安川寿之輔
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安川 寿之輔(やすかわ じゅのすけ、1935年(昭和10年)2月21日[1] - )は、日本の市民運動家、社会思想史研究者。専門は近代日本社会(教育)思想史。名古屋大学名誉教授、不戦兵士・市民の会副代表理事、日本戦没学生記念会元事務局長、イラク派兵違憲訴訟の原告(東京地方裁判所)[2]。韓日平和100年市民ネット共同代表[3]。<声明>「韓国は「敵」なのか」賛同者[4]。
注釈
- ^ 「私は、一九九八年三月、名古屋大学を定年退職し、三つの大学での非常勤講師をはじめながら、基本的な生活の場は市民運動にうつした。」[6]
- ^ 安川を慶應義塾大学の講演に招いたのは当時、慶應義塾大学の経済学部教授であった松村高夫である[10]
- ^ 安川は即日、以下のような返答を送信した。 「……昨年五月、『福沢諭吉のアジア認識』の著者として慶應義塾大学の講義に招かれました際は、『朝日新聞』の記事のとおり「慶応リベラリズム」の存在を実感しましたが、貴協会にはその精神は無縁のようで、残念です。/昨年、お送りいただいた『福沢諭吉年鑑』『福沢手帖』各号は研究上の貴重な資料となり、目下、執筆中の福沢諭吉にかかわる次著には何度か引用させていただきました。今後の号へのアクセスの道を閉ざされるということは、自由な学問研究を抑制・妨害する措置と考えます(会員外の購読会員の制度は、即刻用意するべきです)。自由な学問研究と両立しない「福沢精神」の普及など、福沢諭吉の望むところでしょうか?」 — 安川寿之輔、(安川 2003, pp. 63–65)[12]
- ^ 2000年代以降では『東日流外三郡誌』は和田喜八郎による偽作という見解が確実視されているが、安川の主張は『東日流外三郡誌』が偽書であることが明らかになった2000年代以降になって突然なされたものであった。古田武彦が、「福沢が『東日流外三郡誌』を読んで『天は人の上に人を造らず』の文章を引用した」と主張したのは1990年である[21]。古田は、その証拠として福澤が『東日流外三郡誌』所有者に宛てて「なにとぞ引用をお許しください」と要請した手紙の写本を慶應大学の福澤研究センターに持ち込んだ。福澤研究センター所長の西川俊作は手紙の内容に問題が多く本物とは認められないとした[22][23][19]。また手紙の原本も結局提出されず、写本のコピーや写真撮影も古田より拒否されたと語っている[22][23]。西川の見解は、NHKのテレビ番組「ナイトジャーナル」(1993年6月1日)で紹介された[24]ほか、同年、雑誌『サンデー毎日』4月18日号[24]、6月20日号[24]、7月11日号[24]でも古代史研究家の安本美典が指摘した。古代史専門誌『季刊邪馬台国』でも度々取り上げられている[24]。
出典
- ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.349
- ^ a b 安川 2006b, p. 384
- ^ 韓日平和100年市民ネット自己紹介、韓日平和100年市民ネット創立大会(2009/4/25)を参照。
- ^ “「声明 韓国は「敵」なのか」声明への賛同者一覧” (2019年7月31日). 2019年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月3日閲覧。
- ^ a b 安川 寿之輔 - 株式会社 明石書店
- ^ 福沢諭吉のアジア認識 立ち読み
- ^ 安川 2001
- ^ 平山 2001
- ^ 平山 2004, p. 240
- ^ 安川 2006b, p. 366
- ^ 平山 2004, p. 241
- ^ a b c d e 安川 2003, pp. 63–65
- ^ 飯田 1996
- ^ 飯田 1997
- ^ 平山 2012, p. 222
- ^ 福沢諭吉と丸山眞男
- ^ 平山 2012, p. 224
- ^ 『慶應義塾豆百科』のNo.22「考証・天は人の上に人を造らず……」を参照。
- ^ a b 原田 2007
- ^ 大下隆司「古田・安川対談について――『東日流外三郡誌』と「福沢諭吉」」『古田史学会報』第77号、古田史学の会、2006年12月。
- ^ 古田 1990
- ^ a b 斉藤 2006, pp. 38–45
- ^ a b 斉藤 2009, pp. 46–55
- ^ a b c d e “『季刊邪馬台国』掲載「和田家文書」関連論文・記事”. 倭人伝への旅. 2016年1月13日閲覧。
- ^ 『平山洋氏の仕事』の「2007年02月19日到着 安川寿之輔氏からの手紙」を参照。
- ^ 安川寿之輔 (2007年2月). “『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』「天は人の上に人を造らず・・・」の出典について” (PDF). 高文研. 2011年4月10日閲覧。
- ^ 安川 2006b, p. 385
- ^ 安川 2010
- ^ 佐高 2010
- ^ 雁屋 2010
安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)
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「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」の記事における「安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)」の解説
名古屋大学名誉教授の安川寿之輔は、1875年(明治8年)9月の江華島事件に際に、福澤は『郵便報知新聞』社説に本社説を書いて、「(意外にも)「朝鮮の征伐は止む可し」」と主張したことを紹介した。さらに、福澤が朝鮮を「小野蛮国」と呼んだことに対して、附録の「福沢諭吉のアジア認識の軌跡」で本社説を取り上げて、蔑印を付けて紹介した。蔑印は「アジアへの侮蔑・偏見・マイナス評価」を示す印である。一方、福澤は「志を遠大にして」、真の「我国の独立を謀」るうえでは、「小野蛮国」の朝鮮が「来朝して我属国と為るも、尚之を悦ぶに足らず。」と彼は説いたのである と説明し、これは、福澤がつまり、「野蛮なる朝鮮」が「我属国と為る」くらいのことで満足してはならないと戒めている のであって、実は福澤は征韓論に賛成していて、朝鮮を日本の属国と為すだけでなく更なる朝鮮併合や清国への領土拡張までも望んでいたと解説している。
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