後世の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 13:23 UTC 版)
鎌倉中期の早馬神社縁起や江戸時代の仙台藩編纂地誌『奥羽観蹟聞老志』『封内風土記』『封内名跡志』『風土記御用書出』によると、俗名は梶原景実(かじわら かげざね)。梶原景時の兄で、梶原専光坊僧正景実ともいうとの記載があり、晩年に梶原神社、早馬神社を創建したとされる。 建保5年(1217年)、専光房は源頼朝の死去、梶原一族の没落、畠山氏、和田氏が滅んでいくのを見て、世を憂い鎌倉を離れ、藤原高衡ゆかりの石浜(宮城県気仙沼市唐桑町)にたどりつき、 源頼朝、梶原景時、梶原景季の御影を安置し、一族の冥福を祈り梶原神社を建立した。 2年後、専光房は猶子とした梶原景茂(景時の三男)の子である大和守景永と共に、早馬山頂に早馬神社を建立し、現在も直系子孫が宮司を務めている。
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