将軍として
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曹操は実戦においても用兵に通じ、優れた戦略家・軍略家であった。特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できる確かな戦術理論を持っていた。 曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取ることも少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・華佗・孔融・婁圭・崔琰を処刑したり自害させている。 曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。 軍事学者の何去非(中国語版)は、著書『何博士備論』にて曹操を「用兵における第一人者」としている。詩人の王勃も自らの『三国論』にて、彼の用兵を孫武・呉起に準えている。
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将軍として
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家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和など、幾つかの独自の経済政策を行った。しかし負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また薩摩藩に対して木曽三川の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた(宝暦治水事件)。京都で宝暦事件が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。また次男の重好に江戸城清水門内で屋敷を与えて徳川姓を許し、御三卿体制を整えた。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。 重用された大岡忠光は、権勢に奢って失政暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男家治に将軍職を譲って大御所と称した。 宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。数え年51歳であった。
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