奉天会戦
奉天会戦
奉天会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:43 UTC 版)
「奉天会戦」を参照 2月22日に鴨緑江軍による行動開始に始まり、第2軍は第3、第4、第6、第8師団、秋山支隊及び3個後備旅団を指揮下におき、日本軍中央左翼を担当して2月27日から砲撃を開始、3月7日まで攻撃を続行したが、ロシア軍の抵抗は激しく前進がままならなかった。ところが7日深夜になり、突如ロシア軍が退却を始めた。日本軍に包囲されると勘違いしたロシア軍首脳部が、中央の部隊に退却命令を出したのである。8日から猛烈に追撃戦を行い、10日に第2軍は第4軍とともに奉天を占領した。しかし、それ以上の攻撃余力がなく、この会戦が事実上日露戦争最後の陸戦となった。
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奉天会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
詳細は「奉天会戦」を参照 乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。このため、旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍も、進軍開始直後には予定通り進撃していた。しかし、西端こそが第3軍であることに気付いたクロパトキンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。 第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、自ら所在する第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された。 その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こうした第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した。 アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn,1878-1950)は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた。
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