憂国忌とは? わかりやすく解説

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ゆうこく‐き〔イウコク‐〕【憂国忌】

読み方:ゆうこくき

三島由紀夫忌日11月25日短編小説として発表し、のちに自ら映画製作した作品憂国」にちなむ。三島忌


憂国忌

読み方:ユウコクキ(yuukokuki)

三島由紀夫忌日

季節

分類 宗教

月日 十一月二十五日


憂国忌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/09 01:47 UTC 版)

憂国忌(ゆうこくき)は、作家・三島由紀夫命日11月25日にちなんで、憂国忌実行委員会が毎年開催している追悼集会[1][2]。憂国忌実行委員会は、「三島由紀夫研究会」に事務局を置いている[1][2]

成り立ち

1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫割腹自決事件が発生(三島事件)。これを受けて同年12月11日、林房雄を発起人総代とする実行委員会により「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が開かれた[1][2]。司会は川内康範藤島泰輔が務めた。実行委員は民族派学生(日本学生同盟)で、集まった人々は3,000人以上(一説には7,000人)となった[1]。500人収容の会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まった。この時は、事件に対する政府首脳やマスコミの反応に同調し、追悼参加を躊躇した文化人が多かったという[2]。これが後の追悼集会「憂国忌」の起源となった。

1971年(昭和46年)11月25日、「憂国忌」(第2回追悼の夕べ)が、林房雄を発起人代表として九段会館で行なわれた。名称が「憂国忌」に決まるまでには、「潮騒忌」、「金閣忌」などの案もあったという[2]乃木神社宮司・高山貴を斎主にした鎮魂祭黛敏郎ほかの追悼挨拶・献花、映画『炎上』の上演、空手や剣道の奉納演武などが催された。楽屋には三島の父・平岡梓が林房雄を訪ね、礼を述べにやって来たという[2]

以降、「憂国忌」は毎年行なわれている。福岡でも1971年(昭和46年)から毎年、新嘗祭11月23日には「福岡憂国忌」が行なわれている。また、「憂国忌」のほか、毎年11月24日には「野分祭」という森田必勝辞世の句にちなんで名づけられた追悼会も、一水会主催により行なわれている[3]

おもな発起人

追悼の夕べ(初回追悼会)

総代
林房雄
代表発起人
川内康範五味康祐佐伯彰一、滝原健之、武田繁太郎中山正敏
藤島泰輔舩坂弘北條誠黛敏郎保田與重郎山岡荘八
発起人
会田雄次、阿部正路、伊藤桂一宇野精一大石義雄大久保典夫大島康正桶谷繁雄、小野村資文、
川上源太郎河上徹太郎川口松太郎川端康成、岸興祥、岸田今日子倉橋由美子小林秀雄小山いと子今東光
エドワード・G・サイデンステッカー坂本二郎佐古純一郎清水崑進藤純孝杉森久英曽村保信
高鳥賢司、高橋健二多田真鋤立野信之田中澄江田中美知太郎田辺貞之助田辺茂一田村泰次郎
中谷孝雄中河与一、中河幹子(中河与一夫人)、六代目中村歌右衛門十七代目中村勘三郎二代目中村鴈治郎中村菊男
荻原井泉水長谷川泉林武平林たい子福田恆存福田清人福田信之水上勉村松剛

憂国忌

2020年(令和2年)10月現在(五十音順)

代表発起人
入江隆則桶谷秀昭竹本忠雄富岡幸一郎
中村彰彦西尾幹二細江英公松本徹村松英子
発起人
阿羅健一井川一久、池田憲彦、猪瀬直樹井上隆史、植田剛彦、潮匡人
大久保典夫、小埜裕二、小山和伸門田隆将川口マーン恵美、河内孝
黄文雄後藤俊彦桜林美佐、佐藤秀明、佐藤雅美新保祐司
杉原志啓ヘンリー・スコット=ストークス石平、高山亨、高山正之
田中英道田中秀雄田中健五田中美代子
堤堯柘植久慶都倉俊一
中西輝政西村幸祐西村眞悟
花田紀凱東中野修道、福井義高、福田逸福田和也藤井厳喜
古田博司ペマ・ギャルポ松本道弘三浦小太郎水島総、南丘喜八郎、三輪和雄
室谷克実八木秀次山崎行太郎山村明義
吉田好克、ロマノ・ヴィルピッタ
三島由紀夫研究会
玉川博己(代表幹事)
憂国忌実行委員会
宮崎正弘(世話人代表)、佐々木俊夫(現場責任者)、後藤修一(2018年7月死去)、斎藤英俊、高柳光明、武田浩一、正木和美、松島一夫、宮川英之、山本之聞、吉野洋子

発起人物故者

会田雄次、相原良一、浅野晃葦津珍彦麻生良方、阿部正路、天野貞祐荒木俊馬
荒木精之、安津素彦、飯守重任、池田弘太郎、池田彌三郎石川忠雄石堂淑朗、石原萌記、井尻千男
市原豊太伊東深水、井上源吾、井上友一郎伊吹一伊部恭之助今泉篤男、入江通雅、
岩田専太郎岩淵辰雄内海洋一宇野精一浦野匡彦江藤淳、江藤太郎、遠藤浩一遠藤周作
大石義雄大蔵雄之助大島康正太田静六、大橋完造、大浜信泉、大平善悟、岡潔岡崎功緒方浩
岡村光康、岡本成蹊荻原井泉水奥野健男桶谷繁雄小高根二郎
小田村四郎小田村寅二郎、小野村資文、小汀利得
嘉悦康人、景山哲夫、影山正治春日井薫片岡鐵哉堅山南風勝部真長加藤芳郎
金井兼造、神川彦松神谷不二川内康範河上徹太郎川口松太郎川副国基川端康成
上林暁木内信胤気賀健三、菊地藤吉、岸田今日子木下一雄木下和夫木俣秋水
金田一春彦草野心平久住忠男楠本憲吉久世光彦、工藤重忠、倉橋由美子、倉林和男、
倉前盛通、栗原広美、呉茂一黒岩一郎黒川紀章、桑原寿二、源田実、河野司、
越路吹雪五社英雄古関裕而小谷豪治郎近衛秀麿小林秀雄小室直樹今東光
エドワード・G・サイデンステッカー、齋藤五郎、斎藤忠佐伯彰一酒井忠夫、酒枝義旗、坂西志保
嵯峨根辰彦、佐藤欣子佐藤誠三郎サトウハチロー佐藤雅美佐藤亮一、篠喜八郎、篠沢秀夫篠田康雄
柴田勝治柴田錬三郎清水馨八郎清水崑清水文雄進藤純孝神保光太郎末次一郎
助野健太郎杉森久英関岡英之世耕政隆相馬雪香曾村保信高田好胤高田博厚、高鳥賢司、
高橋健二、高山貴、滝口宏、滝口直太郎、滝原健之、武智鉄二多田真鋤立松和平田中澄江
田中卓、田中直吉、田中正明田辺貞之助田辺茂一、玉利齊、田村幸策田村泰次郎、辻美沙子、
角田時雄、鶴田浩二寺内大吉、寺川知男、堂本正樹遠山景久戸川昌子富木謙治
中井勝彦、長岡實中川一郎中河幹子中河与一永井正永田雅一中谷孝雄中西旭
永野茂門中村粲六代目中村歌右衛門十七代目中村勘三郎二代目中村鴈治郎
中村菊男中村草田男、中村泰三郎、中村汀女、中山優、中村和敬、名越二荒之助、奈須田敬、
南原宏治、西泰蔵、西内雅、西川鯉二郎、西高辻信貞、西部邁西村繁樹西山廣喜西脇順三郎
野島秀勝、野田福雄、野村喬
萩原龍洋、橋本芳契長谷川泉長谷川才次花岡信昭、林三郎、林武林忠彦林房雄林富士馬
弘津恭輔、平林たい子、平山重正、福田恆存福田清人福田信之福地重孝藤浦洸
藤島泰輔藤原義江、二村富久、舩坂弘北条秀司北条誠坊城俊民保昌正夫
細川隆一郎細川隆元、堀信夫、堀口大学本多顕彰
前川佐美雄、町春草、松浦竹夫、松下正寿初代松本白鸚松本明重黛敏郎、三浦重周、
水谷八重子光岡明三潴信吾宮崎清隆三好行雄三原淳雄三輪知雄、武藤光明、村尾次郎
村上元三村上兵衛村野四郎村松剛村松定孝森克己森三十郎森下泰森下元晴諸井薫
安岡正篤保田與重郎、矢野潤、山田五十鈴山室静山本卓眞山本夏彦、夜久正雄、吉田精一
吉原恒雄、吉村正横山泰三、渡辺公夫、渡辺茂渡辺銕蔵

パリ憂国忌

1971年6月にも、フランスパリで第一回の「パリ憂国忌」が、竹本忠雄黛敏郎、詩人・エマニュエル・ローテンをはじめとしたフランス人有志により、開催された [4][5]

ローマ憂国忌

京都産業大学教授のロマノ・ヴィルピッタが母国イタリア日本浪曼派や三島を紹介したことで、古代ローマと三島に共通する価値観が研究され始め、三島人気が高まったローマでも「ローマ憂国忌」が開催された[5]

脚注

  1. ^ a b c d 佐藤秀明「憂国忌」(事典 2000, pp. 619–620)
  2. ^ a b c d e f 三島由紀夫研究会「プロローグ あれから四十年が経過した」「第一章『憂国忌』前史」憂国忌40 2010, pp. 15–56
  3. ^ 一水会公式サイト
  4. ^ 竹本忠雄「第二章 第一回パリ憂国忌」(竹本 1998, pp. 45–72)
  5. ^ a b 三島由紀夫研究会「第六章 追悼二十年目の高揚」憂国忌40 2010, pp. 193–212

参考文献

外部リンク



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