かげとも‐の‐みち【山陽道】
さんよう‐どう〔サンヤウダウ〕【山陽道】
山陽道 (さんようどう)
山陽道
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山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された[1]。
脚注
- ^ 早馬の最も早い連絡便のこと。
出典
- ^ Yahoo!辞書 - 大辞林 2019年5月31日サービス終了。
- ^ 松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)
- ^ a b c 浅井建爾 2001, p. 87.
- ^ 備後ふちゅう かわら版 2017年11月2日 中国新聞備後府中販売所
- ^ 広報 ふちゅう 2016年7月1日(1214号) 府中市人事課秘書課編集発行
- ^ a b c d e f g h i 『延喜式』の兵部省の項
- ^ 兵庫県立考古博物館. “古代官道に関する調査研究”. 兵庫県立 考古博物館. 2021年10月31日閲覧。
- ^ 兵庫県立考古博物館. “古代官道に関する調査研究”. 兵庫県立 考古博物館. 2021年10月31日閲覧。
- ^ 兵庫県立考古博物館. “古代官道に関する調査研究”. 兵庫県立 考古博物館. 2021年10月31日閲覧。
- ^ “龍野市小犬丸遺跡”. sitereports.nabunken.go.jp. 2021年10月31日閲覧。
- ^ 兵庫県立考古博物館. “古代官道に関する調査研究”. 兵庫県立 考古博物館. 2021年10月31日閲覧。
- ^ a b c d 武部健一 2015, pp. 91–92.
山陽道
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播磨国 はりま(播州) 美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。 備前国 びぜん(備州) 備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州) 備後国 びんご(備州) 安芸国 あき(芸州) 周防国 すおう/すはう(防州、周州) 長門国 ながと(長州)
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山陽道
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「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「山陽道」の解説
播磨 明石 元号西暦町方人口天和3年 1683年 8,415 享保6年 1721年 8,923 明治6年 (総数) 1873年 14,410 (典拠は『兵庫県史』) 姫路 元号西暦町方人口慶安元年 1648年 22,125 慶安2年~寛文7年 1660年頃 22,426 寛文7年 1667年 24,140 天和4年 1684年 21,362 天和2年~宝暦元年 1700年頃 21,526 元禄17年 1704年 22,309 宝永6年 1709年 22,158 享保18年 1733年 22,499 元文5年 1740年 22,256 寛保2年 1742年 20,949 寛延2年 1749年 18,769 宝暦年中 1755年頃 22,390 宝暦10年 1760年 17,034 明和2年 1765年 17,064 明和8年 1771年 16,329 文化6年 1809年 14,725 弘化2年 1845年 13,872 明治6年 (総数) 1873年 24,521 (典拠は『姫陽秘鑑』、三浦俊明 『譜代藩城下町姫路の研究』) 龍野 元号西暦町方人口享保8年 1723年 4,120 天明8年 1788年 4,125 寛政10年 1798年 3,999 天保4年 1833年 3,568 天保13年 1842年 3,383 弘化3年 1846年 3,466 安政3年 1856年 3,475 元治元年 1864年 3,491 明治6年 (総数) 1873年 5,170 (典拠は『龍野市史』) 加里屋 (赤穂) 元号西暦町方人口宝永3年 1706年 4,744 文政8年 1825年 3,195 天保年中 1840年頃 3,080 明治6年 (総数) 1873年 7,134 (典拠は『赤穂市史』) 美作 津山 享保10年(1725年)編纂の『作州記』によると、寛文年中(1665年頃)の武家人口は1万3321人。元禄の頃の推定人口は約3万人。 元号西暦町方人口寛文年中 1665年頃 14,349 元禄11年 1697年 16,445 元禄12年 1698年 16,579 宝永4年 1707年 11,499 享保11年 1726年 9,991 元文3年 1738年 8,878 宝暦6年 1756年 7,940 明和5年 1768年 7,511 安永7年 1778年 7,281 寛政4年 1792年 6,775 寛政5年 1793年 6,924 文化元年 1804年 6,600 文化13年 1816年 6,861 天保3年 1832年 6,833 天保11年 1840年 6,404 嘉永5年 1852年 7,418 元治元年 1864年 7,881 明治2年 1869年 8,111 明治6年 (総数) 1873年 15,411 (典拠は『岡山県史』) 備前 岡山 宝永4年(1707年)の岡山町中乞食は346人、家中人口は1万0027人(町方・在方帳面記載分1万2170人、他国者431人を加えると2万2628人)、御城女中は70人、寺社方人口は7,932人であり、岡山の推定総人口は約4万5000人。 元号西暦合計町方人口奉公人等寛文7年3月 1667年 28,669 寛文7年8月 28,432 寛文8年 1668年 31,850 寛文9年 1669年 28,459 延宝8年 1680年 30,033 天和年中 1682年頃 30,133 宝永4年 1707年 30,635 28,298 2,337 享保2年 1717年 27,950 享保6年 1721年 30,296 享保17年 1732年 27,789 元文3年 1738年 26,349 宝暦3年 1753年 24,556 23,496 1,060 宝暦12年 1762年 24,190 明和3年 1766年 23,512 明和4年 1767年 23,537 明和5年 1768年 24,347 23,574 773 安永元年 1772年 23,096 安永2年 1773年 23,579 22,915 665 安永6年 1777年 23,342 22,728 614 天明3年 1783年 22,811 22,402 409 寛政10年 1798年 21,357 21,218 139 享和2年 1802年 21,212 21,084 128 文化9年 1812年 21,103 21,092 11 天保9年 1838年 20,173 嘉永7年 1854年 20,086 安政5年 1858年 20,101 20,092 9 明治2年 1869年 20,670 明治6年 (総数) 1873年 32,372 (典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)、谷口澄夫 『岡山藩政史の研究』) 備中 倉敷 倉敷は天領の「村」として扱われた。 元号西暦在方人口元号西暦在方人口寛文12年 1672年 2,536 寛政4年 1792年 6,897 延宝7年 1679年 2,788 寛政5年 1793年 6,984 延宝8年 1680年 2,746 寛政9年 1797年 6,997 延宝9年 1681年 2,779 文化3年 1806年 7,200 元禄7年 1694年 3,841 文化4年 1807年 7,227 宝永3年 1706年 4,487 文化13年 1816年 7,392 宝永7年 1710年 4,569 文化14年 1817年 7,380 正徳元年 1711年 1,077 文政8年 1825年 7,226 享保11年 1726年 4,816 文政9年 1826年 7,188 享保18年 1733年 5,392 文政13年 1830年 7,124 延享元年 1744年 5,774 天保6年 1835年 7,191 寛延2年 1749年 5,724 天保7年 1836年 7,211 宝暦2年 1752年 5,924 天保9年 1838年 7,987 宝暦4年 1754年 5,850 天保13年 1842年 7,067 宝暦6年 1756年 6,371 弘化2年 1845年 6,788 宝暦12年 1762年 6,617 弘化3年 1846年 6,838 明和元年 1764年 6,696 安政6年 1859年 6,678 明和2年 1765年 6,737 文久2年 1862年 6,477 明和5年 1768年 6,864 元治元年 1864年 6,250 明和7年 1770年 6,910 元治2年 1865年 6,218 安永4年 1775年 6,762 明治3年 1870年 6,446 安永6年 1777年 6,590 明治4年 1871年 6,440 寛政元年 1789年 6,715 明治6年 (総数) 1873年 6,357 (典拠は『倉敷市史』) 松山 (備中松山、高梁) 元禄7年(1694年)の町方1807軒5603人に対し、武家1974軒推定6048人。 元号西暦町方人口元禄7年 1694年 5,603 延享元年 1744年 3,597 明治6年 (総数) 1873年 5,501 (典拠は『高梁市史』) 備後 福山 (備後福山) 町方人口は寺社を含み、元禄10年、11年頃(1697年、1698年頃)の総人口は2万4786人。 元号西暦家中町方天和元年 1681年 12,942 元禄10年 1697年 12,989 元禄11年 1698年 11,797 宝永2年 1705年 12,523 安永元年 1772年 12,678 文化7年 1810年 7,900 明治6年 (総数) 1873年 17,643 (典拠は『広島県史』) 鞆町 元号西暦町方人口正徳元年 1711年 7,204 宝暦11年 1761年 5,864 文化年中 1810年頃 4,634 文化13年 1816年 4,794 明治5年 (総数) 1872年 6,003 (典拠は『広島県史』、『福山志料』) 尾道 元号西暦町方人口享保5年 1720年 7,031 享保12年 1727年 6,969 宝暦11年 1761年 8,277 天明6年 1786年 9,331 寛政元年 1789年 8,474 寛政4年 1792年 9,751 文化12年 1815年 9,488 明治6年 (総数) 1873年 9,722 (典拠は『広島県史』) 三原 元号西暦町方合計東町東地方西町西地方茅町寺院寛文11年 1671年 4,139 1,848 2,291 元禄16年 1703年 6,609 正徳2年 1712年 1,890 179 70 正徳5年 1715年 7,104 延享3年(合計は東西町分のみ) 1746年 4,127 146 宝暦11年(合計は東西町分のみ) 1761年 4,265 1,706 58 安永元年 1772年 6,067 1,685 118 2,000 1,875 249 140 安永2年 1773年 5,723 1,636 109 1,903 1,723 219 133 安永3年 1774年 1,965 1,431 219 安永9年 1780年 1,722 103 天明5年 1785年 1,916 寛政元年 1789年 1,782 寛政3年 1791年 1,947 享和2年 1802年 1,887 文化6年 1809年 2,052 144 文化12年 1815年 158 104 文政2年 1819年 6,378 2,031 2,112 2,235 文政4年 1821年 2,090 文政10年 1827年 2,110 天保4年 1833年 2,035 天保9年 1838年 4,044 2,326 天保10年 1839年 1,944 143 131 天保12年 1841年 6,353 1,902 1,851 2,326 弘化2年 1845年 2,076 嘉永4年 1851年 1,939 文久3年 1863年 2,060 明治6年 (総数)年 1873年 8,565 (典拠は『三原市史』) 安芸 御手洗 (大長村) 大長村は、御手洗・大長・沖友の三地区からなる。明治6年(1873年)の人口は御手洗港のみ。 元号西暦大長村合計御手洗町方宝永5年 1708年 638 寛保2年 1742年 929 寛延元年 1748年 957 宝暦5年 1755年 1,032 明和5年 1768年 1,543 537 天明3年 1783年 2,523 1,190 享和元年 1801年 2,982 1,570 文政2年 1819年 3,418 嘉永6年 1853年 4,047 明治6年 (総数) 1873年 1,553 (典拠は『広島県史』) 広島 正徳5年(1715年)の町組3958軒、新開組893軒、革組77軒に対して侍屋敷609軒、歩行以下拝領家354軒、小人多長屋等1万1690坪とあり、武家人口を含めた推定総人口は約6万8000人。幕末の推定総人口は約7万~8万人。 元号西暦合計町組新開地僧侶革田・定非人 寛文3年 1663年 37,212 36,142 1,070 延宝5年 1677年 38,491 31,205 6,201 1,085 正徳5年 1715年 48,351 37,155 10,855 341 延享2年 1745年 33,411 延享3年 1746年 33,191 宝暦10年 1760年 27,987 明和5年 1768年 28,693 安永6年 1777年 27,577 天明5年 1785年 27,230 寛政4年 1792年 48,790 27,695 21,095 寛政10年 1798年 29,116 寛政11年 1799年 29,211 寛政12年 1800年 29,247 文化6年 1809年 29,574 文化7年 1810年 29,631 文化12年 1815年 29,536 文化13年 1816年 28,940 文政5年 1822年 50,092 24,776 23,884 1,432 明治6年 (総数) 1873年 74,305 (典拠は『芸備国郡志』、『新修広島市史』、『広島県史』) 宮島 (安芸宮島、厳島) 元号西暦町方人口正徳5年 1715年 3,590 延享3年 1746年 3,728 寛政6年 1794年 3,513 文政2年 1819年 3,734 明治2年 1869年 3,712 明治6年 (総数) 1873年 3,594 (典拠は『広島県史』) 竹原下市 元号西暦町方人口享保17年 1732年 4,697 宝暦6年 1756年 4,913 明和4年 1767年 4,614 安永2年 1773年 4,332 天明6年 1786年 4,541 寛政8年 1796年 5,108 享和4年 1804年 4,695 文化7年 1810年 5,148 文政年中 1825年頃 5,172 天保5年 1834年 5,930 嘉永2年 1849年 5,951 慶応2年 1866年 5,772 明治4年 1871年 5,659 明治6年 (総数) 1873年 6,103 (典拠は『広島県史』) 周防 山口 複数の宣教師の記録により山口は室町時代から安土桃山時代にかけて5万~9万人前後の人口を有していたと推定されているが、江戸時代に入ると萩に城下町が移り、都市規模が大幅に縮小する。寛政4年(1791年)の山口町は町屋敷1685軒に対し侍屋敷数3軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は185軒(諸士51軒、足軽以下88軒、陪臣46軒)で、推定総人口は6500人。文久3年(1863年)以降再び山口藩の藩庁が置かれる。 元号西暦町方人口寛文7年 1667年 5,300 寛政2年 1790年 5,409 寛政3年 1791年 5,402 寛政4年 1792年 5,337 文政6年 1823年 5,268 文政7年 1824年 5,146 文政8年 1825年 5,311 文政9年 1826年 5,257 天保2年 1831年 5,341 天保3年 1832年 5,220 天保4年 1833年 5,187 天保5年 1834年 5,110 天保6年 1835年 5,176 天保年中 1840年頃 5,710 安政2年 1855年 5,784 安政3年 1856年 5,879 安政4年 1857年 5,908 安政5年 1858年 5,913 文久元年 1861年 5,983 文久2年 1862年 5,952 慶応3年 1867年 5,825 慶応4年 1868年 5,963 明治2年 1869年 6,160 明治6年 (総数) 1873年 9,279 (典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』) 三田尻 (防府) 三田尻・宮市両町の町方人口。寛政4年(1791年)の三田尻・宮市両町は町屋敷497軒に対し侍屋敷数313軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は6軒(諸士2軒、陪臣4軒)。 元号西暦町方・寺社方合計町方寺社方旅人寛政2年 1790年 3,739 3,516 223 224 寛政3年 1791年 3,709 3,478 231 253 寛政4年 1792年 3,778 3,553 225 213 文政6年 1823年 3,586 3,360 226 154 文政7年 1824年 3,551 3,330 221 135 文政8年 1825年 3,651 3,455 196 6 文政9年 1826年 3,590 3,429 161 2 天保2年 1831年 3,589 3,332 257 天保3年 1832年 3,603 3,370 233 天保4年 1833年 3,574 3,340 234 天保5年 1834年 3,725 3,464 261 天保6年 1835年 3,494 3,229 265 天保年中 1840年頃 2,995 安政2年 1855年 3,181 2,966 215 安政3年 1856年 3,167 2,949 218 安政4年 1857年 3,205 2,998 207 安政5年 1858年 3,354 3,096 258 文久元年 1861年 3,254 3,030 224 文久2年 1862年 3,264 3,038 226 文久3年 1863年 3,264 3,037 227 元治元年 1864年 3,181 2,966 215 慶応3年 1867年 3,093 2,900 193 慶応4年 1868年 3,264 3,065 199 明治2年 1869年 3,420 3,202 218 明治6年 (総数) 1873年 4,442 (典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』) 岩国 享保11年(1726年)の町方人口は、錦見町(2969人)、横山の川原町(136人)、川西町(461人)を合わせて3566人(典拠は『岩国市史』)。明治6年(1873年)の岩国の人口は1万1684人(錦見、横山、川原、および武家地区の岩国町の合計)。 長門 萩 元禄7年(1694年)の萩町屋敷3199軒1万3284人、浜崎町屋敷492軒802人に対し侍屋敷1324軒。享保2年(1717年)の萩町屋敷3090軒、浜崎町屋敷490軒合計1万6424人に対し侍屋敷1390軒。宝暦元年(1751年)の萩町方竈数3660軒に対し、18世紀半ばの屋敷方の把握する屋敷数は、諸士中抱居候936ヶ所、足軽以下抱居候269ヶ所、寺社屋敷112ヶ所、御用屋敷45ヶ所。寛政4年(1792年)の萩町屋敷2129軒1万1107人、浜崎町屋敷396軒923人に対し侍屋敷1251軒。明治6年(1873年)の『日本地誌提要』による人口4万5318人は椿郷東分村、椿郷西分村、山田村などの郊外を含んでいると考えられ、萩本町と浜崎から成る萩デルタ地帯の人口は3万0092人(『共武政表』)。 元号西暦萩町寺社方・浜崎町町方合計萩・浜崎町方合計萩町方浜崎町方萩寺社方萩旅人万治元年 1658年 8,278 寛文3年 1663年 9,110 8,710 400 元禄7年 1694年 14,086 13,284 802 享保2年 1717年 16,424 延宝3年 1746年 13,177 宝暦6年 1756年 13,114 天明6年 1786年 12,392 寛政2年 1790年 1,702 寛政3年 1791年 12,609 10,848 1,761 869 寛政4年 1792年 12,891 11,107 1,784 923 文政6年 1823年 1,930 文政7年 1824年 13,087 11,183 1,904 963 文政8年 1825年 12,936 11,046 1,890 834 文政9年 1826年 13,839 12,946 10,923 2,023 893 850 天保2年 1831年 2,171 865 天保3年 1832年 13,481 11,316 2,165 654 天保4年 1833年 14,245 13,391 11,196 2,195 854 667 天保5年 1834年 13,727 11,555 2,172 726 天保6年 1835年 13,236 11,051 2,185 724 安政2年 1855年 14,278 13,202 10,832 2,370 1,076 651 安政3年 1856年 14,322 13,231 10,801 2,430 1,091 669 安政4年 1857年 14,330 13,236 10,788 2,448 1,094 703 安政5年 1858年 14,534 13,417 10,972 2,445 1,117 712 文久元年 1861年 13,778 12,718 10,318 2,400 1,060 684 文久2年 1862年 13,441 12,372 10,024 2,348 1,069 695 元治元年 1864年 9,811 87 525 慶応3年 1867年 12,713 11,795 9,397 2,398 918 553 慶応4年 1868年 12,561 11,666 9,270 2,396 895 600 明治2年 1869年 12,699 11,827 9,429 2,398 872 639 明治6年 (総数) 1873年 45,318 (典拠は『山口県史』、『萩市誌』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』) 赤間関 (下関) ケンペルの『日本誌』によると元禄4年(1691年)の戸口は400~500軒、長久保赤水の『長崎行役日記』によると明和4年(1767年)の戸口は数千軒。江戸時代の赤間関の人口は長府(後の豊浦)藩領の赤間関12町のみであり、萩(長州)藩領の今浦・新地、清末藩領の竹崎・伊崎を除く。また天保9年の人口は阿弥陀寺町分の人口を欠く。 元号西暦町方人口元禄7年 1694年 5,229 寛政4年 1792年 8,299 天保9年 1838年 6,644 明治6年 (総数) 1873年 18,500 (典拠は『下關二千年史』、『下関市史』、『天保九年赤間関人別帳』)
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山陽道
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「高屋川 (芦田川水系)」の記事における「山陽道」の解説
流域の神辺町上・下御領、湯野では縄文時代から中世・近世までの遺跡が発見されている。遺跡の底には粘土質が堆積していたことから、周辺河川も含めて古くから河川氾濫していたと考えられている。また弥生時代の遺跡では吉備系や山陰系の土器が発見されていることから、古くから他地方との接点があったと考えられている。令制国では吉備国から備中国と備後国に分割され、その境は流域を縦断するようになった。 古代、高屋川が形成した谷底平野に沿って山陽道が整備され、現在の神辺町御領に駅家安那駅が置かれた。この付近の山陽道筋は、中世・近世(西国街道)・近代(国道2号)と備中・備後地方の主要道として更新され、現代に入り国道2号が南に移るまで用いられた。 @media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 中世までの高屋川は、山野川(小田川上流部)からの川水が井原から西側に流れて高屋川に合流していたため、その水量は今よりも豊富であったと推定されている。また中世まで高屋川と芦田川は片山の東側で合流していた。神辺平野は高屋川以外にも神谷川・服部川など他の芦田川支流からも川水が流下していたため広い範囲で低湿地帯だったと推定されている。神辺は陸運・水運の要所として栄え、それを支配できる位置に神辺城が築かれ、その城下町としても発展した。 戦国時代、高屋川の流域には城がいくつも作られ、神辺合戦など所領を巡って合戦が続いた。 江戸時代当初、当地は広島藩主福島正則が治めた。近世山陽道(西国街道)が整備され、備後と備中の国境に高屋宿が、そして神辺宿、井原に七日市宿が宿駅として置かれた
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山陽道
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播磨国 (飛鳥・白鳳寺院数:約29カ所)、小神廃寺が最古の可能性がある 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考明石郡 吉田南遺跡? 太寺廃寺 賀茂郡 河合廃寺? 他に広渡廃寺 賀古郡 溝之口遺跡 周辺に野口廃寺 揖保郡 小神芦原遺跡? 周辺に小神廃寺 佐用郡 長尾・沖田遺跡? 長尾廃寺が隣接 印南郡 塩田遺跡? 中西廃寺と山角廃寺のみ 詫賀郡 思い出遺跡 多哥寺遺跡(量興寺の前身) 飾磨郡 播磨国分寺・尼寺ふくめ5寺跡 神崎郡 唯一:溝口廃寺 宍粟郡 唯一:千本屋廃寺 赤穂郡 唯一:与井廃寺 備前国 賞田廃寺跡(上道郡)が最古で、その南にハガ遺跡(国府寺?)や幡多廃寺塔跡がある。 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考津高郡 富原北廃寺と神力寺跡(吉備津彦神社隣接))のみ 赤坂郡 赤坂門前遺跡? 備前国分寺・尼寺 美作国は713年に備前より分国。最古は英多郡大海廃寺か大庭郡五反廃寺(西口A遺跡は郡衙?)が最古である 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考苫田郡 美作国府の前身 英田郡 高本 江見廃寺 勝田郡 勝間田・平遺跡 存在を推定 久米郡 宮尾遺跡 久米廃寺(岡山県史跡) 備中国を含めた吉備最古の本格寺院として秦原廃寺(総社市、下道郡)がある 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考英賀郡 小殿遺跡 英賀廃寺 賀夜郡 近接を想定 栢(かや)寺廃寺 郡名寺院 窪屋郡 三須河原遺跡 三須廃寺が隣接 都宇郡 幸利神社周辺? 惣爪廃寺が近接 備中国分寺・尼寺 浅口郡 唯一:占見廃寺 小田郡 唯一:関戸廃寺 後月郡 唯一:寺戸廃寺 備後国 広島県立みよし風土記の丘によると、広島県内最古は横見廃寺で、「備後南部は特に多く、他の地域は1つの郡に1寺程度が分布」と展示されている。 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考三谷郡 三谷寺 寺町廃寺 『日本霊異記』上巻 第7 三次郡 下本谷遺跡 安芸国 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考高宮郡 郡山城下町遺跡・郡山大通院谷遺跡?
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山陽道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 07:19 UTC 版)
赤穂市と上郡町との行政境界には幾つかの峠があり、その1つが鯰峠である。鯰峠の南には、江戸時代の山陽道が越えていた鯰峠よりも勾配が急で難路だった有年坂峠があり、徒歩でなら通行できる。しかし、有年坂峠は急勾配だったために、かつての山陽道を踏襲した国道の国道2号は鯰峠の側に迂回する経路に変更された。なお、この付近の山陽道の経路が変更されたのは初めてではなく、この付近の古代の山陽道は兵庫県道5号姫路上郡線に近い経路だった。
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「山陽道」の例文・使い方・用例・文例
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