岩倉地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 16:09 UTC 版)
かつての山城国愛宕郡岩倉村および近代の岩倉村(大字)岩倉に相当する。本地域は、北は岩倉村松町、南は京都国際会議場まで、岩倉盆地内で最も多くの面積を占める地域である。 岩倉上蔵町( - あぐらちょう) 町名はかつての小字名「上蔵町(上蔵在地町)」に由来し、洛北の在郷町として早くから発達してきたことを示している。平安時代以来の古刹である大雲寺が信仰を集め、江戸時代以来、近代医学以前の精神病者を受け入れ、療養地となったことで知られる。心の病に悩む人々が祈願のために集まり、宿屋や茶屋が増え自然発生的にコロニー化した当地は、精神科医療の先進地であるベルギーのゲールに例えられ「日本のゲール」と呼ばれる。そうした伝統から、岩倉病院を初め多くの病院施設が集中している。また、実相院門跡が室町時代に応仁の乱の戦火を逃れ、大雲寺境内へと移転してきた。幕末期には、反幕派公家であった岩倉具視が難を避けて一時隠棲していたこともあり、その旧居が現在も保存・公開されている。 岩倉中在地町( - なかざいじちょう/なかざいちちょう) 町名はかつての小字名「中在地町」に由来し、洛北の在郷町として早くから発達してきたことを示している。 岩倉忠在地町( - ちゅうざいじちょう/ちゅうざいちちょう) 町名はかつての小字名「忠在地町」に由来し、洛北の在郷町として早くから発達してきたことを示している。町の中南部では、「岩倉忠在地遺跡」が発掘され、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡や古墳などが出土した。旧岩倉村役場や岩倉駅、かつて岩倉唯一の小学校であった明徳小学校や洛北中学校の所在地となるなど、近代以降に岩倉地域の中心として発展してきた地区である。戦後南半部で開発が進み府道105号岩倉山端線沿いに商業施設・金融機関が集中し商店街を形成している。 岩倉下在地町( - しもざいじちょう/しもざいちちょう) 町名はかつての小字名「下在地町」に由来し、洛北の在郷町として早くから発達してきたことを示している。 岩倉西河原町( - にしがわらちょう) 町名はかつての小字名「西河原町」に由来する。 岩倉北四ノ坪町( - きたよんのつぼちょう) 岩倉南四ノ坪町( - みなみよんのつぼちょう) 上記2町の町名はかつての小字名「四ノ坪(しのつぼ)」に由来する。地名に残る「四ノ坪」は、条里制で土地が区切られていた名残であると考えられている。現在の街路が京都市内中心部とは異なり若干東西南北から傾いているのも条里制が原点となっている。 岩倉大鷺町( - おおさぎちょう) 町名はかつての小字名「大鷺」の地名に由来する。岩倉忠在地遺跡の内、古墳時代の集落遺跡が発掘され、古い時代から開発が進んでいたこの地域の中心であったことが知られる。同志社岩倉校地が所在するなど、文教地区としても知られる。 岩倉中大鷺町( - なかおおさぎちょう) 町名は大鷺町より分割して設置されたことに由来する。 岩倉南大鷺町( - みなみおおさぎちょう) 町名は大鷺町から分割して設置されたことに由来する。 岩倉西五田町( - にしごたちょう) 岩倉東五田町( - ひがしごたちょう) 上記2町の町名はかつての小字名「五田」に由来する。 岩倉北桑原町( - きたくわばらちょう) 岩倉南桑原町( - みなみくわばらちょう) 上記2町の町名はかつての小字名「桑原」に由来する。 岩倉中河原町( - なかがわらちょう) 町名は(旧)岩倉西河原町の中部に位置したことに由来する。 岩倉南河原町( - みなみがわらちょう) 町名は(旧)岩倉西河原町の南部に位置したことに由来する。 岩倉西宮田町( - にしみやたちょう) 岩倉東宮田町( - ひがしみやたちょう) 上記2町の町名はかつての小字名「宮田」に由来する。 岩倉三笠町( - みかさちょう) 町名はかつての小字「脇」にあった地名「三笠」に由来する。 岩倉村松町( - むらまつちょう) 町名は地域の通称名「村松」に由来し、岩倉地区の最北に位置する。大坂夏の陣に馳せ参じた越後村松の上杉勢の一部が大坂落城のあと、岩倉に身を潜めた。(一説に、本能寺の変の折り、豊臣秀吉と呼応して織田信長の救援に来た越後勢の一部が、事遅れ志ならず、岩倉に住みついた。)その土地が岩倉村松であるという伝承が残る。また、村松団地造成の際、岩倉中在地遺跡が発掘され、縄文時代から江戸時代にかけての石器や土器、銅銭などが出土した。
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