太平洋戦争中
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1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開始後、国際電気通信会社の南方占領地域に資材を送り通信施設の開設と拡充が軍部の指示により急速に進展した。海軍の占領地域は今日のインドネシアのうちジャワ、スマトラ、北ボルネオを除く全地域であったが、この地域の通信施設建設のため、1942年(昭和17年)セレベス島マカッサルに要員が派遣されることとなり、嘉一郎はその一員として9月7日に横浜を出港、10月4日にマカッサルに到着した。 12月8日の開戦一周年記念日までに間に合わせる前提であったが、資材が到着したのは20日前だった。通常2ヶ月を要する設置調整をわずか20日で仕上げ、12月7日午後4時に試験電波を発射することができた。その後1942年(昭和17年)12月1日にはマカッサル市内の電話交換を取り扱う電話局の開始、1943年(昭和18年)2月1日には対内地の無線電話連絡とマカッサル電報局の無線電信業務を正式に開始した。 現地人の通信従事者を可能な限り使用する方針で養成所(技術課および通信課)を設置し、17歳から24歳程度の男子を入学させ、45名を卒業させた。1943年には空襲が始まり、7月18日夜中の空襲では構内の防空壕の至近距離に着弾、きわどいところで命拾いしたという。1944年(昭和19年)7月日本に帰還した。
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太平洋戦争中
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太平洋戦争中の古関は数々の名作軍歌、戦時歌謡を発表した。1944年4月、古関は、作家の火野葦平や洋画家の向井潤吉と共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われているビルマに派遣された。ビルマ首都のラングーンに到着後、火野から歌詞を託され、ペストが蔓延する状況の中で「ビルマ派遣軍の歌」を完成させた。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。
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太平洋戦争中
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1942年(昭和17年) - 金属類回収令により、河津町内の梵鐘が全て供出される。
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