山梨県の高校野球における功績
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「大八木治」の記事における「山梨県の高校野球における功績」の解説
大八木が東海大甲府に就任する前の山梨県の高校野球は全国大会に出場すると初戦敗退を繰り返すなど野球弱小県であった一方で、当時の山梨県代表は公立高校が独占している状態であり、私学高が入る隙がなかった。 大八木はコーチを経て監督に就任するとそれまで県内の高校野球部に蔓延していた根性論を一掃しデータ野球を徹底することにより相手の弱点を突いて勝ち上がる戦術を行い、山梨県内だけでなく全国でも勝てるチームを目指した。そして就任3年目の1981年に山梨県の私学高で初めての甲子園出場を果たすとその後も着実に成長していき、1985年には山梨県勢初の夏の高校野球ベスト4を果たしている。 また大八木が率いる東海大甲府の強さは山梨県内他校にもいい刺激となった。古豪である甲府工業高校は原初也監督のとも「打倒東海大甲府」を掲げて過酷な練習を行い、その結果夏の選手権では東海大甲府の前に歯が立たなかったものの、1987年のセンバツ大会では中込伸らを率いてベスト8にまで進出した(この時東海大甲府もベスト4まで進出しており、準々決勝進出8チーム中2チームが山梨県勢であった。)。甲府工業以外にも田辺徳雄や井出竜也(ともに吉田高校)、木田優夫(日大明誠高校)などのちにプロ野球で活躍する選手が多く現れている。 大八木が退任後は県内他校が力をつけてきたこともあり東海大甲府はかつての強さを潜めるようになったが、2004年に東海大甲府ならびに山梨県勢にとって2度目となる夏の高校野球ベスト4進出を果たした。なお、この時および現在同校の監督をしている村中秀人は大八木が東海大相模高校のコーチをしていた時の教え子である。
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