やまおか‐てっしゅう〔やまをかテツシウ〕【山岡鉄舟】
山岡鉄舟
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山岡鉄舟
山岡鉄舟―生死一如
山岡鉄舟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 12:31 UTC 版)
山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、旧字体:山岡 鐵舟)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家[1]。剣・禅・書の達人。
注釈
- ^ 自得院流(忍心流)槍術の勘違いと思われる。泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典: 100人のエピソードで激動の時代がよくわかる』(PHP文庫 2003年 ISBN 978-4-569-66020-2)63頁 に見られるが、この書籍は全体に典拠を示さない読み物なので信頼性は低い。
- ^ きろこむら、現埼玉県比企郡小川町木呂子。
- ^ 小野高福(たかよし 1821 - 1852年)通称朝右衛門(ちょうえもん)は、飛騨郡代(21代 1845 - 1852年[2])、禄六百石の旗本だった。
- ^ Web 検索すると五男説が散見されるが、勝部真長『山岡鉄舟の武士道』 p.20、 角川ソフィア文庫 1999年(初出は1971年『武士道―文武両道の思想』角川選書、未確認) に五男とあるのが誤転載の源流と思われる。
- ^ 久須美閑適斎は、順三郎祐義といい旗本の次男で、生涯本所大川端の生家に居住し仕官しなかったという。
- ^ 山岡静山 やまおかせいざん 1829 - 1855年、名は正視 まさみ、字は子厳、通称は紀一郎。幕臣、高橋泥舟の兄。槍術家として著名。
- ^ 「精鋭隊」は徳川慶喜が大阪城から逃げ帰った後、その身辺警護のために勝海舟らが旗本の子弟から手練れの剣士70余人を抜擢・組織した護衛隊である。
- ^ 後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という[5]。
- ^ 宮内省辞職後、鉄舟の住居(旧四谷区仲町三丁目三一番地、現在の新宿区若葉一丁目・学習院初等科付近)の裏手の道場に「春風館」と命名し開いた。
- ^ 釈宗活(しゃくそうかつ、1871 - 1954年)は臨済宗の僧侶。俗姓は入沢。別号に輟翁、両忘庵。
- ^ 立田英山(たつたえいざん、1893 - 1979年)、耕雲庵を号す。1949年、宗教法人「両忘禅協会」を改組し宗教法人「人間禅教団」設立、初代総裁に就任。
- ^ 鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた[10]。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。なお千葉立造(ちばりつぞう、1844 - 1926年)は、鉄舟の侍医。立造は通称で名は顕親、愛石(あいせき)と号した。自伝として、千葉立造が口述し三男千葉真一が編纂・出版した『愛石小傳』 1917年 がある。
- ^ 圓山牧田 まるやまぼくでん 全生庵三世住職。
- ^ 本名 渡辺伊三郎 1865 - 1944年、新潟県の生まれ。
- ^ 鉄舟晩年の高弟である小倉鉄樹の口述を石津寛・牛山栄治が筆記・編纂したもの。この書籍の評価は、Anshin Anatoliy 『牛山英治が編纂した山岡鉄舟の伝記について』(千葉大学日本文化論叢 2007年7月1日 no.8 page.1-11)) が参考になる。
- ^ 平井正修 ひらいしょうしゅう 1967年生まれ。2002年から臨済宗国泰寺派全生庵第七世住職。
出典
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “山岡鉄舟とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
- ^ 『真宗山元派本山證誠寺史』p.81
- ^ 孫三, 佐倉『山岡鉄舟伝』普及舎、1893年5月16日、1頁 。
- ^ a b 岩下哲典『江戸無血開城―本当の功労者は誰か?』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」、2018年)
- ^ 鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」
- ^ a b 水野靖夫『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ、2018年)
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日
- ^ 『官報』第1561号、明治21年9月10日
- ^ 官報 明治21年7月20日付「叙任及辞令」 国立国会図書館デジタル官報
- ^ 『最後のサムライ 山岡鐵舟』pp189-191
- ^ 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年)、171頁。
- ^ 平沼騏一郎回顧録編纂委員会『平沼騏一郎回顧録』(学陽書房、1955年)、171-173頁。
- ^ 【ぐるっと首都圏 食べるつながる】埼玉・小川町/忠七めし「日本五大名飯」味わって『毎日新聞』2018年3月5日
山岡鉄舟
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山岡鉄舟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)
鄧州と山岡鉄舟との邂逅は鄧州が曹渓寺の選仏道場に赴任した頃である。初めて鄧州に会った鉄舟は五位兼中到の「両刃鉾を交えて避くることを用いず」の一句を用いて鄧州の力量を試すと、鄧州は「尊公は偏中至と兼中到と誤っている。仏向上のこと未だ未だし」と返した。以来、鄧州と鉄舟は互いに力量を競い合う間柄になった。 ある日、鄧州が鉄舟の家を訪れると鉄舟が昨晩夢枕に文殊菩薩が出たという話をした。鄧州が「さぞワシが娑婆において縦横の機略に驚かれていたであろうな」と自賛すると、「何の間違いを。洞山麻三斤の公案を南天棒未だ解せずという託宣さ」と返された。それから鄧州と鉄舟が「麻谷賓主互換」の公案を商量しているうちに、取っ組み合いとなり、しまいには鄧州が鉄舟を突き飛ばし障子が壊れる様で家人はすわ喧嘩かと慌てた。 山岡が道林寺を譲り受け、 選仏道場として鄧州を招いた際、鉄舟は「ちっぽけな大道場ができたので和尚に来てもらいたいと思う」と誘った。鄧州が「ちっぽけな大道場とは可笑しいな」と笑うと、鉄舟は「須弥に芥子を容れるとさえ云うではないか。とにかく一微塵裏に大法輪を伝じてもらいたいのじゃ」と切り返したので鄧州は二つ返事で承諾。廃寺であった道林寺は崩れ落ちた壁に筵を吊るし、畳の多くは腐っていたので菰を敷く。障子も壊れ雨漏りもする有様であったが、鉄舟が差し入れた酒と握り飯、沢庵漬けで晋山式を執り行った。以来、山岡は毎日修行者分の米と酒を差し入れ、鄧州と酌み交わしながら修行をした。 『南天棒行脚録』では鉄舟逝去のくだりも記されている。鉄舟は以前より大蔵経の書写を手掛けており、鄧州が校正をしていたが逝去2日前にて筆が止まった。鄧州に自分は明日にもお暇する、禅武二つが欠けては国家が弱くなるのでこれを忘れぬようにと告げ、道林寺の禅堂が完成した暁には明治天皇の御臨幸を仰ぐよう尽力願いたいと鄧州に託した。翌日、鉄舟は「諸君奸在、我れ今日先逝す」との言葉を残し逝去した。鄧州はその3年後、明治24年に松島瑞巌寺の住職に任命され寺を去ったが、乃木希典の尽力によって江湖道場は選仏道場として隆盛する。だが昭和20年の空襲によって堂宇は消失し、町田市相原町に移転して現在に至っている。
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固有名詞の分類
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