安島帯刀とは? わかりやすく解説

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安島帯刀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 14:34 UTC 版)

安島 帯刀(あじま たてわき)は、幕末に活躍した水戸藩家老安政の大獄切腹を命じられた。維新後、靖国神社護国神社回天神社合祀された[1]信立(のぶたつ)。


  1. ^ 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)32頁参照。
  2. ^ 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第1巻』(吉川弘文館1979年)192頁、新潮社辞典編集部編『新潮日本人名辞典』(新潮社、1995年)48-49頁、平凡社編『日本人名大事典 (第1巻) 』(平凡社、1990年)78頁、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1994年)27頁、宮崎十三八、安岡昭夫編『幕末維新人名辞典』(新人物往来社、1994年)34頁、家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年)379頁参照。
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 36頁。
  4. ^ 蟹江征治著、 宇野俊一小林達雄竹内誠大石学佐藤和彦鈴木靖民濱田隆士三宅明正編『日本全史(ジャパン・クロニック)』(講談社1990年)882、883頁参照。
  5. ^ a b 帯刀の遺族については徳川家蔵前掲『水戸藩史料上編』巻二十六562頁参照。
  6. ^ a b 帯刀の次男 七郎三郎知正は水戸藩士 富田氏に養子入りした。富田氏の本姓は源氏。家系は宇多天皇を祖とする宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の一門で出雲守護を務めた京極氏の家臣であったが、守護の京極大膳大夫政経が守護代 尼子伊予守経久に追放されたのに伴い富田氏も京極氏の本国 近江国に逃れた。その後、富田一白が豊臣氏の家臣となり、小田原の後北条氏との交渉を担当した。一白の子は富田信濃守従五位下信高であり、秀吉から豊臣姓を授かり、後陽成天皇から官位を賜るなど功を重ねて伊予国板島に加封されたものの、後に改易され陸奥国磐城平藩主 鳥居忠政の預かりとなった。その後、水戸藩主 徳川頼房に召しだされ、水戸藩士となっている。一白から数えて10代 書院番頭であった知定が下総国古河藩領内で切腹した跡を帯刀の次男 七郎三郎知正が継承している。なお、富田氏については、(戸谷穂高.杉山巖 2011, p. 291,296)及び明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年)347頁参照。
  7. ^ 帯刀の長女、次女の名については大学共同利用機関法人人間文化研究機構国文学研究資料館准教授特定非営利活動法人日本歴史資料継承機構代表理事西村慎太郎の研究資料にて記載されている。詳しくは西村慎太郎著『120317 NPO法人日本歴史資料継承機構主催報告会 『幕末維新の世界にようこそ』1859の残照 ― 安島家文書の世界 ―』(日本歴史資料継承機構、2012年)13頁参照。なお、西村らの日本歴史資料継承機構は2006年に発足し、以来、関東・東海地方で文書の調査活動を展開。平成23年(2011年)3月の東日本大震災を契機に歴史資料の災害等による喪失から救う文化財レスキュー事業を拡大している。安島家文書との出会いは千葉県松戸市戸定博物館を介して同県我孫子市の安島帯刀子孫宅を紹介されたことによる。西村慎太郎前掲資料(日本歴史資料継承機構、2012年)2頁及び23頁参照。
  8. ^ 徳川家蔵『水戸藩史料下巻』(吉川弘文館、1970年)巻六248頁参照。
  9. ^ なお、帯刀次女 道子の婚家 立原氏は安島修理亮の家系と婚姻した佐竹氏家臣 立原氏と同惣左衛門と同族にあたる。朴二郎は立原伊豆守を祖先とし、祖父は水戸藩の彰考館総裁 立原翠軒万であり、父は杏所任という血筋であった。朴二郎は杏所の三男にして嫡男であるとされ、妻 道子との間には長男 萬之助と長女 羊子が生まれるが、萬之助が早世したため、羊子の婿に野口氏より、豊三郎を迎え、跡取りに佐武郎を儲けるという。詳しくは朴二郎と同族であるとされる、立原道造の詩集 立原道造著『立原道造全集』(角川書店、1973年)575-579頁参照。
  10. ^ 貞芳院宮は、俗名を登美宮吉子女王といい、有栖川宮織仁親王の第十二王女で側室 安藤清子を母として生まれた。後に徳川斉昭の正室となり、長男・徳川慶篤、次男・二郎麿、七男・慶喜、女子らを生むという。明治維新後は墨田区向島小梅町、現在の向島2丁目、3丁目にあった水戸藩小梅藩邸で余生を送ったという。同藩邸跡は隅田川言問橋の架かる墨田区立隅田公園にあったとされる。西村慎太郎前掲資料(日本歴史資料継承機構、2012年)15頁、16頁参照。
  11. ^ 安島道子が父帯刀信立の25回忌に詠んだ和歌には次の3首が残されている。「いとせめて うれしきものハ 秋雰の はれてさやけき ミ名にて有けき」、「常にわか うきを惑ひて 廿ちあまり はや五年の 秋ハきにけり」、「すきしよハ かへらむものゝ ことわりに そむきてしたふ 我こゝろ哉」この他、長姉 立子・道子姉妹他、安島家子孫に伝わる歴史資料は257点に及ぶ。西村慎太郎前掲資料(日本歴史資料継承機構、2012年)13頁及び21頁、22頁参照。
  12. ^ 安島帯刀の甥 里見四郎左衛門の生家 里見氏は本姓 源氏。八幡太郎源義家の孫にして、足利式部大夫源義国の長男 贈鎮守府将軍新田大炊助義重の庶長子 里見太郎義俊を祖とする新田氏の一門。水戸藩士 里見氏は最上家親に仕えた里見掃部義親を祖先とし、その子 里見四郎左衛門親宗は旧主 最上氏の一門で水戸藩家老となっていた山野辺義忠の推挙により水戸藩士となった家系である。父の親長は水戸藩旗奉行。子の親賢は水戸藩歩行頭を務めた。財団法人水府明徳会彰考館蔵『水府系纂』第41巻。
  13. ^ 京都大学附属図書館には、維新資料として、安島帯刀が藤田東湖や兄・戸田忠太夫忠敞会沢安らとともに詩歌を詠んで記したものが『東湖.忠敞.信立.会沢安遺墨』として現存している。


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水戸藩家老二郎より井伊一派の不正を記した書類受け取る。

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