』『本渡牛深48キロ』『本渡富岡線32キロ』『富岡下田13キロ』『下田本渡28キロ』『池の浦三角線47キロ』『本渡本経由合津線65キロ』計278キロで、これを舗装する工事費17億5400万円費用が必要であります17億の予算莫大ではございますが、地元市町村、県、国が一体となり、道路舗装10ヶ年計画立てまして、これを完成するのはそう至難ではないと思います天草郡市はひとつになり、各市町村が共にその運動展開する事が急務ではないか思います吉見先生国立公園天草架橋舗装道路出来ますと、天草観光名実共に世界的となる事でしょうその時こそ天草は、観光産業大恩恵を受けるのでしょう。 私はここに道路舗装10ヶ年計画を、より早く計画するために、天草道路舗装公社云う公社をつくり、10ヶ年計画を5ヶ年にして実現したいものであります — 森国久、「舗装道路10年計画」みくに新聞1961年1月1日 天草振興協議会会長として熊本県知事との連名天草代表し建設省日本道路公団への陳情重ねた年数開催される全国離島振興協議会会議及び離島振興対策審議会中央における動き併せ天草架橋実現陳情兼ねて度々上京した陳情書一つには以下のように記されている。 天草架橋計画永年亘る島民念願ありましたが、幸にも関係各方面ご理解とご援助のもとに愈々本格的調査実施していただく事になりましたことは、誠に感謝に耐えない所でありまして、茲に厚く御礼申上げる次第御座います。この本格的調査は、やがて近々着工約束されたものと確信し今や二十四万島民架橋実現への熱意極めて大きなものがありますので、この際更に左記関し関係御当局に於いてご検討いただき早急に解決賜りますよう重ねて御願い申し上げます。 記 一、昭和三十四年度調査2000万円計上方を要望する。 二、昭和三十四年度調査完了し昭和三十五年度着工要望する。 三、建設省公共事業費は、離島振興事業費枠外に於いて計上方を要望する。 四、連絡道路一部本年度救農土木事業として実施方を要望する。 五、昭和三十四年四月一日より、架橋調査事務所設置方を要望する。 右の通り御座いますので、何卒別の詮議をもって採択の上宜しくお取計賜りますよう天草二十四万島民代表して茲に陳情いたします昭和三十三年十一月二十一日 天草架橋期成会長 桜井三郎 天草振興協議会長 森国久 — 1958年11月21日建設省等への陳情書 内閣離島振興対策審議会における、各省事務次官との交渉天草架橋実現に力となった。その中には鈴木俊一(のちに東京都知事)、小林与三次(のちに日本テレビ放送網社長)、平井富三郎(のちに新日本製鐵社長)、石破二朗(のちに鳥取県知事)、小野吉郎(のちに日本放送協会会長)、森永貞一郎(のちに日本銀行総裁)、荒木茂久二(のちに帝都高速度交通営団総裁)などがいた。 この間島内各種組織協会等を統合して1956年昭和31年7月、「天草振興協議会」を設立し会長となる。天草郡町村会長、天草振興協議会会長架橋期成副会長天草郡観光協会会長、その他離島振興関係の要職兼務した。 1961年昭和36年5月1959年から就任した知事寺本広作とともに天草架橋陳情上京し事業着手確実なものとした。ひと月後の6月出張中に倒れ同月26日逝去没年1月新聞寄稿した挨拶文には以下のような内容綴られている。 昭和36年忙しい年なりそうです。六日七日本年度離島予算最後折衝のため五日上京引き続き問題の「天草架橋」で滞在九日には寺本知事初め地元県議中央世話人合同会議開き公団の二億要求本年度着エの旗の下に、その実現を期する勝負潮時が来たと思います。そして十日十一日は全国町村長大会です。選挙に臨むこと三回-二十六年から十年なります一日無駄な懸命であったつもりですけれど、思い半ばです。私はいつも思います。「政治の心」は、その住民の生活がーより豊かに―より安全に―さらに―いついつまでも変わらない安心して暮らせることにあると、・・・・。 今日ほど差のひどい時代はない様な気がします都会田舎の差、なかなかおい追いつけない地域の差、所得格差、そして暮らしの差。どうすれば「その差」を縮めることが出来るかが、身近に迫る今日課題ではないでしょうか。 「天草架橋」を一日早く実現することも大きな解決一つ、と思います離島振興法は後二年で終ります。これを延長することは、もちろんですが、私たちこの際住民血となり肉となる産業振興計画」を急がねばならない気が致します私たちの町でも、新春早々この問題取り組み五カ年計画」を実施するため各界人を集め常置機関として、その計画検討するように致しております中学整備を急ぐのも大事ですが、その後に来る高校進学大きな問題となります実業高校天草実現したいのは天草人の願いでもありますその場所が問題をはらむのでは、と今から心配さます。少なくども考え統一して大局につかねばなりますまい。 ー月一日から龍ヶ岳町は“福祉三法”(条例)を実施しました産業、文化振興図れば図るほど・・・所得倍増計画時代であればあるほど・・・脱落者を心配することをわすれてならない思います。暗い谷間明るくする社会福祉。満足ではありませんが「底辺の線のささえ」になればと思う気持ちあらわれです。元日に当たり“けいけん”な気持でー杯です。とまれ、現実踏まえながら、理想持ち、夢を追い龍ヶ岳町愛し、そして、郷土天草発展希うことの思い深く致します — 森国久、「昭和36年ことしの展望 ことしの天草多忙天草民報1961年1月8日

※この「天草架橋の実現のための道のり」の解説は、「森国久」の解説の一部です。
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