成立までの経緯
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「中華人民共和国国防教育法」の記事における「成立までの経緯」の解説
38条項からなる法律で2001年4月28日に中華人民共和国主席令(第五十二号)によって公布、同日施行。天安門事件やソ連崩壊による民衆の軍部離れに危機感を抱いた指導者が、さまざまな愛国主義教育を実施し、それの集大成として成立したのが同法であるとの指摘が多い。類似名称として「中華人民共和国教育法」(1995年)があるが別のものである。また、同法に伴い、毎年9月の第3土曜日を法定「国防教育日(別名、全民国防教育日)」と定め、「愛国主義教育基地」と名付けた軍事設備での無料観覧運動などを推進しており、観光・レジャーとセットとなった国防教育が推進されている。これらは以前から「国防教育は赤ん坊のときから始めよ」鄧小平との語録もあり、愛国教育など様々な形であり、1990年代より省レベルでの条例を策定していったのが嚆矢とされる。国防教育法に沿った形で、中国に1万3000の少年軍事学校が設立されている。
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成立までの経緯
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仁平元年(1151年)丹生忠正の孫の丹生雲厳に所領を与えた。 治承2年(1178年)丹生雲厳が保司より公文として認められ、太良保が成立した。 治承・寿永の乱後、関東より若狭守護に任じられた津々見忠季(後の若狭忠季・若狭島津氏の祖)が地頭として太良保に代官を置き、過酷な年貢取り立てや雑役を課し、公文や百姓と対立した。 建保4年(1216年)新国主源兼定が領家となり、後鳥羽院母の七条院が建立した歓喜寿院に寄進し、初の検注や田地目録等の作成を行い荘園整備が進んだ。 承久3年(1221年)正式に歓喜寿院領太良荘として成立したが、その直後に起きた承久の乱の混乱により、乱で戦死した忠季の後を受け、兄忠久の長男の忠時(後の島津宗家第2代)が若狭守護として太良保を支配した。 延応元年(1239年)歓喜寿院を領していた仁和寺の道深法親王が東寺の行遍に寄進を行い、本家を歓喜寿院、領家を東寺として、聖宴を預所に、定宴を代官として派遣し勧農を開始し翌年正式に東寺領荘園として成立した。
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成立までの経緯
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この頃の北宋は建国者である趙匡胤(太祖)からの文治主義政策が軍隊の弱体化を招き北方民族の侵入に苦しんでいた。そこで宋はそれらの民族たちに財貨を支払うことで和約し、異民族の侵入を防ぐ方針を採った。宋の第3代皇帝の真宗は1004年契丹族の遼との戦争を澶淵の盟により多額の財貨を毎年支払うことで終わらせた。しかしこの多額の財貨も宋の国力からみれば大した額ではなく、この後両国の平和が続き、経済的に大いに繁栄した。
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成立までの経緯
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1996年1月、テキサス州に住む少女、アンバー・ハガーマン(当時9歳)が誘拐される事件が起きた。 自宅近くで自転車に乗っていた彼女が誘拐されるところを近隣住民が目撃し、地元警察と家族に連絡した。地元警察は犯人や誘拐された少女の特徴を把握しており、それらの情報が早期に地域住民に知らされていれば彼女を発見出来る可能性は高かった。しかし、それらを住民に知らせるインフラストラクチャーは当時整っておらず、対応は大きく遅れた。結果、彼女は強姦され、殺害されてしまう。彼女の遺体は4日後に排水溝で発見、犯人は検挙されなかった。 この事件以降、児童誘拐事件の発生を地域住民に速やかに知らせる為のシステムを求める声が高まった。 アンバーアラートシステムの最初の計画は、竜巻や雷雨などの発生を知らせる為の緊急放送と同様の方法を用い、地元警察が主要ラジオ局にファックスを送信すると言うもので、ファックスを受け取った各ラジオ局は確認の後、さらにその下部のネットワークにそれらの情報を流す、と言うようなツリー構造のものであった。このやり方は一定の成果はあったものの、それらの情報伝達は全て人の手によって行われるものであり、情報伝達の過程で生じるエラーを防ぐことが出来なかったり、即応性が要求される児童誘拐事件に対応するには時間の損失が大きいものであった。また、あくまで情報の伝達が目的であり、現在のような(EAS等による)能動的な報知手段ではなかった。 1998年に非営利団体、Child Alert Foundationがアンバーアラートの自動化を策定し (Alert Notification System, ANS)、これによってテレビ局やインターネットを含む各種媒体へアンバーアラートを一元的に送信出来るようになった。 その後、2002年にNational Center for missing and Exploited Children(NCMEC)が設立され、アンバーアラートは大規模自然災害と同じレベルの緊急度で放送されるようになり、既に長期にわたって運用された実績のあるEASのインフラなどを用い、より能動的な報知が為されるようになった。
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成立までの経緯
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「南部アフリカ開発共同体」の記事における「成立までの経緯」の解説
1975年、白人国家ローデシアやアパルトヘイト体制の南アフリカ共和国と対決するフロントライン諸国(英語版)(FLS)がボツワナ、タンザニア、ザンビアによって結成され、タンザニアのジュリウス・ニエレレが議長を務め、1979年のアルーシャの会議でローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を目指した南部アフリカ開発調整会議(SADCC)の設立が決定される。 1980年、SADCCがザンビアのルサカで創設。 1992年、共同市場を目指した南部アフリカ開発共同体(SADC)に改組。 1996年、地域の安全保障問題を討議する。
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「ニュルンベルク諸原則」の記事における「成立までの経緯」の解説
1946年12月11日に国連総会は総会決議95(Ⅰ)を全会一致で採択したことにより、ニュルンベルク憲章およびニュルンベルク裁判の判決で認められた国際法の原則が確認された。1947年11月21日、国連総会は決議177(II)を採択し、国際法委員会(ILC)に対してこれらの諸原則の明文化を委託した。1950年7月29日、国連総会でILCが明文化した7つの諸原則を採択した。
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「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」の記事における「成立までの経緯」の解説
2005年にカンザス州教育委員会では、公教育において進化論と同様にインテリジェント・デザイン説(ID説)の立場も教えなければいけないという決議が評決されることになっていた。前年の教育委員の改選で委員6人中4人を保守派が占めており、可決は確実と見られていた。これに抗議するために、2005年6月、アメリカ合衆国のオレゴン州立大学物理学科卒業生のボビー・ヘンダーソンは公開質問状を提出した。ヘンダーソンは自分のサイト "venganza.org" (スペイン語で復讐の意)において創造主である空飛ぶスパゲッティ・モンスターの概略を示して、明らかな証拠や、それに基づいて進化を説明できる十分な論理性・整合性があると論じ、創造論の一部として「空飛ぶスパゲッティ・モンスター」を進化論やID説と同様に公立高校で教えることを公開質問状において提案した。 「 私は国中の、そしていつかは世界中の科学の時間にこの3つの理論がどれも等しく教えられるのを楽しみにできると思います。3分の1はインテリジェントデザインのため、3分の1はスパゲッティモンスター教のため、3分の1は圧倒的な量の観察可能な証拠に基づく論理的推論のため。 」 そしてもしこれが受け入れられないようなら法的手段をとると教育委員会に警告した。 その後、空飛ぶスパゲッティ・モンスターはインターネット上のミーム(流行)となり、ブログ(特に人気ブログ Boing Boing(英語版))などを中心に世界に広まった。カンザス州教育委員会にもインテリジェント・デザイン説を教える事に反対する人々がおり、ヘンダーソンはそのうち三人から空飛ぶスパゲッティ・モンスターに対する好意的な返事を受け取った。また、別の一人からは「神のまがい物を作るとは深刻な侮辱である」との返事があった。 その後の2005年11月、カンザス州教育委員会は多数決の結果、進化論は「単なる理論」であり、インテリジェント・デザイン説を同時に教える事などを定めた科学教育基準を採決し、インテリジェント・デザイン説派が勝利を収めるかたちとなった。しかし2006年の改選では、それを決定した委員は全員落選し、新たな委員会は元の基準を再び採用することを決めた。2007年2月には決議で改めて2005年の基準改定が拒否された。
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成立までの経緯
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「トランスヴァール共和国」の記事における「成立までの経緯」の解説
1830年代より、イギリス領ケープ植民地のオランダ系移民(ボーア人)が、イギリス統治への反発などから、内陸への集団移動を開始させた(グレート・トレック)。その結果、ヴァール川の北方(トランスヴァール)にボーア人が拠点を築くことになった。ケープ植民地との武力闘争を経て、1852年にサンド・リバー協定(英語版)が成立し、トランスヴァール共和国が成立した。
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成立までの経緯
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松井家は、宮本武蔵の細川家への仕官を仲介し、晩年の武蔵を後見し兵法の弟子になるなど、武蔵と深く関わった。そのため、武蔵からの書状や水墨画や工芸品など多くのゆかりの品々が伝えられた。また、松井家の家臣で、松井家の二天一流兵法師範である正脩の父・豊田正剛は、武蔵の晩年の弟子である道家角左衛門、山本源五左衛門、中西孫之丞、田中左太夫らが生前の武蔵について語った内容を、直接または間接的に聞き、覚書として残した。 父の跡を継いだ正脩は、武蔵の熊本での足跡やゆかりの品の所有者について調べた。その調査結果を正剛の覚書に加え、さらに武蔵が著した『五輪書』『独行道』、武蔵の養子である宮本伊織が手向山(現在の北九州市)に建てた新免武蔵玄信二天居士碑(小倉碑文)や寛文2年(1662年)の『羅山文集』、それらを記している享保元年(1716年)の『本朝武芸小伝』の武蔵に関する部分を参照し、宮本武蔵の史料を集めた。それらの史料を宝暦5年(1755年)にまとめ上げたものが『武公伝』である。
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成立までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 14:14 UTC 版)
各巻の奥書に、巻ごとの執筆開始日と終了日が記されている。 巻名 本文の枚数 執筆期間 第01帖 桐壺 89丁 正徳2年8月9日(1712年9月9日)から正徳2年9月1日(1712年10月1日) 第02帖 帚木上 72丁 正徳2年9月11日(1712年10月11日)から正徳2年10月10日(1712年11月8日) 第03帖 帚木下 23丁 正徳2年9月11日(1712年10月11日)から正徳2年9月19日(1712年10月19日) 第04帖 空蝉 17丁 正徳2年10月19日(1712年11月17日)から正徳2年10月26日(1712年11月24日) 第05帖 夕顔 92丁 正徳2年10月26日(1712年11月24日)から正徳2年11月28日(1712年12月26日) 第06帖 若紫 82丁 正徳2年11月29日(1712年12月27日)から正徳2年12月22日(1713年1月18日) 第07帖 末摘花 93丁 正徳3年1月2日(1713年1月27日)から正徳3年1月29日(1713年2月2日) 第08帖 紅葉賀 88丁 正徳3年1月29日(1713年2月2日)から正徳3年2月20日(1713年3月16日) 第09帖 花宴 47丁 正徳3年2月20日(1713年3月16日)から正徳3年2月29日(1713年3月25日) 第10帖 葵上 54丁 正徳3年2月29日(1713年3月25日)から正徳3年3月12日(1713年4月6日) 第11帖 葵下 85丁 正徳3年3月12日(1713年4月6日)から正徳3年4月3日(1713年4月27日) 第12帖 賢木上 71丁 正徳3年4月3日(1713年4月27日)から正徳3年4月17日(1713年5月11日) 第13帖 賢木下 80丁 正徳3年4月17日(1713年5月11日)から正徳3年5月2日(1713年5月25日) 第14帖 花散里 19丁 正徳3年5月2日(1713年5月25日)から正徳3年5月7日(1713年5月30日) 第15帖 須磨上 65丁 正徳3年5月5日(1713年5月28日)から正徳3年5月23日(1713年6月15日) 第16帖 須磨下 98丁 正徳3年5月23日(1713年6月15日)から正徳3年閏5月25日(1713年7月17日) 第17帖 明石上 60丁 正徳3年閏5月25日(1713年7月17日)から正徳3年6月9日(1713年7月30日) 第18帖 明石下 57丁 正徳3年6月9日(1713年7月30日)から正徳3年6月29日(1713年8月19日) 第19帖 澪標 90丁 正徳3年6月22日(1713年8月12日)から正徳3年7月13日(1713年9月2日) 第20帖 蓬生 59丁 正徳3年7月13日(1713年9月2日)から正徳3年8月2日(1713年9月21日) 第21帖 関屋 18丁 正徳3年8月2日(1713年9月21日)から正徳3年8月5日(1713年9月24日) 第22帖 絵合 76丁 正徳3年8月5日(1713年9月24日)から正徳3年9月2日(1713年10月20日) 第23帖 松風 77丁 正徳3年9月2日(1713年10月20日)から正徳3年9月27日(1713年11月14日) 第24帖 薄雲 76丁 正徳3年9月27日(1713年11月14日)から正徳3年10月22日(1713年12月9日) 第25帖 朝顔 62丁 正徳3年10月22日(1713年12月9日)から正徳3年11月11日(1713年12月28日) 第26帖 乙女上 59丁 正徳3年11月11日(1713年12月28日)から正徳3年12月5日(1714年1月20日) 第27帖 乙女下 80丁 正徳3年12月5日(1714年1月20日)から正徳3年12月29日(1714年2月13日) 第28帖 玉鬘上 42丁 正徳4年1月1日(1714年2月15日)から正徳4年1月13日(1714年2月27日) 第29帖 玉鬘下 70丁 正徳4年1月13日(1714年2月27日)から正徳4年1月28日(1714年3月14日) 第30帖 初音 70丁 正徳4年1月28日(1714年3月14日)から正徳4年2月26日(1714年4月10日) 第31帖 胡蝶 66丁 正徳4年2月26日(1714年4月10日)から正徳4年3月25日(1714年5月8日) 第32帖 蛍 75丁 正徳4年3月25日(1714年5月8日)から正徳4年4月27日(1714年6月9日) 第33帖 常夏 83丁 正徳4年4月27日(1714年6月9日)から正徳4年5月18日(1714年6月29日) 第34帖 篝火 16丁 正徳4年5月18日(1714年6月29日)から正徳4年5月21日(1714年7月2日) 第35帖 野分 61丁 正徳4年5月21日(1714年7月2日)から正徳4年6月5日(1714年7月16日) 第36帖 行幸上 54丁 正徳4年6月5日(1714年7月16日)から正徳4年6月24日(1714年8月4日) 第37帖 行幸下 50丁 正徳4年6月24日(1714年8月4日)から正徳4年7月10日(1714年8月19日) 第38帖 藤袴 53丁 正徳4年7月10日(1714年8月19日)から正徳4年7月23日(1714年9月1日) 第39帖 槇柱上 57丁 正徳4年7月23日(1714年9月1日)から正徳4年8月04日(1714年9月12日) 第40帖 槇柱下 70丁 正徳4年8月04日(1714年9月12日)から正徳4年9月10日(1714年10月18日) 第41帖 梅枝 76丁 正徳4年9月10日(1714年10月18日)から正徳4年10月3日(1714年11月9日) 第42帖 藤裏葉 82丁 正徳4年10月3日(1714年11月9日)から正徳4年10月30日(1714年12月6日) 第43帖 若菜上一 87丁 正徳4年11月2日(1714年12月8日)から正徳4年11月22日(1714年12月28日) 第44帖 若菜上二 130丁 正徳4年11月23日(1714年12月29日)から正徳4年12月26日(1715年1月31日) 第45帖 若菜下一 86丁 正徳5年1月1日(1715年2月4日)から正徳5年1月25日(1715年2月28日) 第46帖 若菜下二 11丁 正徳5年1月25日(1715年2月28日)から正徳5年2月27日(1715年4月1日) 第47帖 柏木 75丁 正徳5年2月27日(1715年4月1日)から正徳5年3月19日(1715年4月22日) 第48帖 横笛 49丁 正徳5年3月19日(1715年4月22日)から正徳5年4月3日(1715年5月5日) 第49帖 鈴虫 32丁 正徳5年4月3日(1715年5月5日)から正徳5年4月9日(1715年5月11日) 第50帖 夕霧 126丁 正徳5年4月9日(1715年5月11日)から正徳5年5月8日(1715年6月9日) 第51帖 御法 36丁 正徳5年5月8日(1715年6月9日)から正徳5年5月17日(1715年6月18日) 第52帖 幻 47丁 正徳5年5月17日(1715年6月18日)から正徳5年5月25日(1715年6月26日) 第53帖 雲隠 6丁 正徳5年5月25日(1715年6月26日)から正徳5年5月26日(1715年6月27日) 第54帖 匂宮 38丁 正徳5年5月26日(1715年6月27日)から正徳5年6月8日(1715年7月8日) 第55帖 紅梅 46丁 正徳5年6月8日(1715年7月8日)から正徳5年6月20日(1715年7月20日) 第56帖 竹河上 54丁 正徳5年6月20日(1715年7月20日)から正徳5年7月2日(1715年7月31日) 第57帖 竹河下 54丁 正徳5年7月2日(1715年7月31日)から正徳5年7月12日(1715年8月10日) 第58帖 橋姫 84丁 正徳5年7月12日(1715年8月10日)から正徳5年7月30日(1715年8月28日) 第59帖 椎本上 46丁 正徳5年7月30日(1715年8月28日)から正徳5年8月9日(1715年9月6日) 第60帖 椎本下 46丁 正徳5年8月9日(1715年9月6日)から正徳5年8月16日(1715年9月13日) 第61帖 総角上 80丁 正徳5年8月17日(1715年9月14日)から正徳5年8月28日(1715年9月25日) 第62帖 総角下 99丁 正徳5年8月28日(1715年9月25日)から正徳5年9月12日(1715年10月9日) 第63帖 早蕨 45丁 正徳5年9月12日(1715年10月9日)から正徳5年9月18日(1715年10月15日) 第64帖 寄木上 88丁 正徳5年9月18日(1715年10月15日)から正徳5年10月3日(1715年10月29日) 第65帖 寄木下 123丁 正徳5年10月2日(1715年10月28日)から正徳5年10月24日(1715年11月19日) 第66帖 東屋上 78丁 正徳5年10月24日(1715年11月19日)から正徳5年11月7日(1715年12月2日) 第67帖 東屋下 80丁 正徳5年11月7日(1715年12月2日)から正徳5年11月19日(1715年12月14日) 第68帖 浮舟上 76丁 正徳5年11月19日(1715年12月14日)から正徳5年12月1日(1715年12月26日) 第69帖 浮舟下 94丁 正徳5年12月1日(1715年12月26日)から正徳5年12月28日(1716年1月22日) 第70帖 蜻蛉 130丁 正徳6年1月4日(1716年1月28日)から正徳6年2月8日(1716年3月1日) 第71帖 手習上 62丁 正徳6年2月8日(1716年3月1日)から正徳6年2月18日(1716年3月11日) 第72帖 手習下 72丁 正徳6年2月18日(1716年3月11日)から正徳6年2月28日(1716年3月21日) 第73帖 夢浮橋 47丁 正徳6年2月28日(1716年3月21日)から正徳6年閏2月5日(1716年3月28日) その他、近衛基熙の日記『基煕公記』などには、以下のような本書の成立等に関する記述がみられる。 桐壷を書き始めた正徳2年8月9日(1712年9月9日)に北野天満宮に成就の祈願を行う。 夢浮橋を書き終えた後、正徳6年閏2月21日(1716年4月13日)に北野社に終功の礼を行う。 正徳6年閏2月25日(1716年4月17日)に一簣抄の序を書く。 享保2年12月15日(1718年1月16日)に一簣抄に朱を入れ終える。 享保2年12月16日(1718年1月17日)に北野社に神楽を奉納する。 享保2年12月17日(1718年1月18日)に近衛家久に一簣抄の表装についての指示を与える。 本書完成の直後、近衛基熙から孫の近衛家久への「伊勢源氏切紙伝授」が行われている。 享保2年12月18日(1718年1月19日)に近衛家久の父近衛家熙と伊勢源氏切紙伝授の打ち合わせを行い、「光源氏物語一函」及び「御抄一函」を文庫(陽明文庫)に納める。 享保2年12月23日(1718年1月24日)に近衛基煕が近衛家久に伊勢源氏切紙伝授を行う。 享保3年2月3日(1718年3月4日)に近衛家久が「一簣抄目録」を書き上げる。 享保4年5月20日(1719年7月7日)に近衛基煕が題箋73枚を書き上げる。 また、『基煕公記』享保2年10月16日(1717年11月18日)条には、近衛基煕の娘である江戸幕府第6代征夷大将軍徳川家宣正室近衛熙子との間で『一簣抄』2冊が返されてきて、次巻を借り受けたい旨申し出があった旨記されており、このとき以外にも本書を数冊づつ借り受けたり返却したりしたことを示す消息文が、いくつか陽明文庫に残されている。
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成立までの経緯
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魏書の正史の中での特徴として、 本紀冒頭に置かれる「序紀」に、北魏朝創建以前の拓跋部の記事を記している点(古田武彦は、この書法が日本書紀に影響を与えたとしている) 北斉において編纂されたため、東魏・北斉を正統な後継者としている点 正統王朝を曹魏 - 西晋から北魏に直接繋いでおり、南朝はもちろん一時的に華北を統一した前秦の正統性も認めていない。むしろ、匈奴の漢の劉淵・後趙の石勒は、西晋の天下を乱した元凶として槍玉に挙げられている。 列伝には、五胡の諸国や、南朝の伝も立てる点(東晋以下南朝諸王朝の正統性を認めないため「列伝」での扱いとなる) 仏教・道教関連の記事を収める釈老志を立てている点 などを挙げることができる。 ただ、魏書は編纂当時より、敵国を著しくけなしていることに定評がある。西魏の三帝の本紀を立てず、南朝を「田はやせている。島夷が着飾っているようなものだ。中原の人々はみんな江東の連中のことを「貉子」(タヌキ)といっているが、まあ狐や狸の類には相違ない」とけなしているため、作者の私怨を晴らすために公正を欠いた記述がなされているという非難を浴びており、「穢史」(汚れた歴史)という呼ばれ方もされている。 また、西魏・北周・隋を正統とする魏澹撰の『魏書』(92巻)や、唐の張大素撰の『後魏書』(100巻)も存在したが、散佚しており今日には伝わらない。また、西魏単独の史書としては時代が下って清の謝啓昆撰の『西魏書』(24巻)がある。 現存する魏収の魏書も、北宋代に校訂されたときに30巻ほど散佚が発見され、『北史』によって欠を補ったという記録があり、またテキストにも補足部分が明記されている。
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成立までの経緯
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「河内本源氏物語校異集成」の記事における「成立までの経緯」の解説
池田亀鑑によって1942年に出版されて以後最もよく使われている源氏物語の校本である『校異源氏物語』及びそれを引き継いだ『源氏物語大成校異編』においては、大島本などの青表紙本系統の写本を底本としており、「簡明を旨とする」との方針の下で漢字と仮名の使い分けや仮名遣いや音便の違いなどは省略されることが多く、また対校本としての河内本(及び別本)の採用は限られたものになっており、さらにその中でも河内本の校異の表示は「元来河内本は青表紙本とは甚だしく相違するものである」ために「青表紙本と同じ基準で校異を採用するとその数はおびただしい数」になるため「本書のような形式ではその全てを掲載するのは不可能である」から「河内本としての性格を明らかにするもの」等に限らたものになっている。源氏物語大成は、源氏物語としては西洋古典学の本文研究の成果を本格的に取り入れた初めての学術的な校本であり、これが完成した当初は、「これで源氏物語本文の研究はほぼ完成した。これからはこの研究結果を元にして(作品論などの)次の段階の研究に進めばよい。」等として源氏物語の本文研究はもはや不必要であるかのような論調すら存在したが、源氏物語の本文研究が進展し、それぞれの研究がより精緻になるに従って、源氏物語大成のこのような点が不十分であるとして問題視されるようになってきた。本書は、河内本源氏物語に関する全校異の集成と、それによって河内本源氏物語の成立過程解明の目途を探ることを目的として、上記の批判に応える形で「源氏物語大成校異篇」の底本を正確に翻刻し直すとともに、底本に対する河内本諸本の校異を「源氏物語大成」で青表紙本に対してとられているのと同程度の基準でまとめ、さらには源氏物語大成で採用されていない河内本系の写本の校異も採録したものである。底本の本文そのものは収録していないため校異源氏物語または源氏物語大成校異編と併用する必要はあるものの、冒頭の「桐壺」巻から最終巻の「夢浮橋」までこの1冊で河内本系写本の源氏物語の異同の全てがわかるようになっている。本書による校異の増補は桐壺巻から幻巻までで約16,000項目、匂宮巻から夢浮橋巻までで約8,300項目に及んでおり、校異の補訂は桐壺巻から幻巻までで約3,600箇所、匂宮巻から夢浮橋巻までで約2,000箇所に及んでいる。 これらの作業は、「河内本源氏物語の諸本調査と校異作成およびそのデータベース化についての研究」・「河内本源氏物語の本文成立史に関する基礎的研究」・「河内本源氏物語の本文成立史に関する基礎的研究」などの形で平成4年度以降文部省(文部科学省)の科学研究費補助金を受けて行われたものであり、その成果は1993年(平成5年)から1997年(平成9年)にかけて「文部省科学研究費補助金研究成果報告書」及びその付録としてまとめられ、以下のような形で私家版として出版された。通常このような報告書はA4版で作成されるが、これら一連の報告書は『源氏物語大成』と併用されることを意図しており、その判型に合わせるためB5判になっている。これらは市販はされなかったものの、国立国会図書館をはじめとする幾つかの図書館に収蔵されて公開されている。 『源氏物語大成 校異篇 河内本校異補遺 稿(一)』(桐壺巻から葵巻まで、1993年(平成5年)) 『源氏物語大成 校異篇 河内本校異補遺 稿(二)』(賢木巻から朝顔巻まで、1994年(平成6年)) 『源氏物語大成 校異篇 河内本校異補遺 稿(三)』(少女巻から若菜下巻まで、1995年(平成7年)) 『源氏物語大成 校異篇 河内本校異補遺 稿(四)』(柏木巻から早蕨巻まで、1996年(平成8年)) 『源氏物語大成 校異篇 河内本校異補遺 稿(五)』(宿木巻から夢浮橋巻まで、1997年(平成9年)) これらの各書は作業の進展に伴って表記方法に改良が加えられたり、直接調査することのできた写本が途中から増えたりしているため、夢浮橋巻までの作業が一旦完成した後に全体を統一した形で書き直し、一冊に仕上げ2001年(平成13年)になって市販されることになったものが本書『河内本源氏物語校異集成』である。 加藤洋介は、定家本(青表紙本)及び別本についても本書と同様の作業を継続して行っており、その成果は定家本源氏物語校異集成(稿)及び別本源氏物語校異集成(稿)としてネット上に公開されている。
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成立までの経緯
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「少子化社会対策基本法」の記事における「成立までの経緯」の解説
少子化問題への策として、与野党ともに少子化社会対策に関する基本法の制定の機運が高まった1999年1月、超党派の議員による「少子化社会対策議員連盟」が設立され、同年12月に議員立法として「少子化社会対策基本法案」が衆議院(第151回国会)に提出された。 その後、継続審議扱いとなり、衆議院解散により審査未了廃案となったが、2001年6月に再提出され、数回の国会で継続審議扱いを経て、2003年7月に成立した。 原案発議者(立法者)議員名所属政党中山太郎 自民党 荒井広幸 自民党 西川京子 自民党 福島豊 公明党 井上喜一 保守新党 五島正規 民主党 肥田美代子 民主党 近藤基彦 自民党 粟屋敏信 無所属の会
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成立までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 15:37 UTC 版)
慶長6年(1604年)に江戸町奉行となり、明和4年(1767年)には武蔵国、下総国、上総国、常陸国、安房国の5国に散在する村落1万1000石の領地を有していた米津家だったが、寛政10年(1798年)に武蔵国の領地のうち6400石を出羽国と移し替えられて、武蔵国久喜から出羽国長瀞に陣屋を移して長瀞藩となった。長瀞藩は出羽国に本拠を置いたため、後の戊辰戦争の東北での戦場となり、戦火によって長瀞陣屋と町を失った。明治2年(1869年)に版籍を奉還して長瀞藩知事に就任した米津政敏は、分散した領地には統治が行き届かないことを理由に、長瀞から上総国の大網村へ移って大網藩と改称する。続いて、政敏は分散した自領を一まとめにするよう新政府に願い出た。新政府は明治3年(1870年)5月、まず出羽国(明治元年より羽前国)の領地を山形県に組み込んで、代地として武蔵国埼玉郡、上総国山辺郡を大網藩に渡すよう宮谷県に通達された。ところが、明治4年に大網村の宮谷県への移管が命じられた。これによって移封を余儀なくされた大網藩には出羽国の代地に加えて、大網村の代地、常陸国河内郡龍ヶ崎村らを与えられることになり、これをもって1万1000石の龍ヶ崎藩が成立する。
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