平資盛の子とする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:26 UTC 版)
一般に流布している織田氏の系図では、親真を平資盛と資盛の愛妾であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。 寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は忌部親澄の養子となり、忌部姓へ改め、神官についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛(覚性)と号したとされる。 しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長が天下統一した際に、本姓を藤原氏(藤原北家利仁流?)から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものである。2011年(平成23年)11月1日、福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、資盛の子だとすると100歳を超えることが明らかとなったため、小和田哲男は平氏に繋がる家系図は書き換えたものとしている。
※この「平資盛の子とする説」の解説は、「平親真」の解説の一部です。
「平資盛の子とする説」を含む「平親真」の記事については、「平親真」の概要を参照ください。
- 平資盛の子とする説のページへのリンク