廃止まで
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1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると、特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの輸送密度が123人/日しかなかった白糠線は、1981年(昭和56年)に第1次特定地方交通線に指定された。この時点での白糠線は、営業係数2,872(100円稼ぐのに2,872円かかる)という大赤字路線で、白糠町も特定地方交通線の廃止基準が決まった時点で「もう助からないと腹に決めた」と思ったという。 当初は白糠町も廃止反対の立場であったが、その理由は「未成線である」という1点のみであった。また、同様に廃止問題を抱えていた自治体で構成されていた「北海道特定地方交通線関係市町村協議会」は、それまでは廃止反対という統一行動をとっていたが、1982年3月に「各線区ごとに地元の事情を勘案して検討」という方向性に切り替えた。白糠線は全線が白糠町内であり、複数の自治体を走る他線に比べ地元自治体からの了承取り付けは容易であったこと、ほぼ並行して国道392号が通っており、しかも集落は線路沿いよりも国道沿いにあったことなどの条件もあり、同年8月31日には白糠町議会でバス転換の方針を固め、7ヶ月の間に5回の協議を経た1983年3月には全会一致でバス転換に関する合意が成立した。 なお、白糠線の建設当時に農地を提供した住民からは「たった10年余りで廃止になること」への不信感は強かったが、毎年赤字ワースト上位で新聞に載る路線だけに「鉄道とはこんなものだ」という諦めの気持ちも強かったために(同じ北海道の美幸線の様な)強硬な反対運動はなかったとみられている。どの報道メディアでも「廃止になっては死活問題」という地元住民の声は全くなく、それどころか「廃止になるので一度乗っておこう」という沿線住民が多かった。 こうして、白糠線は1983年(昭和58年)10月22日限りで、特定地方交通線の先陣を切って廃止された。最終日は定期列車に増結が行われたほか、臨時列車も2往復運行され、そのうち1往復は10両編成という長大編成であった。開業から19年、上茶路 - 北進間が延伸開業してわずか11年後であった。また、1972年の延伸区間は「バス転換された特定地方交通線」としては最後の開業となった大隅線の延伸区間の1日前の開業であった。
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廃止まで
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上記の経緯から、生徒募集も軍人・軍属の男児から優先的に行われ、学校生活も他校に比べて軍隊色がより濃く、教職員も関東軍人が多かったという。また、校歌は大伴家持が詠んだ「磯城島の大和の国に明けき名に負ふ伴の緒心つとめよ」(『万葉集』第20巻、4466番)の短歌にメロディを付したもの、校章は北斗七星にちなんだ七芒星をデザインしたものであった。 開校から3年余、1945年8月のソ連軍満州侵攻開始により学校は最期を迎える。教職員・生徒は部隊に編成されて日本への引き揚げを開始するが、敗戦の混乱の中での帰還は順調に進まず、しばらく大陸に残留せざるを得ない者も出た。学校としては同年8月23日、福岡県立福岡中学校校庭での解散式挙行をもって、正式な廃校となった。星輝中学校に最後に入学したのは第4期生で、卒業者は出さなかった。
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廃止まで
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「名古屋中エフエムラヂオ放送」の記事における「廃止まで」の解説
2009年4月1日から放送を休止。音声が流れない状態(無変調)に。金融危機に伴う世界経済の悪化によって在日ブラジル人の雇用が悪化し、顧客としていた企業のスポンサーが降板したことによる。 2009年4月7日午後、停波。 2009年7月17日に株主総会で会社の解散を決定。 2009年7月22日に廃止届を提出、翌7月23日に受理され、7月31日をもって正式に廃局。 2009年11月25日、名古屋地方裁判所から破産手続開始決定を受ける。負債総額は約200万円。
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