山岡鉄舟とは? わかりやすく解説

やまおか‐てっしゅう〔やまをかテツシウ〕【山岡鉄舟】

読み方:やまおかてっしゅう

[1836〜1888江戸末期から明治剣術家政治家江戸の人。通称太郎旧幕臣で無刀流剣術流祖戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟使者として西郷隆盛説き西郷・勝の会談実現させて江戸城無血開城導いた明治維新後、明治天皇侍従などを歴任


山岡鉄舟

作者五味康祐

収載図書国戸団左衛門切腹
出版社勁文社
刊行年月1987.8
シリーズ名ケイブンシャ文庫

収載図書時代小説大全集 4 人物日本史 江戸
出版社新潮社
刊行年月1990.9
シリーズ名新潮文庫

収載図書幕末駆けた七人兵法者
出版社新潮社
刊行年月2007.6
シリーズ名新潮文庫


山岡鉄舟

作者戸部新十郎

収載図書日本剣豪維新
出版社毎日新聞社
刊行年月1992.12


山岡鉄舟

作者豊田穣

収載図書日本剣豪列伝 3
出版社福武書店
刊行年月1995.3
シリーズ名福武文庫

収載図書人物日本剣豪伝 5
出版社学陽書房
刊行年月2001.7
シリーズ名人物文庫


山岡鉄舟

作者海音寺潮五郎

収載図書幕末動乱男たち改版
出版社新潮社
刊行年月2008.4
シリーズ名新潮文庫


山岡鉄舟

作者中山義秀

収載図書剣豪改版
出版社新潮社
刊行年月2008.4
シリーズ名新潮文庫


山岡鉄舟―生死一如

作者津本陽

収載図書幕末悲風録―津本陽武芸小説集 3
出版社PHP研究所
刊行年月2007.11


山岡鉄舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 12:31 UTC 版)

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、旧字体山岡 鐵舟)は、日本幕末幕臣剣術家明治期官僚政治家[1]の達人。


注釈

  1. ^ 自得院流(忍心流)槍術の勘違いと思われる。泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典: 100人のエピソードで激動の時代がよくわかる』(PHP文庫 2003年 ISBN 978-4-569-66020-2)63頁 に見られるが、この書籍は全体に典拠を示さない読み物なので信頼性は低い。
  2. ^ きろこむら、現埼玉県比企郡小川町木呂子。
  3. ^ 小野高福(たかよし 1821 - 1852年)通称朝右衛門(ちょうえもん)は、飛騨郡代(21代 1845 - 1852年[2])、禄六百石の旗本だった。
  4. ^ Web 検索すると五男説が散見されるが、勝部真長『山岡鉄舟の武士道』 p.20、 角川ソフィア文庫 1999年(初出は1971年『武士道―文武両道の思想』角川選書、未確認) に五男とあるのが誤転載の源流と思われる。
  5. ^ 久須美閑適斎は、順三郎祐義といい旗本の次男で、生涯本所大川端の生家に居住し仕官しなかったという。
  6. ^ 山岡静山 やまおかせいざん 1829 - 1855年、名は正視 まさみ、字は子厳、通称は紀一郎。幕臣、高橋泥舟の兄。槍術家として著名。
  7. ^ 「精鋭隊」は徳川慶喜大阪城から逃げ帰った後、その身辺警護のために勝海舟らが旗本の子弟から手練れの剣士70余人を抜擢・組織した護衛隊である。
  8. ^ 後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という[5]
  9. ^ 宮内省辞職後、鉄舟の住居(旧四谷区仲町三丁目三一番地、現在の新宿区若葉一丁目・学習院初等科付近)の裏手の道場に「春風館」と命名し開いた。
  10. ^ 釈宗活(しゃくそうかつ、1871 - 1954年)は臨済宗の僧侶。俗姓は入沢。別号に輟翁、両忘庵。
  11. ^ 立田英山(たつたえいざん、1893 - 1979年)、耕雲庵を号す。1949年、宗教法人「両忘禅協会」を改組し宗教法人「人間禅教団」設立、初代総裁に就任。
  12. ^ 鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた[10]。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。なお千葉立造(ちばりつぞう、1844 - 1926年)は、鉄舟の侍医。立造は通称で名は顕親、愛石(あいせき)と号した。自伝として、千葉立造が口述し三男千葉真一が編纂・出版した『愛石小傳』 1917年 がある。
  13. ^ 圓山牧田 まるやまぼくでん 全生庵三世住職。
  14. ^ 本名 渡辺伊三郎 1865 - 1944年、新潟県の生まれ。
  15. ^ 鉄舟晩年の高弟である小倉鉄樹の口述を石津寛・牛山栄治が筆記・編纂したもの。この書籍の評価は、Anshin Anatoliy 『牛山英治が編纂した山岡鉄舟の伝記について』(千葉大学日本文化論叢 2007年7月1日 no.8 page.1-11)) が参考になる。
  16. ^ 平井正修 ひらいしょうしゅう 1967年生まれ。2002年から臨済宗国泰寺派全生庵第七世住職。

出典

  1. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “山岡鉄舟とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
  2. ^ 『真宗山元派本山證誠寺史』p.81
  3. ^ 孫三, 佐倉『山岡鉄舟伝』普及舎、1893年5月16日、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782099 
  4. ^ a b 岩下哲典『江戸無血開城―本当の功労者は誰か?』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」、2018年)
  5. ^ 鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」
  6. ^ a b 水野靖夫『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ、2018年)
  7. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日
  8. ^ 『官報』第1561号、明治21年9月10日
  9. ^ 官報 明治21年7月20日付「叙任及辞令」 国立国会図書館デジタル官報
  10. ^ 『最後のサムライ 山岡鐵舟』pp189-191
  11. ^ 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年)、171頁。
  12. ^ 平沼騏一郎回顧録編纂委員会『平沼騏一郎回顧録』(学陽書房、1955年)、171-173頁。
  13. ^ 【ぐるっと首都圏 食べるつながる】埼玉・小川町/忠七めし「日本五大名飯」味わって『毎日新聞』2018年3月5日


「山岡鉄舟」の続きの解説一覧

山岡鉄舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:17 UTC 版)

アサギロ 〜浅葱狼〜」の記事における「山岡鉄舟」の解説

幕臣で、「虎尾の会」の発起人

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山岡鉄舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)

中原鄧州」の記事における「山岡鉄舟」の解説

鄧州と山岡鉄舟との邂逅鄧州曹渓寺の選仏道場に赴任した頃である。初め鄧州会った舟は五位兼中到の「両刃鉾を交えて避くることを用いず」の一句用いて鄧州力量を試すと、鄧州は「尊公は偏中至と兼中到と誤っている。仏向上のこと未だ未だし」と返した以来鄧州舟は互いに力量競い合う間柄になったある日鄧州舟の家を訪れると舟が昨晩夢枕文殊菩薩出たという話をした。鄧州が「さぞワシ娑婆において縦横機略驚かれていたであろうな」と自賛すると、「何の間違いを。洞山麻三斤の公案南天未だ解せずという託宣さ」と返された。それから鄧州舟が「麻谷賓主互換」の公案商量しているうちに、取っ組み合いとなり、しまいには鄧州舟を突き飛ばし障子壊れる様で家人はすわ喧嘩かと慌てた山岡道林寺譲り受け、 選仏道場として鄧州招いた際、舟は「ちっぽけな大道場ができたので和尚来てもらいたいと思う」と誘った鄧州が「ちっぽけな大道場とは可笑しいな」と笑うと、舟は「須弥芥子容れるとさえ云うではないか。とにかく一微塵裏に大法輪を伝じてもらいたいのじゃ」と切り返したので鄧州二つ返事承諾廃寺であった道林寺崩れ落ちた壁に筵を吊るし、畳の多く腐っていたのでを敷く。障子壊れ雨漏りもする有様であったが、舟が差し入れた酒と握り飯沢庵漬け晋山式執り行った以来山岡毎日修行者分の米と酒を差し入れ鄧州酌み交わしながら修行をした。 『南天行脚録』では逝去のくだりも記されている。舟は以前より大蔵経書写手掛けており、鄧州校正をしていたが逝去2日前にて筆が止まった鄧州自分明日にもお暇する、禅武二つ欠けて国家弱くなるのでこれを忘れぬようにと告げ道林寺禅堂完成した暁には明治天皇の御臨幸を仰ぐよう尽力願いたい鄧州託した翌日舟は「諸君奸在、我れ今日先逝す」との言葉を残し逝去した。鄧州その3年後、明治24年松島瑞巌寺住職任命され寺を去ったが、乃木希典尽力によって江湖道場は選仏道場として隆盛する。だが昭和20年空襲によって堂宇消失し町田市相原町移転して現在に至っている。

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