小倉織の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:37 UTC 版)
地元に戻った眠亀は、家業の商品であった小倉織の品質向上を目指した。当時の小倉織は、糸は粗太で織り方は雑然としたものであった。文久3年(1863年ごろ)、イギリス製の紡績糸が初めて輸入されると、眠亀は、これを小倉織の帯地の改良に利用しようとした。初めは、撚糸の職人および紺屋らに紡績糸の再燃および染色を託したが、これらの職人は従来の方法に拘ったことと、当時の日本の手紡糸とは糸質及び撚方が異なっていたことから眠亀の要望に応じる者はいなかった。そのため、眠亀は、自分の作業場に撚糸機、それに加えて藍甕(あいがめ)を設置し、自分で燃糸や染色まで行った。その努力が実り、燃糸や染色に相当の結果を見ることが出来るようになった。眠亀は、次に織り方の改良に着手し、その一環として精密な筬を作成し、これを織機に組み入れて織り上げたところ、高品質の織物に仕上がった。眠亀が改良した撚糸と織り方で製造した織物は、品質は精巧、色彩は優美なものであり、それは一見博多織と見間違えるほどであった。この小倉織は、非常に好評を博し、それを模倣するものまで現れた。そのため、備中地方の小倉織の面目を一新するに至った。明治初年には、眠亀は一大織機を創作して、一丈三尺巾の大織物を織り、方二間の縫目のない蚊帳・八畳敷大敷物・両面緞通などを製出した。
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