岡本綺堂とは? わかりやすく解説

おかもと‐きどう〔をかもとキダウ〕【岡本綺堂】


岡本綺堂

読み方おかもと きどう

劇作家劇評家東京生。本名敬二、初号は狂綺堂、別号に甲字楼主人。『修禅寺物語』が出世作となる。主として市川左団次のために脚本を書く。大衆小説半七捕物帳』は有名。芸術院会員昭和14年1939)歿、68才。

岡本綺堂(おかもと・きどう)

本名岡本敬二。1872年(明5)、東京芝高輪生まれ。別名甲字楼主人。父の敬之助は奥州二本松藩士の三男生まれたが、のちに徳川幕府御家人養子となり、神奈川奉行所務める。明治維新の際は佐幕派属し奥州転戦英国商人元に潜伏したこともある。明治後は語学力買われ英国大使館勤務。綺堂の語学力このような影響下で培われる
父が九代市川団十郎親交があった関係で、戯作発表
1890年(明23)、東京日日新聞社編集校正見習として入社し、狂綺堂名義劇評執筆
1891年(明24)、「東京日日新聞」に小説高松城」を発表
1893年(明26)、中央新聞社移り以降1913年(大2)まで絵入日報社、東京新聞社やまと新聞社など新聞社転々とする。
1896年(明29)、「歌舞伎新報」に「紫宸殿」を発表
1902年(明35)、岡鬼太郎合作により、狂綺堂名義で「金鯱噂高浪」を発表
1911年(明44)、狂綺堂名義で、二代目市川左団次のために「修善寺物語」を発表以降、「番町皿屋敷」など新歌舞伎創造河竹黙阿弥以後、もっとも優れた劇作家称された。
ドイル影響を受け、1917年(大6)、「文芸倶楽部」に「半七捕物帳」(最初は「江戸探偵名話」。ついで「半七聞書帳」)の第一作お文の魂」を発表以降、「半七捕物帳」は1936年(昭11)まで、「新青年」「週刊朝日」「サンデー毎日」「写真報知」「講談倶楽部」に発表ちなみに捕物帳」という言葉は綺堂が創造したもの。
1930年(昭5)、自ら監修する戯曲誌「舞台」を創刊
1937年(昭12)、帝国芸術院会員となる。
1939年(昭14)、肺浸潤により死去



岡本綺堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/25 22:59 UTC 版)

(おかもと きどう、1872年11月15日明治5年10月15日) - 1939年3月1日)は、日本の小説家劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)[1]。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。帝国芸術院会員。




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