岡崎市長に就任
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県議選に落選した直後の同年11月23日、岡崎市長・小瀧喜七郎が突然辞任を表明。辞任の原因は、岡崎民政倶楽部と岡崎民政青年団の対立によるものだと言われている。12月23日、民政倶楽部のリーダーだった菅野が岡崎市長に選任された。 4年後の1939年(昭和14年)、次期市長が決まらぬまま12月22日の任期満了を過ぎてしまう。当時の市長は市会議員による間接選挙で選ばれていたが、菅野支持派が多数を占められなかったためである。翌1940年(昭和15年)1月24日、前市長の小瀧を助役とすることを条件に、米騒動当時の岡崎警察署長で日本大学理事の双川喜一郎から市長就任の承諾が一旦は得られる。しかし結果として同年2月22日に菅野が再選した。同年9月19日、市役所を籠田町(現・康生通南3丁目)から十王町に移転新築する。1944年(昭和19年)、3選。 1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲に際しては、私邸の焼失も顧みず市役所に駆けつけて消火を指揮し、戦火から庁舎を守り抜いたという。 1946年(昭和21年)10月21日、昭和天皇が戦災復興視察のため岡崎市へ行幸。郵便局庁舎の屋上から復興状況の説明を行う。同年11月1日、公職追放に先立ち自主的に退職するよう国から促され、市長を辞任。退職後も大樹寺保存会長として同寺の国宝修理に尽力するなど、公共事業に奉仕を続けた。1948年(昭和23年)2月10日に焼失した龍城神社社殿の再建にも関わった。 1956年(昭和31年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。同年12月18日、市内亀井町の自宅で死去。享年79。
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岡崎市長に就任
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1930年(昭和5年)12月5日、岡崎市長・本多敏樹が任期満了により退任。当時、本多の4選も可なりという態度をとっていた岡崎市会多数派の政友会に対し、民政党の一派である岡崎民政青年団系の議員は、岡崎町時代からの助役の小瀧喜七郎を推そうとしていた。民政党の別の一派である岡崎民政倶楽部系の議員は、同僚の小野の擁立をはかっていた。結果として12月12日、小野が岡崎市長に就任した。 1931年(昭和6年)11月、市長選任に関連して、民政党の市議が政友会系の市議10数人を羽根町の料亭花屋に招いて饗応していたことが発覚(花屋事件)。饗応を受けた議長の竹内京治のほか、3名の市議が起訴処分を受け収監された。裁判の結果、竹内、酒井慶蔵市議、岡本又次市議が有罪となった(竹内のみ執行猶予)。小野は直接関わったわけではなかったが、責任をとって同年12月8日に市長を辞任した。 1938年(昭和13年)9月6日、死去。61歳没。
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岡崎市長に就任
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1947年(昭和22年)4月5日に行われた第1回公選岡崎市長選挙に出馬。志賀重昂の長男の志賀富士男、元岡崎市長の本多敏樹ら3人の候補を破り初当選した。 1951年(昭和26年)3月31日、任期満了を前にした竹内は臨時市議会で、戦災復興と財政・地方自治制の確立、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)誘致問題等を回顧し、4年間の議会の協力を感謝しつつ退任の挨拶をする。ところが引き続いて開かれた全員協議会で次期市長の推薦が満場一致で決定され、同年4月、無投票で再選を果たす。 1955年(昭和30年)2月1日、岩津町、福岡町、本宿村、山中村、藤川村、竜谷村、河合村、常磐村の周辺8町村の合併を、4月1日には矢作町の合併を実現する。4月30日の市長選で、元衆議院議員の千賀康治、岩津農商学校創立者の足立一平らとの激戦を制し3選。同年6月、太田光二の義弟の浅岡齋を助役に抜擢。 1958年(昭和33年)、岡崎城の復元に着手。設計を城戸久に依頼。4月10日に地鎮祭を行い、工事は8月29日から開始した。
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